スキップしてメイン コンテンツに移動

インタビュー: ジョン・スチュワート・ベル

今回紹介するのは物理学者の故ジョン・スチュワート・ベル博士のインタビュー記事です。ベル博士の功績を今更くどくど申し上げるまでもないでしょうが、いわゆるベルの定理の創案者です。このベルの定理の実験的検証によって量子もつれが確認され、量子暗号理論等の研究の道を開きました。ベルの定理の重要性はいくら強調しても足りないくらいです。
ベル博士は1990年に脳出血により享年62歳で急死されました。ノーベル賞候補に挙げられていたのですが、もう少し生きながらえていたならと残念でなりません。このインタビューは急死の2年前ですから、今思うと最晩年ということになります。
インタビューはOmniという通俗科学雑誌の1988年5月号に掲載されたのですが、数理物理をやっている友人から教えてもらうまでインタビューの存在を知りませんでした。正直言ってOmniという雑誌(もうかなり昔に廃刊されました)は私の認識からすれば、もっとも低俗な部類に入るので、友人から聞いてびっくりしました。つまり、ベル博士ともあろう人がよくインタビューに応じたなと思いました。
インタビューの原文は保存状態が悪く非常に読みにくいです。おそらく今後も和訳されることはないでしょう。その私訳を以下に載せておきます。
なお、いくつかコメントしておきたいことがあります。ベル博士はフォン・ノイマンの証明が間違っていると言っているのですが、これは博士の誤解です。数学的には間違っていません。ここで詳細を述べることは不可能ですが、大雑把な説明をしておきます。私訳の言葉を用いて言えば、

フォン・ノイマンの想定する非統計的理論 ⊂ 隠れた変数の理論

だということです。すなわち、フォン・ノイマンの証明は決して隠れた変数理論の全般を排除するものではないのです。それが証拠に数学的議論をする間でもなく、50年代の故ボーム博士の理論等があって、そして何よりも量子もつれが意味するようにフォン・ノイマンの証明は限定されるのです。ただ、誤解を受けても仕方がないくらいフォン・ノイマンは曖昧な言い方をしています。嘘と思うならば、フォン・ノイマンのMathematische Grundlagen der Quantenmechanik[量子力学の数学的基礎]を独語原書で読んで見てください。但し、英訳や和訳だと曖昧さの痕跡が残っていない可能性があります。ですから、ベル博士は原書を読んだのではないかと私は推測します。いずれにせよ、本来ならば、当時のフォン・ノイマンの立場や量子力学の基礎をめぐる論争を考えれば、フォン・ノイマンは「但し、隠れた変数理論全般を排除するものではない」と言う趣旨の文言を入れておくべきだったのです。それをしないから、例えば、数学的素養があると一般的に思われていたマックス・ボルンでさえ、その著書Natural Philosophy of Cause and Chance[原因と偶然の自然哲学]で"no concealed parameters can be introduced with the help of which the indeterministic description could be transformed into a deterministic one."[隠れた変数を用いて非決定的記述が決定的記述に変換され得るような隠れた変数は導入されるはずがない]などと寝惚けたことを書くことになったのです。最近のいくつかの論文でフォン・ノイマンはその証明の限界を知っていたという趣旨の擁護が見受けられますが、私から言わせれば「そりゃそうでしょう」と言うしかありません。あのフォン・ノイマンが下辺な私でさえ分かるようなことを知らなかったはずがありませんから。ですが、フォン・ノイマンがその後物理学者達の誤解を解くことさえもしなかったということは事実です。要はフォン・ノイマンは真実よりも自分の名声を重んじたということです。
以上をまとめますと、下の私訳でのベル博士の言葉"フォン・ノイマンの証明は間違いのみならず馬鹿げている"の前半は言い過ぎですが、後半は全く頷けます。

[追記:2014年2月13日]
私の友人共の一人から、私の過激発言(?)を聞いた外国の知人の数人から問合せが何回かあり、いちいちメールで答えるのが面倒なので、私がフォン・ノイマンのかの本をどう思っているか、ずばり一言で以下に英語で書いておきます。
P.S. On 13th February 2014
Most Japanese are shamelessly lions at home and mice abroad, by which I'm taken aback once in a while; I'm, however, anything but such a coward.
Although I don't want to second-guess him, von Neumann, if nothing else, being biased in favour of the Copenhagen school, wrote that book to put the kibosh on Einstein's expectations, I reckon. That's all there is to it.

[追記: 2014年2月21日]
その後、この私訳を読んだ、前述の友人とは別の友人がP. C. W. Davies博士等の編集による"The Ghost in the Atom: A Discussion of the Mysteries of Quantum Physics"という本を持って来てくれて、ここにもベル博士の別インタビューがあることを知りました。他にもボーム博士等のインタビューもあり、一晩で読了したぐらいに大変面白かったです。インタビューはインタビュアーの質(と言うよりも、本当は読者層のレベルを反映していると言うべきなんでしょうが)によって面白みが左右されます。この本に関して、僭越ですが私もアマゾンにてレビューを書きましたのでご参考までにどうぞ。

[追記: 2019年03月21日]
このペィジは2014年02月11日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

