スキップしてメイン コンテンツに移動

広中平祐博士へのインタビュー

先日紹介した"証明の不滅"の前触れで引き合いに出した、数学科卒でない知人は他にもいろいろぼやいていましたが、特に数学のテキストの練習問題に解答を載せていないことに不満を感じているようでした。それに対して、物理的な紙スペースの問題だから、価格と解答のどちらを取るかの選択の問題に過ぎないと私は言いました。しかし、何故それほど解答を欲しがるのか理解出来ませんでした。最先端の数学者は証明は勿論のこと真偽もはっきりしない命題やテーマを孤独に己の腕のみを信じて研究しているはずです。ですから、たかが練習問題の解答くらいで騒ぐ必要は無く、むしろ研究者気取りで自分ですべてを解答すればいいのです。それが実際に合っているかどうかも自分の判断です。すべてが自己責任なんです。それくらいの覚悟を持っていないのでしょう。そのことを正面から知人に言うのは酷だから、別角度でこちらから逆尋問をしました。
皆さんはラプラシアンをご存知でしょう。どんな偉い大数学者でも私のごとき下辺な者でも一生に少なくとも一回は、ラプラシアンが球座標でどのようになるか計算したことがあるはずです。勿論公式集には載っていますが、元々の直交座標からは想像出来ない形なので、少しでも好奇心があれば計算するはずだと私は思っていました。ところが、知人は計算したことが無いと言いました。何故なら公式集に載っているからという理由でしたが、正直私は呆れました。こういう人もいるのだと再認識しました。なるほど、そういう人が解答を欲しがるのだと思いました。知人がどういうテキストを使用しているのか知りませんが、解答を欲しがっていた問題の一つが以下です。

(問題)
ハウスドルフ空間において、コンパクト部分集合は閉集合であることを示せ。

正直言って、これは宿題レベル以下の、数学科の学生だったら一年生でも一目で解答が分かる代物です。これが分からない理由として、おそらく[(1)閉集合の意味が分かっていない。(2)コンパクト性の意味が分かっていない。(3)ハウスドルフ性の意味が分かっていない。(4)以上でなければ、数学的実体が全然見えていない]のどれかでしょう。また、たかが微積分のテキストでハウスドルフ空間を持ち出すのは、おそらく微積分学習のために最低限必要な初等トポロジーとして距離空間の章があって、距離空間はハウスドルフ空間ですから、それを章末の練習問題として入れたのでしょう。
知人が読むことを期待して、初学者にも分かるように解答例を載せておきます。

(解答例)
ハウスドルフ空間をH、そのコンパクト部分集合をCとする。H=Cなら証明を要しない。よって、H≠Cとする。任意のp∈H-Cを考える。x∈Cとなる任意のxに対して、ハウスドルフ性によってx∈V、p∈U、V∩U=∅となるような開集合V、Uが存在する。このV、Uはxに依存するという意味で、xを添字として用いVx、Uxと書こう。Cはコンパクトだから、有限個のx1、x2、・・・、xn(xi∈C)が存在して、C⊂∪1≦i≦nVxiとなるように出来る。開集合族{Vxi|1≦i≦n}に対応して{Uxi|1≦i≦n}も定まる。H-C⊃∩1≦i≦n(H-Vxi)⊃∩1≦i≦nUxiである。∩1≦i≦nUxiは有限個の開集合の共通集合だから開集合であり、しかもp∈∩1≦i≦nUxiだから、p∈N、N⊂∩1≦i≦nUxiとなるような近傍Nが存在し、結果的にH-C⊃Nとなる。pはH-Cの任意の元だから、H-Cは開集合である。よって、Cが閉集合であることが示された。

さて、話は変わります。
昨年の8月に小林昭七博士、11月にラース・ヘルマンダー博士がお亡くなりになりました。これらの巨星が表舞台から去るのは、博士らの著作を勉強した者として非常に寂しい思いです。ですから、何か急かされる気持ちがあって、特に世界的な日本人数学者の欧文記事を出来る限り紹介しておこうと思いました。その一つに広中平祐博士のインタビュー記事"Interview with Heisuke Hironaka"(PDF)があります。この記事は他のアジア諸国では翻訳されているようですが、まだ和訳が無いと思います。読んで頂ければ分かるとおり、広中博士は勿論天分もあるでしょうが、根性が座った努力家だと失礼ながら私は思います。そして、特に中高生に読んで欲しいと思いました。その記事の私訳を以下に載せておきます。

