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ジーゲルからモーデルへの手紙

皆さんは論文なり本なりを丸ごと筆写した経験がおありでしょうか?
私がまだ学生だった時にいろいろな論文を筆写して、その分量は分厚い大学ノートで約50冊くらい手元に残っています。勿論当時もコピー機はあったのですが、著作権の問題等が叫ばれていましたし、大学図書館が経費削減のため丸ごとコピーということにいい顔をしなかったことも一つの理由ですが、私自身を論文や本に馴染ませたいという気持ちの方が勝っていました。膨大な数の論文等を毎回筆写するのは限られた時間では不可能ですし、愚の骨頂です。ですから、これはと思う論文等を選ばなければなりません。この方法は特に不慣れな外国語の場合に有効だと思います。筆写する時のポイントとして、内容自体には深く入り込まないで正確に丁寧に心を込めて筆記することです。今でも経典を筆写して奉納される方々がいらっしゃいますが、それと同じ気持ちだと言えばいいでしょうか。出来上がった筆写ノートを読む時には驚くほど自分に馴染んでいることに気がつくでしょう。
話が飛びますが、春先に大学で教鞭を取っている友人の一人と会いました。彼は90年代初頭に私が書いた古い手紙を持参して来ました。その手紙は勿論手書きでして、そこには知る人ぞ知る有名な手紙の原文丸ごと筆写されていました。その原文を私がどこで入手したのか教えて欲しいとのことでした。彼に送った手紙は勿論私も見覚えがあるのですが、筆写した原文のソースには記憶が無く、後日調べておくからと言って別れました。あちこちといろいろな場所を探してみて、筆写ノートの束の中の一冊に原文が筆写されていたことが分かりほっとしましたが、肝心のソースはどこかを記述されていませんでした。90年代初頭の日本にはインターネットはありましたけれども(しかし、インターネットプロバイダーはまだ無かったと思います)、今で言うところのパソコンは非常に高価で、何よりも肝心のブラウザーそのものがまだ一般的ではなくgopherが使用されていた時代なので、当時(まだ大学に籍があった)私がいわゆるワークステーションを使い海外の研究者とのメール交換で入手した可能性も否定出来ません。その旨を友人には電話で報告し、ソースが不明なことを友人は残念がりましたが、私の筆写訓練を知っているので間違いは無かろうと言ってくれました。
この問題の原文に付随するゴシップは数学界では有名な話ですが、今や若い人や学生には知らない人も多いだろうから以下簡単に説明します。
故サージ・ラング博士の著書"Diophantine geometry"[ディオファンタス幾何学]というのがあります。この本の書評で故モーデル博士が細部に渡って痛烈に批判し、何よりもラング博士の本を書く姿勢に問題ありと指摘しました。このモーデル博士の書評については今は公開されているので興味ある人は原文を探してみてください。その書評を読んだ故ジーゲル博士は全面的に賛同だと言ってモーデル博士に手紙を書きました。上述の原文とはこの手紙のことを指します。
確かにモーデル博士の言う通り、ラング博士の著書には間違いや出鱈目が少なくないことは数学界ではいわば常識です。まともなのは"Algebra"(この本も間違いが無いとは言いません)くらいではないかと言われています。志村五郎博士が最近の著書で"無数の教科書を書いたアメリカ人"の本には間違いが多いという趣旨のことを書かれていたとか聞きましたが、そのアメリカ人とはラング博士のことを指すことも数学界では常識です。以前私の入院が長引きそうになったので、暇つぶしに間違い探しをしようと思いラング博士の"Complex Analysis"[複素解析](第3版)を持ち込んだ話を書きましたが、間違いの多さに呆気に取られ、間違い探しの気持ちも薄れました(間違いが少ないがゆえに間違い探しをする意味があるのであって、あちらこちらに間違いがあれば探す意味がないでしょう)。例えばローラン展開の簡単な実例で展開式が間違っているとか等挙げればきりがなく、難しく込み入った個所なら納得もしますが、初学者がしっかりと理解しなければならない個所に間違いがあり、しかも第3版ですよ。ちょっとおかしいと思いました。ラング博士は原稿の段階で誰か他者(担当編集者ではなく数学的に訓練を受けた人)に閲読を頼んだことがないとも聞きました。ゲラ刷りの段階でおそらく博士は目を通した(と思いたいです)のでしょうが、論文や本を書いた人なら分かるように著者自身の校正ほど当てにならないものはありません。一説にはわざとやっているのではなかろうかという陰口もあります。つまり故意に間違いを残し、改訂版を次々に出す口実にして、前読者も買うように誘導していると。そう言われてみれば、確かに改訂を出すサイクルが非常に早いです。
以上がジーゲル博士の手紙の背景なのですが、何故今更友人がこの話題を持ち出したかを訊ねました。学生の一人が知ったかぶりにジーゲル博士の手紙を話題にしてモーデル博士やジーゲル博士の年寄り的頑迷さを揶揄するようなことを話したらしく、温厚な友人がちょっと気色ばんで「君は手紙の原文やその他の関連資料を読んだのか。その上でそのような発言をしているのなら、それはそれで君の考え方だからよしとしよう。だが、何も読んではいなくて、又聞きで発言しているのなら恥ずかしいと思うよ」という趣旨のことを言ったそうです。その学生は実際には何も読んでおらず、詳細なことは聞いていませんが、おそらく学部学生でしょう(しかし、この学生に限らず今の日本人にはこういう不遜な輩が多いことも事実です。私の身辺の外国人の方々から言わせれば成熟していない、すなわち子供っぽいのです。海外で日本人が実年齢よりもかなり若く見られるのは外見だけではなく、そういうところにも原因があるようです)。大学院生や研究生なら学生と言えども、研究者の端くれだから研究の厳しさ、困難さ、そして何よりも自己の数学的能力の限界を実感している(と言うか、いやでも自覚せざるを得ません)ので、自然に頭が垂れて来て先達の偉人たちを嘲笑するほどの余裕を持たないはずなのです。勿論、モーデル、ジーゲル両博士に匹敵する数学的業績もしくは才能を持っているならばその限りではございません。
いずれにせよ、歴史的資料となるのかどうか分かりませんが、その手紙の原文とその私訳を若い人達の便宜のため以下に載せておきます。なお、原文(と言っても私の筆写からのもの)も手入力ですので間違いがあれば私の責任であり、ジーゲル博士ではありません。また、いつか時間を見ては、ジーゲル全集もしくは書簡集があれば図書館で調べるつもりです。