インタビュー: ジョン・スチュワート・ベル
1988年5月

20年以上前にジョン・ベルは、量子力学の開祖の一人である、デンマーク人の偉大なる物理学者ニールス・ボーアを叱る機会があった。"それは、CERNの落成式だった"とベルは思い出す。"私は彼と一緒にホテルのエレベーターで階に上がった。「貴方のコペンハーゲン解釈は糞だ」と言う勇気がなかった。他にも、エレベーターに乗っている時間は長くなかった。今、エレベーターが階の途中で動けなくなっていたなら、それは私の全盛期を作っていただろう! いずれにせよ、分からない"とベルは大笑いする。
素粒子物理学者達の偉人の中でベルは重要な位置を占めている。ジュネーヴの外側に位置するCERN(欧州原子核研究機構)で彼は研究しており、同僚達は彼を明敏な難問解決者だと考えている。もっと冒険的な人々が無謀に先頭に立った後に残された、小さな具体的な問題の筋道を辛抱強く解決することで、彼はゆっくりだが確実に分野の発展を促進しているフエローである。だが、原子の世界を記述する理論、量子力学の意味を解釈する彼の研究のため、彼を知的聖人と見なす人々(殆どが非科学者)の別の集合がある。彼等にとって、彼はちょっとした量子論グルだ。
赤毛で赤ひげのベルは量子力学にいつも悩まされて来た。1928年に北アイルランドのベルファストに生まれて、彼は地方の工科大学にいた間に始めて量子論に出会い、実に変だと思った。量子力学は素粒子の世界―電子、光子、等々―の実在物を突き止められないと言っているようだった。それらの実在物は、科学者が具体的な実験を行うような、特殊な環境で"現実化される"まで、ランダムな確率のもやの中にある。それは、物質の概念は実際には人間によって作られていることを意味するのか? それが実際にボーアのコペンハーゲン解釈の示唆だった。アインシュタインはそれに疑問を投げかけたが、無駄だった。彼は未来の物理学者達が目下未知の要因を発見するだろうと主張した。これらの"隠れた変数"が量子力学のランダム性と不確定性を削除し、あたかもビリヤードボールであるかのように物理学者達に測定を許すだろう。他の人達は決定論(確実性の古い信念)への、そんな回帰は不可能だと主張した。物質の最低レベルにおいて、物事を見るまで実際には存在しないと言った。
ベルは1949年に大学を卒業し、加速器物理学者として研究を始め、1960年にCERNで関係した。コペンハーゲン解釈について留保を抱き続けていたので、とうとう彼はそれへ論駁することに乗り出した。彼が驚いたことには、量子力学が誰もが思っているよりも、もっと変だと彼の結論は示した。2つの素晴らしい論文(最初は1965年に発表された)の中で、彼はベルの定理として知られているものを証明した。大雑把にベルの定理は、粒子がどんなに離れていても、2つの粒子が反対方向に放射されて、それらのうちの一つの粒子の特性が測定によって"現実化される"時、もう一つの粒子の特性に相関関係があると判明するか、またはそれも測定される時は連結されることを言っている。あたかも2つの粒子の間で、ある種の即刻のコミュニケーションがあるかのようだ。ベルの定理は数学的に"隠れた変数"が、この関係性を説明するだろうという可能性を否定した。たとえ粒子間の間が何光年離れていても、どういう訳か粒子達は連結される。
それが素粒子の"考える"能力、宇宙の基本的"全体性"、光速よりも速いコミュニケーション、その他の"下らない大騒動(foofaraw)"(偉大なる物理学者、故リチャード・ファインマンは"科学カルトの積荷"と呼んだ)を証明していると思う、ある大衆作家達の間で、ベルの定理は信仰に近い地位を得て来ている。実験がベルの定理を証明したので、Michael Talbotは最近Beyond the Quantum[訳注: 量子を超えて]の中で"私達が知っている現実性は、素粒子レベルにおいて存在しないという最終証明"と書いた。ベル自身がダライラマとの食事に呼ばれたことや、マハリシ大学へ学生と教員に講演するため行ったことがある。物理学者であり妻であるメアリーと素粒子加速器について話をすることが何よりも好きな、自称"冷血な"物理学者としては、奇妙な付き合いだ。
私達は最初電話でベルに、"現実性は存在しない"ことを示したと彼自身は思ったのか訊いた。彼はナンセンスに耐えられない、短気でかんしゃく持ちのタイプだと私達に警告して、そうだと答えた。しかし、私達と話することに賛成し、予約をメモした。私達は後で、彼の物理学者用ポケットダイアリーの中で、有名科学者達の誕生日をリストしていることを知った。私達は実物で、彼が長時間非常に辛抱強く私達と語る、柔らかな口調の男だと分かった―Charles Mann、Robert Crease