[追記: 2019年03月21日]
このペィジは2013年03月20日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

広中平祐博士へのインタビュー
2004年12月 Allyn Jackson

広中平祐は20世紀の最高位の代数幾何学者の一人である。彼は標数0の体上で代数多様体の特異点解消に関する1964年の研究(その研究で1970年にフィールズ賞が授与された)で知られる。この問題の根本的性質は20世紀初期の多くの数学者にとって明らかだった。特にオスカー・ザリスキは代数曲線と代数曲面に対して問題を解き、広中に多大な影響を持った。直接的で独創的なアプローチを取って、広中は新しい代数的ツールを造り、問題に適した既存のものを採用した。これらのツールは特異点解消から遠くかけ離れた多くの問題を解くために役立つことを証明して来ている。もう一つの大きな影響はアレクサンドル・グロタンディークだった。グロタンディークは1959年に若き広中をパリのフランス高等科学研究所(IHÉS)へ彼の何回ものの訪問のうちで最初の招待をした。IHÉSと日本人数学者達の関係を強めるための広中平祐基金の設立に関する2002年広報において、IHÉS教授Mikhael Gromovの言葉(広中の特異点解消は"数学史上でユニークである。今日まで、世界で克服されていない、または簡略化されていない最も難しいものの一つだ")が引用されている。
広中平祐は日本の山口県で1931年4月9日に生まれた。京都大学の学生として、彼は秋月康夫の学派の一員で、秋月は日本での現代代数学のパイオニアだった。広中はザリスキの指導のもとで1960年に学位をハーバード大学から与えられた。ブランダイス大学とコロンビア大学での職の後、1968年にハーバード大学の教授となり、1975年から1988年まで京都大学教授を兼任した。1983年から1985年まで京都大学数理解析研究所の所長を務めた。1970年に日本学士院賞と1975年に文化勲章を受章した。広中が受ける名声と尊敬は西洋人に並外れている感じを与える。数学と科学に知識の無い平均的日本人でも彼の名前を知っているだろう。
広中は若人に数学へ興味を持たせることに多くの時間と努力を捧げて来た。1980年に日本人高校生のための夏期セミナーを始めて、後には日本人と米国人大学生のためのものを追加した。セミナーは彼の指導のもとに20年以上行われ、今日まで続く。セミナーをサポートするため日本数理財団と呼ばれる慈善事業財団を1984年に設立した。財団は日本人学生が海外で学位的研究を追究するために奨学金も与える。1996年から2002年まで広中は山口大学学校長を務めたが、山口大学は彼が生まれた県である。最近は、特に地域レベルで教育的活動を続け、数学研究を行っている。
以下は、2004年12月にNoticesシニアライター兼副編集長のAllyn Jacksonによって行われた広中平祐博士へのインタビューの編集されたテキストである。—A. J.

家族と子供時代
Notices: 貴方は1931年に山口県で生まれました。そこでの貴方の成長と家族がどのようだったのか聞くのが楽しみです。

広中: 私が生まれた街は非常に小さな街だった。私の兄弟の一人はまだそこで生活している。山口県は広島から遠くない。街は山口県の東部にあり、瀬戸内海に面していた。人口は3000人くらいだった。約半分の人々が漁業をし、残りが農業だった。だが、私の父は着物を売る商人だった。

Notices: 家族に子供は何人だったのですか。

広中: 多くの姉妹と兄弟がいた。全部で15人。だが、15人は実際には4人プラス1人プラス10人だった。父の最初の妻が死んで、4人の子供を設けた後に2番目の妻も死んだ。私の母は父と結婚する前に1人の子供を持っていて、彼女の夫は死んだ。私の両親はそれから10人の子供を持ったが、それらの中で私が一番年上の男子だ。私には1人年長の姉がいる。第二次世界大戦中、政府は子供を多く持つことを奨励した。特に男子を。しかし、戦後、子供全部を育てることは実に困難だった。1人の兄(父の息子)はニューギニアの戦争でアメリカに抵抗して死んだ。彼は23歳だった。もう1人の兄も中国で戦争にいた。彼は怪我をし、北京の病院で死んだ。
次いでながら、私の母と結婚する前に父と結婚していた、4人の子供の母親は私の母の姉だった。