[追記: 2019年03月20日]
このペィジは2012年10月29日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

ジーゲルからモーデルへの手紙
ゲッティンゲン 1964年3月3日

[原文]
                                                                                                                                                                                       Göttingen, March 3, 1964
 Dear Professor Mordell,

 Thank you for the copy of your review of Lang's book. When I first saw this book, about a year ago, I was disgusted with the way in which my own contribution to the subject has been disfigured and made unintelligible. My feeling is very well expressed when you mention Rip van Winkle!
 The whole style of the author contradicts the sense of simplicity and honesty which we admire in the works of masters in number theory ― Lagrange, Gauss, or on a smaller scale, Hardy, Landau. Just now Lang has published another book on algebraic numbers which, in my opinion, is still worse than the former one. I see a pig broken in a beautiful garden rooting up flowers and trees.
 Unfortunately there are many “fellow-travelers” who have already disgraced a large part of algebra and function theory; however, until now, number theory had not been touched. Those people remind me of the impudent behaviour of the national socialists who sang:“Wir werden weiter marschieren, bis alles in Scherben zerfällt!”
 I am afraid that mathematics will perish before the end of this century if the present trend for senseless abstraction ― as I call: theory of the empty set ― cannot be blocked up. Let us hope that your review may be helpful.
 I still remember the nice time we had together during your visit in Göttingen.

 With best wishes, also to Mrs. Mordell,
 Carl Siegel

[私訳]
モーデル先生

ラングの本についての貴方の書評の一部を下さって有難うございます。約1年程前、最初にこの本を見た時、私自身の貢献の美観が損なわれ、理解不能にされた有様に呆れました。私の気持ちは、貴方がリップ・ヴァン・ウインクル[訳注: Irving作"The Sketch Book"に収められている短編に登場する主人公の名前。20年間眠っていた主人公が寝覚めた時には世の中が一変していたという寓話。日本で言えば浦島太郎みたいなものです]に言及する時にうまく表現されています!
著者の全スタイルが、数論における達人(ラグランジュ、ガウス、もしくは、もっと小規模ではハーディー、ランダウ)の研究にある、我々が感嘆する簡潔さと誠実さの価値を否定しています。つい先ほど、ラングはもう一つ別の代数的整数論に関する本(私見によれば前の本よりも更に悪いです)を刊行したばかりです。頭のいかれた豚が美しい庭園で花や木を根こそぎにしているのを見ます。
残念ながら、既に代数学と函数論の大部分を汚してしまった多くの"お仲間連中"[訳注: これはブルバキ第3世代を指していると思います]がいます。しかし、今までは数論に手をつけなかった。それらの人達は"我々はすべてが粉々になるまで進もう!"と歌ったドイツ国家社会主義者の傍若無人な行動を私に思い出させます。
無意味な抽象化(私が呼ぶところの空集合の理論)の現風潮を閉じ込められなければ、今世紀の終わりまでには数学が破滅するのではないか、と恐れます。貴方の書評が助けになるであろうことを望みたいです。
貴方のゲッティンゲン訪問中に、私達が共有した楽しい時間をまだ憶えています。

では、お元気で。夫人によろしく。
カール・ジーゲル

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