Omni: 学生時代から物理学にいつも興味があったのですか?
ベル: 最初は哲学に興味があった。しかし、それから、哲学者達の各世代が前の世代を一掃しているように思えたので、私は哲学に不満を持った。物理学に入ったのは、物理学が哲学とそんなに離れていず、知識の蓄積があるからだった。
Omni: 物理学者達の各世代が前の世代を一掃して来ているのではないのですか?
ベル: 違う。科学的大変革―大きな変化は少数のポイントであることが事実だと私は思う。だが、何かがスクラップされることは滅多にない。アインシュタインの空間概念がニュートンのものを置換えているけれども、私達はまだニュートンの方程式を持っている。量子場理論が古典的理論を置換えているけれども、私達はまだマクスウェルの方程式を持っている。いろいろな事が方法になるとガリレオは言った。それすべてが徐々に大きくなる。
私が量子力学を学びに来た時(大学に入ってすぐだった)、その説明に不満なことが分かった。この波動関数―それが現実のものか、または一種の簿記的操作なのか人は知らなかった。
Omni: 波動関数とは何ですか?
ベル: 電子について慎重な実験を行うなら、電子が古典力学に従って行動しないことが分かる時点が来る。電子はある種の波に影響を受けているらしいので、干渉縞を示せる。すべての電子ではないが、写真板に到着する多くの電子が干渉縞を築き上げる。だから、どういうわけか、粒子(板に小さな斑点の連続を見ているのだから)と波(ある方法で粒子達を指示している)を持つ。この波と粒子達の間の関係は本当に明快に理解されたことがない。人は波の数学を知っており、波の振幅を粒子に対する確率分布(粒子が出現する場所を描いている、一種の数学的"地図")へ変換させるルールを持っているが、物理学者達は本当に波がそこにあるのかどうかについて意見が一致したことがない。
Omni: だから量子力学は、これらの粒子達を波の観点から説明し、それが通常の意味で現実なのか誰も確信していない。では、いったい現実のオブジェクトは世の中にあるのでしょうか?
ベル: 世の中に何かがあると私は信じる。だが、量子力学と共に成長して来た哲学、コペンハーゲン解釈が疑問の中に現実を呼び入れている。それは、世の中に何かがあると仮定する権利を私達は持たないと言っている。おそらくグロススケールにおいて私達は権利がある。貴方が世の中にいると仮定する権利を私は有するが、貴方が世の中にある電子で形成されていると仮定する権利を私は有しない。私達の直接の経験を超えて、これらの事柄に取組む時、どういうわけか、"世の中にある"、"実際そこにある"等の概念がその関連性を失い始める。
Omni: これらの事柄の適切な数学的記述を何故私達は持っていないのでしょうか?
ベル: それを事柄の記述と呼ぶことは、既に事柄を意味しているということだ。普通の量子力学は"記述"と"事柄"の間の差を片付けていない。記述のみである。アインシュタインはいつも"何が事柄を記述しているのか?"と問うていた。保険数理表を考えてみよ。与えられた現在年齢の人の死亡確率年齢を特定する曲線を見るだろう。だが、それを意味あるものにするためには、人と死の概念を必要とする。曲線だけを持っているならば、"それは何の確率か?"と問うであろう。普通の量子力学において、この問いに対する答えがない―グロスレベルに来るまで(そこでは、実験結果の確率だ)。このように実験装置については語れる。しかし、電子等については語ることは許されない。それらを語れない・・・。
Omni: 言葉から離れて存在しないが、それでも私達にとって現実性を持つ文字に、これらの波は似ています。
ベル: それはいいアナロジーだ。かつ、本がそれでも一定の場所に結果を持つかのようだ。これらの架空の文字がここにあるが、ある時点で文字は架空であることを止める。
Omni: コペンハーゲン解釈とは何ですか? 説明してもらえますか?
ベル: コペンハーゲン解釈は非常に曖昧な用語だ。一部の人達はそれを、利用出来る実用量子力学(自分が何をしているのかよくわからないで自転車に乗れるようなもの)のタイプだけを意味するために使用する。量子力学を利用するためのルールであり、利用した経験だと。研究設備のような大きな事物があり、電子のような小さな事物がある。大きな事物は古典的に扱えるが、電子のような小さな事物は波に支配される力学を持つ。そして、小さな物と大きな物の間のスケールにはそんな差があり、どこに境界を引くかあまり問題ではない。実用量子力学のルール(全く不思議だが)は極端に上手く働く。これらもコペンハーゲン(少なくとも一部は)から来ていると言えるだろう。コペンハーゲンの天才ニールス・ボーアは、これらのルールを明確にした主要人物達の一人だった。そして、コペンハーゲン解釈にはもう一つ別のサイドがあって、それが全事柄に関する哲学だった。それは非常に深く掘下げて、これらの(貴方が不安に思っている)曖昧さがどういうわけか削減出来ないと教えようと努めている。曖昧さは事の性質上だと言っている。私達、観察者も自然の一部である。私達、観察者が関わっているのだから、起きていることのシャープな概念を私達が持つことは不可能だ。だから、混乱に人々を調和させる哲学がある。明快さに努力すべきでなく、それは世間知らずだ。"混乱が精巧にされている"。著名な人達が物理学者としての彼等にとって、この哲学は重要だと言うのを私は聞いたことがある。これらの事柄をどいうわけか理解し、彼等がしていることを除いて何も起き得ないと感じさせた。そして彼等は彼等の研究をどんどん進めた。アインシュタインは、"コペンハーゲンの真の信者は彼の頭を休めるためのソフトな枕の存在を知ることが出来る。彼をそこで横にさせよ!"から、それを"哲学の鎮静"と呼んだ。
Omni: 一学生として、貴方はコペンハーゲン解釈に安心しませんでした。
ベル: テキスト本に書かれていると私が思うことを教授達が繰り返しているのを分かった時、私は怒ってナンセンスだと言った。私は教授達を大いに悩ませたから、彼等は実際非常に寛大だった。しかし、時々彼等が我慢の限界だったのを見られた。
Omni: 問題の一部は、奇妙な波状のものが発生する量子世界があり、通常の非波状のものが発生する世界があって、それらの間の線引きがどこなのか分からないことです。色ブルーとグリーンがあるのを知っているが、どの時点でブルーが止まり、グリーンが始まるか分からないことと似ていますか?
ベル: 唯今の状況は、ブルーに対する方程式の集まりとグリーンに対するもう一つ別のものがあるということだ。境界において、非常に良い近似でブルーまたはグリーンのどちらかであって、さほど差が無いというふりを出来る。量子力学を使用せざるを得ない世界は非常に私達とかけ離れている。こことそこの間のどこかは言葉での変化だ。これまで実際には、どこで粒子から波へ、大まかに言えば言葉を変えるかは問題になっていない。それが、決定無しに実際にはやって行ける理由だ。しかし、理論的にまだ問題、そんなパズルである。あたかも分離された世界があるかのように研究する。つまり、ブルーの世界とグリーンの世界、ブルーの方程式とグリーンの方程式。正しいはずがない。
Omni: 貴方が大学に行った時、量子力学は二十歳未満でした。ニュートン力学(宇宙の万物は決定的で予測可能だと言いました)は量子力学(素粒子レベルにおいて、多くの事柄がランダムであり、法則はただ統計的に過ぎないであろうと言いました)に置換えられました。物理学者達はまだうろたえたのですか?
ベル: 量子力学が作られた時、"予測が統計的でない、もっと完全な理論を想像出来るのか?"と皆が問うたはずだ。アインシュタインとノーベル賞受賞者ルイ・ド・ブロイは確かに、この疑問を述べた最初の人達だった。だが、通常派軍は急に、いや、量子論で与えられたものより、もっと完全な記述が見つかる可能性は無い、となった。自然は本質的に統計的であるから、量子力学の統計的側面は暫定的または一時的ではないと。そして1932年には、数学者ジョン・フォン・ノイマンが、量子力学と同じ予測を与えるだろう非統計的理論を見つけられないという"厳密な"数学的証明を与えた。そのフォン・ノイマンの証明自体で、いつの日か歴史学の学生の学位論文のテーマになるはずのものだ。そのレセプションは非常に注目に値した。文献は"フォン・ノイマンの輝かしい証明"へのうやうやしい論及でいっぱいだが、その当時2人か3人よりも多くの人に読まれたはずがないと私は信じる。