Notices: 分かります。つまり、貴方の父は2人の姉妹と結婚したのですね。

広中: その通り。私の母は病気の姉を助けようとしたのだと思う。私は大家族の中にいたことを好ましく思う。小さい時に、同じ年頃の多くの人、もしくは頼れる又は何かを学べる年長者を持つことは素晴らしいことだ。そして、年少の子供達といれば、彼等の世話に責任感を感じる。私の父は貧しくはなかったが、戦争が多くのことを困難にした。戦前に彼は織物工場を持っていた。織物について学ばせるため彼は最初の息子を名古屋にある技術学校に送った。次の息子を商業を学ばせるために送った。だから父はこれらの2人の子供に希望を持っていた。それら2人の息子を失った時、父は完全に絶望した。彼は工場を売り、働くのを止めた。戦後はもちろん、大変動があった。経済は悪化し、古い貨幣は無価値になるほど貨幣を変えた。大きな文化再構築もあった。父には小作農がいたが、彼等のために農地すべてを与えなければならなかった。どこでも、戦争が終わった時には万事がクレージである!

Notices: 貴方の地域では、原子爆弾投下による影響は無かったのですか。

広中: 実際には、父はそれを見たが、距離が離れていたから彼に影響は無かった。私の従兄弟は広島の学校にいて、放射線の火傷を負ったが、回復し生き残った。どういうわけか、私達の地域の人々は幸運だった。だが、人々は爆撃されるだろうと心配した。飛行機が来る時はいつでも、噂が広まった。当時、人々は原子爆弾だと言わなかった。"特殊爆弾"だと言った。アメリカ空軍は完全に制空権、すなわち地上はまだだったが、空は支配された。私達は飛行機が来るのを見て、"あれは特殊爆弾かも知れぬ"と噂が広がり始めたものだった。
そのような状況で、大人達は将来について悲観的だ。だが、子供達はそうでない。子供達は何も知らない! 私達は実際幸せだった。アメリカ人は海底に多くの機雷を置いたが、戦後日本人はそれらを拾い上げ、爆破させた。それはとても大きく、美しい花火だった。私達はそれを楽しんだ!

Notices: 幼い時から数学に興味があったのですか。

広中: 私達が子供の時、とても多くのことをすることを考える。小学校で私は浪曲師(一種の物語語り部)になりたかった。浪曲師はヤクザ物語、侍物語または悲しい物語を語るだろうが、部分的に物語りは歌われる。私はそれが好きで、浪曲師になりたかった! しかし、中学校では、数学を好きになり始めたと思う。実際、私は一年生から数学に自信があった。

Notices: 若かった、ある時点で、貴方を発奮させるような数学教師がいたのですか。

広中: 少し馬鹿げているが、例えば或る教師が試験がよく出来るために貴方を褒めるなら、貴方は非常な誇りに思うようになる。そのような体験を私は持った。

Notices: 貴方は音楽も勉強しましたか。

広中: 私が中学校にいた時、ピアニストになりたかった。しかし、その当時学校のみがピアノを持っていた。私達の学校は柳井にあって、その頃30分の列車通学だった。学校が始まる前にピアノを弾くため早朝訓練をしたものだった。私は本にある通りに弾いただけだ。時折音楽教師が何かを教えてから私は弾いたものだったが、何ら真剣なものではない。或る時点で、音楽教師達は他校とのジョイントコンサートで演奏しないかと私に訊いた。彼等はショパンの即興曲を弾きなさいと私に言った。それは非常に難しかった。そして私は滅茶苦茶だった! 少女達はずっと上手に弾いた。だが、男子学校では、私以外に誰もピアノを弾いていなかったので、教師たちは私に弾きなさいと言った。女学校の教師は私の演奏について酷いと言った。それは相当なショックだった。或る時点で、私の教師達の1人にこれについて訊いた。音楽家、特にピアニストは3歳に演奏を始め、通常は特別な先生に教えられるので、私は音楽家になるべきでないと教師は言った。私の場合、実際の先生無しで、中学校で始めたばかりだった。この教師は音楽家になることを忘れるべきだと言った。そして、私は"分かりました。忘れましょう"と言った。
それでも、ピアノ音楽とクラシックも好きだった。私は音楽家に興味を持った。1959年から1960年までパリにいた時、私は小澤征爾と出会った。私は彼の親しい友人の1人になった。小澤征爾は今ウィーン国立歌劇場を指揮している。彼は夏ごとに2ヶ月間、日本に来て松本での斉藤記念祭典に参加する。斉藤は小澤の先生だった。2、3週間、小澤はオーケストラを指揮し、若者の教育もする。この祭典をサポートする財団があり、小澤は私に理事長にならないかと言った。
私がパリで彼に会った時、6ヶ月そこらの間に知り合っただけだった。私達は親友となったが、学位を取るために私はハーバードに戻らなければならなかったので、そして彼のことを忘れていた。学位取得後、マサチューセッツで研究を始めた。彼が米国に初めて来るという手紙を突如私に書いて寄こした。それで、私は空港へ行き、彼を拾い、そして彼はタングルウッドでのコンペに参加した。シャルル・ミュンシュが審査委員長だった。小澤は指揮部門で初めての賞を得た。私はタングルウッドへ行き、彼が指揮するのを聞いた。それから、彼はパリへ戻った。後の1964年に、私はコロンビア大学の教授になり、その時彼はレオナルド・バーンスタインと仕事するためニューヨークにいた。だから、私はそこで彼と会い、彼のコンサートを聞いた。そして、1968年に私は教授としてハーバードへ戻り、再び彼のことを忘れていた。それから、彼は指揮者としてボストン交響楽団に来た。だから友情関係は続いて来ている。私があまり音楽のことを知らないから、彼は私を好きなんだろう!

Notices: もっと数学的なことに戻ります。貴方が真剣に数学に興味を持ったのはいつだったのですか。

広中: 数学者になる可能性について真剣に考え始めた時の一つは高校生の時で、広島大学の数学教授が高校に来た時だったと思う。彼は生徒達に一般的な講義をした。ちょっとテクニカルで、私はすべてを理解出来なかった。だが、彼は話の始めに"数学は鏡であり、世界のすべてのことを射影出来る"というようなことを言った。私はそれが非常に謎だったが、非常に印象深かった。私は彼について勉強したかったので、広島大学に出願した。だが、入試試験の勉強を全くしなかったから、不合格となった!
だから、私は後一年勉強を始め、京都大学に出願し、そこに行った。その時、非常に阿呆な(深刻または理性的ではない)理由で私は物理学者になりたかった。物理学者湯川は日本の初めてのノーベル賞受賞者であり、京都大学にいたからだった。私の姉が京都で結婚しており、京都に私が滞在出来たのは幸運だった。一年生の間、結構真面目に物理学、また化学、生物学をも勉強した。しかし、2年生までに、科学よりも私は数学に向いていることがはっきり分かった。勉強しながら、数学的疑問が起こった時に私はいつもちょっと興奮した。だから多分3年生の時には、数学が私の将来の専門だとはっきりした。その後、全く数学だ。

Notices: 当時の京都大学での数学教授はどうでしたか。

広中: 私達は若かったので、それほど知らないが、米国や欧州に比べて数学と科学において日本は非常に遅れているという自覚を持った。だから、可能ならば私達は欧州又は米国に行きたかった。だが、当時日本で一つの強い理由があって、それは私にとって幸運だったが、ある意味で数学での私のスタイルを決定的にした。それは抽象代数学だった。数学の流行が何であれ、日本数学はそのトップに立とうと努め、少なくとも抽象代数学は当時の数学の最高目標のようだった。エンジニア又は物理学者が使う他の数学は"地上の数学"だった。私の先生達と同僚は抽象代数学に非常に興味を持った。抽象的な種類の数論も。だから私が米国に行く機会を得た時に、少なくとも一つに私は自信があった。それが抽象代数学だった。それが私に劣等感を持たさせなかった!