Omni: それは何故ですか?
ベル: 物理学者達は、量子論が暫定に過ぎないかも知れないという考えに悩まされたくなかった。豊穣の角が面前で溢されて、すべての物理学者は量子力学を応用する何かを見つけられた。彼等は、この偉大な数学者が量子力学が正しいことを示したと喜んだ。それでも、フォン・ノイマンの証明は、貴方がそれに実際取組むなら、貴方の両手の中でボロボロに壊れる! 証明には何の根拠も無い。欠陥のみならず愚かだ。設定された仮定を見れば、片時も持ちこたえない。それは数学者の研究であって、数学的対称性を持つ仮定を設定している。それらは物理学的性質の観点に翻訳するならばナンセンスだ。それに関して私を次のように引用してよい。フォン・ノイマンの証明は間違いのみならず馬鹿げている。
Omni: アインシュタインは通常派の見解の欠陥を指摘しなかったのですか?
ベル: アインシュタインは、起こりは統計的でなかった統計的量子力学の向こうに何かが存在するはずだと確信した。1935年に、アインシュタイン、ボリス・ポドルスキー、ネイサン・ローゼンは彼等の有名な議論を作ったが、それは非常にパワーフルなものだった。量子相関性が離れたオブジェクト間に存在し、一定の環境では完全な相関性がそのようなオブジェクト間に存在するので、オブジェクトがしていることに独立したチャンスがあるとは考えられないであろうと言った。
Omni: 分かりません。コインを取って、それをエッジに沿って半分にスライスすると仮定しましょう。異なる封筒にそれぞれ半分を封印します。我々が一つを取り、貴方が別のものを取って、我々が地球の裏側に旅行します。我々が封筒を開け、表である。我々は貴方のものが裏だと分かります。何がそんなに奇妙なのでしょうか?
ベル: 表と裏は最初からずっとそこにあったのだから不思議は無い。しかし、貴方が見る瞬間まで、それぞれが表か裏のどちらかだということを信じないと仮定しよう。そして、表または裏を気まぐれに、危険を賭して、偶然に選ぶ。どうやって貴方は、他の人がその返答を仕切っているだろうことを信じられるだろうか? "見る前にそこにある"表と裏は単純に量子的記述に含まれない。それは貴方の観察の結果を告げている。あらかじめ波動関数があるだけで、波動関数は表も裏も持たない。アインシュタインはそれに反対した。私達が信じなければならない状況、つまり表と裏は最初からそこにあって、私達が見る時に露出されるに過ぎないことを理解せよと彼は言った。だから彼は貴方と同じく、これに対して常識的な考え方を取った。いいかね。アインシュタインは量子力学は不完全だという見解を取った。それは貴方に全ストーリーを語っていない。そして私にとって、アインシュタインのものは説得力のある議論だった。
おまけに、私が知りたいと思う心理歴史学的研究の一部は、アインシュタインの議論がコペンハーゲン学派の人達、特にボーアを感心させなかった理由だ。しかし、私が悪名高くなっているもの、いわゆるベルの定理が、まさにアインシュタインの説明がうまく行かないことを示しているのだから、これらの他の人達は結局、ある意味で正しかった。アインシュタインの説明は完全な相関性がある限りうまく行く。それは、2つのサイドにおいてスピンの同じ成分の測定を意味する(スピンは、軸における粒子の回転に似ているが、同じではない特性の測量である)。だが、平行でない向きで測定すると即座に、アインシュタインの考え(実験の前に答えは存在した)によって説明出来ない結果を得る。
Omni: 誰もアインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンに反応しなかったのですか?
ベル: 1952年にデヴィッド・ボームは、量子力学の十分に練られた隠れた変数理論的解説を与えた。その中では、すべてが決定的で明確だった。無知の類はトリビアルの類だった。自然は知っているが、私は知らない。それは私にとって大きなことだった。フォン・ノイマンが不可能だと示したことをボームがやったのだから、フォン・ノイマンが間違いだったと私に教えた。ボームの論文は厳密ではなかった。公理、定理、補題、系の大きな陳列が無かった。だが、彼の言っていることが正しいとすぐに分かるであろう。彼の研究と物理学コミュニティの他の人の研究についての私の留保は、それが非局所的であることだった。それは、貴方がここでしていること(ベルは指差して)は、離れた場所(ベルは窓の外を指差しながら)での直接の結果を持つことだ。そして、それは実に奇妙だった。
Omni: 局所性は何を意味するのですか?
ベル: 貴方のしていることが近くでのみの結果を持ち、遠くでの結果は弱く、光速によって許されている時間の後でのみ、そこに到着するだろうというアイデアだ。局所性は結果が連続的に広がり、距離を飛び越えないことだ。だから、疑問は即それ自体を提起した。それは不可避なのか? 非局所性の特徴を持たず、フォン・ノイマンに反駁する、もう一つ別の方法を見つけられるか?
Omni: ボームの論文は貴方が大学院最終学年の時に書かれました。だが、コペンハーゲン解釈に関する貴方の疑いにもかかわらず、それについて12年後まで何も書きませんでした。貴方の心から問題がドロップアウトしたのですか?
ベル: 心から離れたことは全くなかった。私を待っていることが分かっていた。1963年の終りにスタンフォード加速器センターに行った時がそう。ケネディー大統領暗殺の翌日にカリフォルニアに着いたが、皆が打ちのめされているのを見るのは実に奇妙な体験だった。量子問題がもっと私の心にあった。結果的に悪名高くなった論文を書いた場所だ。先ず第一に、隠れた変数に対する不可能性の私が知っているすべての証明に反駁する論文を書いた。それをしている間に、この局所性の問題が重大だと分かった。だから、その論文は以下の疑問で終わっている。局所性を条件に設定するなら、隠れた変数の不可能性に関する良い証明を作れるか? 第2論文は、その問題に答えた。ボームの非局所性を避け、それでも量子相関性に対する説明となるだろう、何の隠れた変数が存在するか想像しようと努めた。そして、私は出来ないと分かった。いつも何かがうまくない。その時、不可能かも知れないと思い始めた。
Omni: これはボームのみならず、すべての人が払うべき代償ですか?
ベル: そうだ。そして、不可能性を考えて、心の中でフェーズ遷移を描いた時、不可能性の証明を探し始めた。そして見つけた。
Omni: 貴方が20年以上前、これを勢いで始めた時に貴方が予期したものと、実際に出現したものは全く異なっていました。
ベル: 正しい。当時感じたことが、それほどはっきりしないけれども。私が見た解説、議論を確かに憤慨した。それらを叩きのめしたい欲求を感じた。量子力学に関するアインシュタイン流解釈を期待したかどうか、はっきりしない。私が成功したことは、私が求めたような解釈は可能でないと示したことだ。私が前に見たフォン・ノイマンのような駄目な議論と違って、今私が良いと見なした議論に対してさえ、可能でなかった(ベルは含み笑いをする)。私が実際望んだことは、世界の何らかの特定の概念を正当化することよりも、明快な議論だった。私自身の性格(いくぶん強情)を知っていることから、実際の真実よりも、討論の遂行とそのロジックに私はしばしば関心がある。
Omni: しかし、ロジカルな討論が真実への道だと考えないのですか?
ベル: 世界には両方の種類の人達を必要とする。すなわち、ロジックについてはかまわないけれど真実についてのみに関心があって、それが何であるか直観する人達、そしてロジックに関心がある人達。偉大な物理学者達は2つの関心を兼ね備えるが、私達の殆どが一つのサイドに貢献して幸運だ。全活動は結局協同的である。