Notices: ハーバードに行き、ザリスキのもとで勉強することはどのように決まったのですか。

広中: 私は1949年に京都大学に入学し、4年間学部学生だった。それから、京都大学の大学院に進学した。当時、秋月は京大教授だった。彼は代数幾何学にそれほど研究しなかったが、代数幾何学と日本での、特に京都での代数幾何学の確立に非常な興味を持った。彼は代数幾何学の若く優れた人達を初めて招待した。当時日本の大学は彼等自身の学生を雇用していた。だが、彼は自身の学生を雇用しなかった。彼は4人又は5人の先進者を採用した。1人は名古屋大学から、1人は大阪市立大学から、1人は東京大学から、等。そして、グループを形成した。また、彼の講義は非常に現代的だったから非常な人気となった。他の講義は退屈な種類、古典的複素解析やその類、本に書かれているものだった。だが、秋月は全く違った。彼は新しいことを導入し、多くの人達を招待しようとした。私はそのセミナーグループに参加し、もっとも若いメンバーだった。
或る時、秋月はザリスキを京都へ招待した。ザリスキは当時代数幾何学を非常に代数的にしている先進者の1人だった。つまり、彼は代数的な代数幾何学をしていた。彼の哲学は幾何学の基礎を代数学に置く時、幾何学的直観による過ちを避けられるということだった。彼は代数に基づいて代数幾何学を書く時、厳密性は自動的だと言った。そこでは疑いようがなかった。代数は一種の"抽象ナンセンス"になり得る。つまり、実体を知らずに、記号で遊んでいる。だが、ザリスキや秋月も代数を用いて幾何学をすべきだというアイデアを持った。ザリスキが訪問した時、私がやっていたことを彼に話そうとした。私は英語がうまくなかった! だが、私の同僚や先生達が私がやっていたことを彼に説明することに手助けした。或る時点で、ザリスキは"君はハーバードへ来て勉強出来るかも知れない"と言った。そして、私は"分かりました"と言った。

Notices: いつハーバードに行ったのですか。

広中: ザリスキが帰国した後の1957年の夏。もし外国へ行くなら、たとえ日本で勉強していても、その分野の最高の学者を選びなさいと私は若者に言う。だが、彼から学べると思うな! 素晴らしいことは、その種の人と一緒に才能ある若い人達が回りにいて、彼等から多くを学ぶことだ。ともかく、それが私の場合だった。私はザリスキの論文から多くを学び、時々彼はアドバイスしたが、彼はとても忙しい。その他の学生には、マイケル・アルティン、スティーブ·クレイマン、デビッド·マンフォードがいた。時々私達4人は私達自身のセミナーをやった。私達は学生だから、数学を語る時間がたっぷりあった。公式義務が無いこと、それは学生にとっていいことだ!

特異点解消
Notices: 特異点解消に関する研究に最初に興味を持ったのはいつでしたか。

広中: それは京都大学で3年目の時だったと思う。私達が呼ぶところの秋月学校にはいつも一緒に語らい、セミナーをやっている約10人がいた。グループ内の最年少だったから、私は殆どいつも聞き手だった。或る時、グループ内の人達の1人が特異点解消の問題について話した。それは私がオスカー・ザリスキの名前を聞いた最初の時だった。その問題が非常に面白いと考えたから、それをやろうと決心した。私は技術も何も無かったが、問題が面白いと思った。直接に研究していなかったけれども、問題は私の心の中に留まった。私はまだ代数幾何学の入門とそれに関する、ジャン=ピエール・セール、アンドレ・ヴェイユ、又はザリスキの論文を読んでいた。

Notices: その問題が貴方にとって重要だと思ったのは何故ですか。

広中: 分からない。少女に恋する少年のようなものだ。理由を説明するのは困難だ。後では、いろいろな理由を作れる。例えば、私はかなり抽象代数学を勉強したから、代数の言葉で記述出来るものは興味があった。だが、代数学そのものは抽象的だから、ハートを掴まない。これは幾何学的問題だが、本質的に幾何学ではない。その種の問題を幾何学的直観によって解けなかったことは私には全く明らかだった。オスカー・ザリスキは既に1次元、2次元、部分的に3次元内の曲線に対して、問題を解いていた。だから高次元の問題だった。高次元では何も見えないから、ものを推測または定式化するための何かを、何らかのツールを持たなければならない。そして、そのツールは代数、紛れもなく代数だった。それは問題が私に残った一つの理由だ。また、私は基礎的なことが好きだ。非常に賢い人達は新しいテクニックに飛びつく傾向がある。何かが非常に速く展開し、トップでありたい。そして、賢ければトップランナーになれる。しかし、私はそれほど賢くないから、問題に対するテクニックの無い場所で何かを始める方がいいし、一歩一歩組み立てられる。しかし、実際にはそんなに難しくはなかった。私が思ったよりもやさしいことが分かった。