Omni: この2番目の論文、ベルの定理を含むものですが、何をしたか、話してくれますか?
ベル: それだけを言うのですら私の心を痛ませるのだけれども、定理は光速よりも速く発生する何かがあるべきかも知れないと言っている。定理は確かに、空間と時間に関するアインシュタインの概念(光の速度によって、きちんと異なる領域に分割されている)が確固としていないことを意味する。だが、光より速く行く何かがあると言うことは、私が知っている以上のことを言っていることだ。何かが光よりも速く行くのなら、私は以下のことを想像出来るであろう。すなわち、貴方がコインを投げ上げているとするなら、私はコインに(言ってみれば触らないで)余分の変化をさせられるかも知れないだろう。だが、とにかく貴方は表または裏で降りて来ていることを知らないのだから、私がそのパワーを持っていることを貴方は決して知らないだろう。そして、そのパワーを持つことを私は知らないだろう。
Omni: 最終結果(表か裏になるだろう)のみを見るのだから、貴方がそのパワーを行使しなければ、それが何だったのか貴方は分からないです。
ベル: 全くその通り! そして、定理がそんなこっけいな関係を強いて導入させるのは、"何かがあったであろう"という、この問題の分析の中だけである。私達が量子力学で行う計算は、実験の検出器が両方イエスと言うか、両方ノーと言うか、または一致しないかに対して、一定の予測を作る。そして、光より速く行かない任意のメカニズムと非互換なのは、それらの予測だ。
Omni: これらの論文はどのように受取られたのですか?
ベル: 最初大きな反応が無かった。読んだ人は誰でも以下のように考えたと推測する。すなわち、まぁ面白いパズルだ。そして、それから1969年に人々は結果のもっと実際的な形式を証明し、実験を提案した。その時、人々は実験をやり始めた。結果は通常の量子力学を確認し、アインシュタインの望みを否認した。そして、ますます評判となった。
Omni: これのすべてのことが物理学者達にとって、何の重要性を持つのですか?
ベル: 難しい質問だ、恥ずかしい質問ですらある。かなり多くの物理学者達は、量子力学はうまく行くものという事実に満足しているが、それでも決して解決されていない。私達が周辺で見る発展全体がそれに基づいていて、うまく行っている。だから、私の定理は辺境の類のものだ。
Omni: これらの量子の混乱の中で、隠れた大きな問題がありますか?
ベル: ある。私にとって大きな疑問は、ローレンツ不変性(ある分かりにくい方法で、ものは光より速く行けないと語っている)の役割だ。19世紀の間、人々は音と同様に光は波の動きだと確信した。音波が空気の中を動くように、光は媒介物(エーテルと呼ばれることとなった)の中を動かなければならない。さて、貴方が大気を通って動く時、音の速度は貴方の変化に相対的だ。貴方がソース等に動く時、離れたソースからもっと速く来るだろう。問題は光について、そうではなかった。
地球が太陽の周りを動いていると考えれば、異なる時間と異なる速度で異なる方向に動いている。だから、貴方の実験室を通過する光の速度は測定するなら、エーテルは時には貴方の動きの反対に走り、別の時には貴方の動きと同じく走るはずで、実験室に相対的な、異なる光の速度が分かるはずだ。ところで、人々はしなかった。光が実験室に相対的にいつも同じらしいと彼等は分かった。それを説明するために、アイルランド人物理学者ジョージ・フィッツジェラルドは動いている物体は実際には収縮するというアイデアを案出した。次に、アイルランド人物理学者ジョセフ・ラーモアは動いている時計は遅くなるというアイデアを案出した。貴方が光の速度を測定していると考える時、進み具合を変えてしまっているから、時計に貴方は騙されていると彼は言った。これらのことは、光は通常の速度で動いていると考えさせるように生じている。
そしてアインシュタインがやって来て、この測定不能にする"陰謀"に異議を唱えた。光に関する、この"陰謀"が秩序立っているなら、ある深遠な真実の本当の表現であるはずだと彼は言った。そして、深遠な真実とは、任意の実験室で一様な動作を検知出来ないようなことだ。そのアイデアは、偉大なるオランダ人物理学者ヘンドリック・ローレンツがこのアイデアを解決し、アインシュタインの先駆者の一人だったから、ローレンツ不変性と呼ばれるようになる。
このローレンツ不変性の原理は、1900年頃にローレンツが定式化した時には推測だった。だが今、物理理論の中へとても厳密に組み込まれているので、この原理を諦めることを考えるのは非常に難しい。自然はどういうわけか好みの速度、好みの慣性参照系(エーテルのような)を持たないというアイデアは大いに成功している。しかし、このアイデアは、アインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンの面白いパラドックス系を見る時、それらは光より速い何かを意味しているように思えるので、量子力学の賢明な方法の定式化に大きな困難を示している。だが、光よりも速く行く何かが、光を使って出来るよりも正確に離れた事象の同時性を測定出来るはずだと言っているようなので、ローレンツ不変性は非常に極まり悪くなっている。それでも、光は入手可能な最も速い測定法という事実がどういうわけか相対論の中に組み込まれている。さて、事はそれほど単純でなく、私がまさに調べたいことの類だ。速度に関する何の制限(と何の速度)が本当にローレンツ不変性によって課されるのか?
Omni: 人々は、この離れた事象の関係に禅宗の考え(宇宙のすべての部分は全体の中で他の部分と関係がある)の科学的肯定を見出しています
ベル: 東洋神秘主義と関係があるというアイデアは既にボーアから来ている。ボーアの紋章(彼は自身で選び、陰陽のシンボルが埋め込まれている)以前かも知れない。物理学で私達が直面する曖昧さは東洋神秘主義が直面して来た曖昧さと関係があると彼は考えた。観察者と宇宙の合体、等々。そのテーマは特にフリッチョフ・カプラによって取上げられた。彼の本The Tao of Physics[訳注: 物理学の道理]は多くの部数を売って来ているが、私は何の責任も無い。私が状況を起こし、人々は私がミステリーを深めたと知った。私の結果が世界はアインシュタイン的であるという可能性を壊したから、それは本当だと思う。だが、それよりもっと複雑な何かであるはずだ。ある種の隠れた関係がある。だから、エコロジカルな人々、グリーンな人々、通常科学は冷たく唯物論で敵意だと思う人々は皆私の結果を好んだ。それは私が共感を持つ暖かい連帯感を復活させた。それがあのようなことなのか分からないから、私はあのようには書けない。しかし、それでも通常私は、会話、ソフト科学、全麦パン、それらのことすべてのような他の事柄でそれらの人々と同じサイドにいる。それらの人々に相当な暖かさすら感じる。
Omni: だが、貴方はそれがあちらの方とは思わない。
ベル: そう、私はあの神秘的洞察力を持っていないからだ。宗教的、スピリチュアルな問題について私は本質的に不可知論者だ。人々がこれらの疑問に答えを出す時、希望的観測だと私は思う。これらの人々に敵意を感じないが、私には回答不能だと思われる疑問に答を見つけ出そうとする彼等の熱狂に私はただ共感しない。科学が答えられない、科学が問うことすら出来ない問題があることを私は認める。しかし、私自身がこれらの疑問に答えを持っていない。人々が我々は遂に答えを見つけて、その答えが仏教、道教、またはその他のことだと聞く時、私がそれらのことを調べる時、答えが見つからないと言わざるを得ない。たとえそうであっても、そこに他の人々が答えを見つけるならば、彼等に反対するキャンペーンをするつもりはない。それはビジネスだ。彼等は非常な有害をしていない。仏教よりもっとずっと残虐なイデオロギーがある。
Omni: 物理学と神秘主義をリンクさせる、この運動。貴方は悪いと考えますか?
ベル: 邪悪でないと思うが、正しくないと思う。私の考えでは、心理学、神学、または社会学と十分に同盟するほどには物理学は進歩して来ていない。物理学で私達が扱っていることは非常に単純な問題だ。単純な事柄の法則が複雑な事柄の法則の中に組み込まれているかも知れないと分かることを望んで、私達はシチュエーションを限界まで単純化する。物理学で私達が専念する問題の種類は、関連するスピリチュアルな関心事のどれからも大きくかけ離れている。ベルの定理は貴方を神へ少しも近づけないと私は考える。
Omni: 人々はこれらのアイデアの詩的共感を拾い上げているに過ぎない?
ベル: そう! 今や詩―正しい見方だ。詩は物理学の問題を解決しない。人間の情緒に触れることが目的だ。詩がメッセージを持つなら、知性レベルにおいてではない。詩としてそうであれば、カプラやその他の人達を評価出来る。しかし、物理学者としては、彼等を全く評価しない。それらの人々が寄与する何かを持っているかどうかの、物理学者としてのテストは、彼等に私達が既にやっていることを解釈しないで、次に何が起きようとしているかを語ってほしいと頼むことだろう。彼等がヒッグス粒子(理論的新素粒子)の質量を語れ、そこに私達がヒッグス粒子を見つけるならば、私達皆が彼等の哲学を学ぶだろう。(ベルは笑って)マハリシがヒッグス粒子の見つかる場所を語るならば、私達皆がマハリシの所へ行き跪くだろう。
これらが純粋な神秘から来るのではなく、アマチュアな神秘、このロマンチックな可能性が開いていると思い、物理学との或る平行を見ている人々から来ている感じを私は持つ。神秘主義に人生を捧げている人々はこれをしていない。彼等は物理学を十分に知っていないと判断している。物理学はテクニカルだ。大衆本を読んでも十分には学べない。しかし、彼等が物理学よりもっと大きな何かに気づいている感じを私は持つ。彼等は3つの、または6つのクオークが存在するかどうか関心を持とうとしない。
Omni: 何故神秘的物理学の本がそんなに売れるのでしょうか?
ベル: 人々は安らぎを探していて、誰かがそれを彼等に提供するなら、彼等は一生懸命それを信じようとする。これらのアイデアは実のところ、私達は物事のハートを繋いでいる可能性を持つ、敵意の少ない世界に住んでいることを意味している。聖職者と神秘主義者がこれを言っているのみならず、今や物理学者達がそれを証明する装置を持っていると考えることは慰めとなる。人々が中庸に逆戻りするというアイデアは非常な慰めだから、強い関心を持つことは容易だ。しばしば私自身の印象だけれども、私達が実際はそんない重要でない、または全事象の付属物だと主張するマゾヒストまたはサディストであるに違いない。
Omni: まとまって全体とならない?
ベル: 私はそう思う! だが、いろいろ異なる部門の知識があり得て、それらをまとめて一つにする必要が無いという考えを持って私は生きていけると分かっているから、さほど気にしない。ダライラマが一度CERNを訪問して、私が夕食会の一メンバーだったから、それについて私が議論したであろうよりもっと実際に議論したことがある。
仏教徒は西洋科学を殆ど知らず、科学者達は仏教を殆ど知らないから、夕食は少ししんどかった。仏教徒は絶対的に内向きであることは明らかだった。彼等は電子またはその類似の質量を説明しようと努めなかった。彼等は彼等自身の伝統を持っていて、西洋科学への架け橋の範疇内では、心理学(個人救済、個人スピリチュアル成長の修養だから)に対してであろう。私が言うとおり、さほどコミュニケーションは無かったが、お互いに人々は皆友好的だった。
私達は長いテーブルに座った。片側にダライラマと彼の通訳を含む、10人の仏教徒(多くがサフロン色の礼服をまとって)がいた。彼等の向かいには、総合監督者、理論部長、私自身(ベルの定理が仏教と関係のある何かを持っているかも知れないと彼等は思ったから)の10人の物理学者達がいた。ダライラマは通訳を通して、仏教と科学は真理を探しているのであるから、両方の間に対立がある筈が無いと言う趣旨のことを言った。私は彼に永久繰り返しを強調した。仏教徒は個人レベルと宇宙のレベルで輪廻、すなわち事柄が永遠に繰返すことを信じていると彼は言った。事柄が華やかに始まって、それが一回だけ起こるということが唯今の物理学における概念だと私は彼に言った。それは流行に過ぎず、物理学者達は簡単に方針を変えられるだろう。仏教徒も方針を変えられるのかどうか私はダライラマに尋ねた。仮に物理学が一度限りの宇宙を本気で考えるのであれば、(ベルはダライラマを物まねして)"仏教徒は経典を真剣に研究しなければならないだろう!"(ベルは騒々しく笑う)と彼は言った。
Omni: それは、貴方ブランドの物理学の変わった副産物の一つだったに違いない。
ベル: マハリシ大学のヨーロッパ部門が、ここスイスの、ルツェルン湖を見下ろすゼーリスベルクと呼ばれる小さな所にある。宗教、物理学、量子力学、意識、等々に関する会合に多くの人々が招待された。私達皆が殆どスピーチをせず、マハリシがコメントした。彼は多くの従者達(特に白い礼服を着た婦人達)に囲まれていた。従者達は何も言わず、私達全員に素晴らしい笑顔を向けた。あの雰囲気(敬虔と崇拝の混合)は私を少し不安にさせた。厳しい意見交換を出来る雰囲気の類ではない。(ベルは笑って)しかし、彼等はベジタリアンであり、私もベジタリアンだから、あの雰囲気は好きだった。マハリシは非常に気さくな男だ。彼は笑い、気の利いた文句を言う。大きな笑顔。スイスのテレビで誰かが彼に敵意のあるやり方で詰問しょうと企て、彼の作っている全財産に言及したことを私は憶えている。(ベルはマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの甲高い声に切り替えて)"いやぁ、お金については何も知らない。とにかく、いくらあろうが十分でない!"と彼は言った。
Omni: 貴方は彼等に何を話したのですか?
ベル: 私の態度は冷酷だ。量子力学と意識の間にアナロジーを作れるが、これらはアナロジーでしかない。その論題は礼儀正しく受領された。彼等皆が頷き、何も言わなかった。
Omni: これらの人々のすべてに時間を割くことについて貴方は何を考えていますか?
ベル: 大抵の場合、私にとって楽しみだ。科学者達は非科学者とコミュニケーションをしようと努めるべきだ。それは正しい活動だ。それが私の同僚達が考えていることだと推測出来る。私に対して彼等は礼儀正しい。ああ、絶対的に正しいではなく、本当の科学ではない、すなわちショービジネスだと彼等は考えていると思う。彼等の見解では、私の人生のこのサイドによって評判が損なわれていると私は推測する。
私達が非常に制限されていることはとても悲劇だ。私達のそれぞれが、訓練と努力の一生で一分野に幾ばくかの貢献をする能力を持ち、他の人々が他の分野をやっていて、私達のそれぞれが参加しないのが大量にある。そのことによって、時々私は落ち込む。物理学を除いて、いや更に物理学の小さなコーナーを除いて、私が全てを知っていることは非常に小さい。だから、少なくとも非技術的方法で、世界のどこか他のところで起きていることを調べようと努めることは当然であり、道理であり、正しいことだと私は思う。私の世界で起きていることを人々が私に尋ねに来る時、私は彼等に語ろうと努める。そして、彼等の世界について少しばかり私は学ぶ。
Omni: それでも、量子力学の不完全性は何か重要なことをするのには難しい問題だと貴方は言ったことがあります。つまり、それに固執してキャリアを駄目にする。
ベル: だが、あれはまさに大きな問題なのだ。自由意志に関する問題を取ろう。誰もそれが重要でない、もしくはトリビアルとは思わない。しかし、自由意志を考えることによりキャリアを形成せよと勧めるだろうか?
Omni: 現在物理学で未解決な大きな問題がまだあると思いますか?
ベル: ある。私の考えでは、局所性の特殊な問題がまだ未解決だ。このシチュエーションを消化する方法を私達は見つけていないと思う。量子力学の式を持ち、それは非常に上手く働く。だが、私はそれを消化して来ていない。これから言及されなければならない何かがあり、これから見つからなければならない或る解明が確かにある。

コメント

このブログの人気の投稿

ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する

今回紹介するのは abc 予想の証明に関する最近の動向を伝えている記事です。 これを選んだ理由は素人衆が知ったかぶりに勝手なことを書いているのをネット上で散見するからです。ここで言う素人衆は日本のメディアはもちろんのこと、馬鹿サイエンスライターも当然含みます。昨年末(2017年12月16日)に某新聞が誤報に近いことを報道したことも記憶に新しいでしょう。そんな情報に振り回されないために今回の記事です。 今回の記事は正確かつ公平だと私は思いました。私の友人共の何人かは、この方面の専門家だから門外漢の私はいろいろなことを教えてもらいました。その上での感想です。 その方面の専門家でなくても数学の研究者なら望月論文は無理でもレポートは読めるはずなので、もっと詳しく知りたい人はレポートを読んで下さい。 前置きはこれくらいにして、紹介する記事は" Titans of Mathematics Clash Over Epic Proof of ABC Conjecture "です。その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] ここに至るまでの経緯については" 数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明 "を読んで下さい。その記事は2015年12月にオックスフォードで行われた望月論文に関する初めての国際的ワークショップより前の話が書かれています。 このワークショップはいろいろ評価が分かれるけれども、私が聞く限り、大失敗だと言う人が多いです。実際、私の海外の知人の一人がワークショップに参加しており、ボロクソに言ってました。 このワークショップを境に、海外特に米国では望月論文を理解しようとする熱意が急速に薄れたように感じますし、ショルツ、スティックス両博士の異議申し立てが出るまで実質何の音沙汰もない状態でした。 [追記: 2018年10月23日] 私の友人共に指摘されたのですが、この記事の私訳を読む人の殆どが日本の全くのド素人なんだから、たとえ原文に記載されていなくても誤解を生じさせないように訳者が万全を期するべきだと言われました。 記事に出て来る Publications of the Research Institute for Mathematical Sciences (略してPRIMS)

数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明

前回紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "はもちろん一般大衆向けの記事です。数論、数論幾何学、IUTT(宇宙際タイヒミュラー理論)のいずれかの専門家なら、そんな記事を読まなくても、そこまでに至る経緯は十分に承知しています(何故なら自分達の飯の種を左右する問題だから)。その方面の専門家でなくても数学研究者なら数学コミュニティ又は数学界を通して大概の経緯を聞き及んでいます。 私の身辺(私の友人共はすべて何らかの形で数学研究に携わっているので、それらを除きます)でその記事を読んだ感想は"そんなに拗れるのは不思議だ。もっと経緯を知りたい"というのが多かったです。その身辺の彼/彼女等はもちろん素人衆ですので、望月新一博士の名前も報道でしか聞いたことがないし、数学で何故これほどまでもつれるのか不思議でならないそうです。彼/彼女等は至って真面目です(何故こういう事を書くかと言うと、素人衆と言っても千差万別で、中にはネット上で国家高揚か日本民族高揚のために望月博士のことを書いているとしか思えない不逞の輩がいるからです)。そこで、それらの真面目な人達のために今回紹介するのは2015年10月の Nature 誌に載っていた" The biggest mystery in mathematics: Shinichi Mochizuki and the impenetrable proof "です。 何故これを選んだかと言うとエンターテイメント性があり、素人衆でも面白く読めるだろうと思ったからです。但し断っておきますが、いろいろな数学者の証言を繋ぎ合わせて望月博士の心情を勝手に推測するのははっきり言って妄想であり、さすがエンターテイメント性を重視して堕落した Nature 誌だけのことはあると私は思いました(あのSTAP論文を掲載したことも記憶に新しいでしょう)。 その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] この記事は2015年12月に行われたオックスフォードでのワークショップより前の話です。このワークショップは望月論文に関する初めての国際的な会合で、この記事でもこのワークショップにかなりの期待を寄せているところで終わっています。 しかし、いろいろ評価が分かれ

谷山豊と彼の生涯 個人的回想

数学に少しでも関心のある人なら、フェルマーの最終予想が、これを含む一般的な志村予想を証明することによって解決されたことは御存知でしょう。この志村予想は、かって無知と誤解によって谷山-志村予想と呼ばれていました。外国では更に輪をかけて(と言うよりもアンドレ・ヴェイユの威光によって)谷山-志村-ヴェイユ予想と呼ばれていました。ヴェイユがこの予想に何ら関係しないことは、故サージ・ラング博士によって実証されました。それでも、谷山-志村予想もしくは谷山予想と呼ぶ人がまだ散見されます(散見と言いましたが、日本人ではかなり多いです。国民性に依存するのかどうか知りませんが)。私は数論を専攻したことがなく、ずぶの素人ですが、志村博士が書かれた記事や自伝"The Map of My Life"を読み、何故志村予想なのか納得しました。ここで込入った話を書くことは不可能なので、分り易く言えば、故谷山氏は何ら予想の内容にタッチしていないと言ってもいいかと思います。勿論、その周辺は谷山氏の研究分野でしたから周辺にはタッチしていたでしょうが、志村博士は全く独立にきちんと予想を定式化しました。ですが、谷山氏と志村博士はいわゆる盟友関係であり、また谷山氏の不幸な亡くなり方を悼む日本人的感情(つまり、センチメンタル)から日本人は谷山-志村予想と頑なに呼んでいるのだと私は理解しています。ですが、これは数学なのであり、事実を直視しなければいけないと思います。また、最終的に志村予想は証明されたのですから、何とかの定理と呼ぶべき時期だと思います。この"何とか"に何を冠するかはいろいろ意見があるようですのでこれ以上は触れないでおきます。 さて、志村博士の"The Map of My Life"の第4章、18節に"18. Why I Wrote That Article"があります。ページ数で言えば145ページ目です。タイトルが示している"あの記事"とは、志村博士が英国の専門誌 Bulletin of the London Mathematical Society に発表した" Yutaka Taniyama and his time, very personal recollections "

識別の危機

昨年紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "の元記事はもちろん大衆向けのオンライン科学ジャーナル Quanta Magazine に掲載されたものですが、著者はErica Klarreich女史です。彼女はサイエンスライタではあるけれども、歴とした数学者です。しかも、幾何的トポロジで彼女の名前を冠した定理を持つくらいの立派な方です。何故こういうことを書くかと言うと、IUTを支持するイヴァン・フェセンコ博士がKlarreich女史をいかにも素人呼ばわりした非常に下らないドキュメントを書いたからです。大学にポストを持っていなければ全員が素人なんですかと問いたいくらいです。これでは世界からIUT自体が白眼視されるのも無理からぬことだと思いました(本当のところは全く違う理由からなんですが、話せば切りが無いので止めておきます)。 さて、今回紹介するのはディヴィド・マイケル・ロバース博士が書いた記事" A Crisis of Identification "です。ロバース博士と言えばショルツ、スティクス両博士のリポートが公開された直後からキャテグリ論の専門家として非常に冷静な分析をされていたことに私は感心してましたから直ぐに記事を読みました。一つの不満を除いて非常によく書けていると思います。" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "も勿論読み応えのある立派な記事でしたが、どちらかと言うとドキュメンタリ風の記事でしたし、読者層が一般大衆であることを考慮してあまり数学を前面に出していませんでした。ロバース博士の記事はもう完全に数学を前面に出しています。 前述した一つの不満はグロタンディーク氏のことにスペィスを割いて結構触れていることです。今のABC予想の置かれている状況とはあまり関係がないと私は思いました。やはり大衆受けを狙ったのかと感じました。まぁ、日本でも素人には何故かグロタンディーク氏は大人気ですから(捏造されたエピソゥド、つまりグロタンディーク素数がどうたらこうたらに踊らされて?)、それはそれで良いのかも知れませんが。 前置きはこれくらいにして、この記事の私訳を以下に載せておきます。なお著者の注釈欄を省いていますが、注釈へのインデクスはそのままです。 [追

数学教育について

聞くところによれば、関数型プログラミング言語の流行とともに数学の圏論がブームだそうで。圏の概念が他の数学の分野を全く知らない人でも意味が分かるのか疑問を持っています。その理由は後で述べます。 私の手許に故Serge Lang博士の名著"Algebra"があります。この本は理由があって、何と大昔の1974年の初版第6刷です。非常に貧しい学生だった私に恩師が2冊持っているからと言って1冊を下さり、私の生涯の宝物です。 仮に数学を代数学、幾何学、解析学という全く意味が無い区分けをしたとします。意味が無いと言うのは、例えば多様体論なんかはどの分野にも入るからです。そうであっても無理に区分けしたとしましょう。この3分野のうちでも、代数学(厳密に言えば抽象代数学です)が、勉強するだけなら(あくまで勉強するだけですよ、研究となれば別の話です)数学的予備知識も数学的センス(故小平邦彦博士の言うところの"数覚"、位相群で有名だった故George W. Mackey博士の言うところの"数学的成熟度"、まぁ簡単に言えば数学的才能ですね)も全く必要としません。必要なのは論理を追うための忍耐力と言えます。ですから、理解出来るか否かは別にして、代数構造を"言葉"として吸収することは誰にでも出来ます。数学のどの分野を専攻してもLang博士の"Algebra"程度の知識は"言葉"として知っていなければ話にならないのです。数学での代数学は、私達が日本語や英語等でコミュニケーションするのと同じく、数学の言語なのです。 Lang博士の"Algebra"には、第1章群論の第7節に早くも"圏と関手"が登場します(ページで言えば25ページ目です)。ついでながら、この圏、関手という日本語は全く元の英語が想像出来ないので、以降カテゴリ、ファンクタと書きます。 ところで、Lang博士はブルバキにも入っていた人ですから、こういう抽象度が高い概念を重要視しているかと思いきや、決してそうではないのですね。元々カテゴリ、ファンクタ(ファンクタの方が重要な概念でして、カテゴリはファンクタが扱う対象物です)は、ホモロジー代数の一部として提案された概念です。ホモ