Notices: そうなんですか。特異点解消の貴方の証明は数学で最も難しいものの一つだという評判を私は読んだことがあります。

広中: 私は多くの人から多くを学んだから、それほど難しくはなかった。例えば、京都大学は大阪大学の近くにあり、大阪大学の総長は正田という名前の数学者だった。日本で正田は現代代数学の父だった。彼は皇族と関係があった。つまり、彼の姪は今上天皇の后だ。名古屋大学には中山がいて、彼も抽象代数学だったし、彼の優れた学生の1人、永田が秋月の招きで京都に来た。だから、京都にいて、これらの人達と接触を持ったことを私は幸運だった。そして、私はザリスキと出会った。ザリスキは本当は幾何学者だった。彼がイタリアにいた時、イタリア人幾何学者が余りにも直観的なので、しばしば証明が間違っている命題を作ったが、命題は正しいということを彼は分かった。ザリスキはそんな結果に対して確固たる基礎を持ちたかったので、代数を基礎として選んだ。数論に関連して、アンドレ・ヴェイユも代数を代数幾何学の基礎にしたかった。私がハーバードにいた時、単なる抽象代数ではなくて強く幾何学に関係した、それらの代数的テクニックを学んだ。私は抽象的なものすべてに慣れていたし、ものを抽象化することを恐れなかった。また、マンフォードとアルティンのようなザリスキの学生達は幾何学に素晴らしい直観を持っていた。彼等が私よりも遥かに幾何学者であると感じたことを憶えている。彼等は実際に天才である。しかし、私は代数を得意としたから、幸いにも劣等感を感じなかった! また、私がパリに行ったということで幸運だった。私がハーバードの学生だった、1958年から1959年までグロタンディークがハーバードに来た。私は彼と友達となり、彼は私がパリに来るべきだと言った。
幾何学について少し説明しよう。幾何学は大局的問題と局所的問題を持つ。局所的問題は普通非常に具体的な計算によって為される。例えば、方程式を持っているなら、それを書き下せる、そのテーラー展開を取り、項を見て、項をいじる。だが、大局的問題に戻る時、局所解は互いに合致しない。それがザリスキが持った問題の一つである。彼は極端に局所的テクニックを持っていた。或る幾何学的オブジェクトを持っているとする。それを局所化する。局所化するならば、いろいろなトリックを出来るが、後で大局的解を持たせるために、局所解を繋げられない。特異点解消について、ザリスキは3次元内でさえも苦労し、結局ギブアップした。一般的に言えば、一方程式ならば簡単だ。だが、多くの方程式を持つなら、難しい、もしくは人々は難しいという印象を持った。だが、多くの方程式を扱うために帰納法が使えることに私は気付いた。だから、多くの方程式を持つ場合に1次元から始めた。そして、次の次元も多くの方程式を持つだろうが、同じスタイルだということに注目した。非常に簡単な観測だが、それが私の局所的理論を助けた。更に、大局的問題もそこにあった。大局的座標を持てない。局所的に座標と方程式を持つだけだ。だから、私はそこで問題を抱えたが、グロタンディーク、彼は凄い人だ! 彼は方程式を見ない。最初から大局的にすべてを見るだけだ。だから彼のテクニックは私にとって非常に役立った。
私が1960年にパリから戻った時、特異点解消問題をまだ解いていないが、それに関係する論文を書いたことがあった。問題を解く準備が出来ていた。御存知の通り、いったん学位を得て就職すると、非常にリラックスする。特に外国人の場合、職を得ないことは恐ろしいことだ。だから、ブランダイス大学に職を得て、"さて、今私は何をすべきか"と思った。そして、"ああ、京都、ケンブリッジ、パリを一緒にすれば、問題全体が解かれる!"と言った。私は非常に幸運だった。

Notices: 或る人は、貴方が昏睡状態に陥り、そして絶対的に複雑な証明とともに目が醒めたと私に言った。彼はそれをフェルマのアンドリュ・ワイルズの証明と比べた。ワイルズは屋根裏に座って7年間研究した。貴方もそのようだったのですか。

広中: えーっと、多くの側面を持つ問題と一緒にしなければならない多くの様相は問題全体について考えることに本当に没頭させる。私が問題を解いたことを言うために最初にザリスキに電話した時、彼は"強い歯をもつ必要がある"と言ったことを憶えている。

Notices: それは何を意味するのですか。

広中: 私が噛むための歯を必要としたことを彼は意味したと思う。すなわち、問題はタフだから、それを本当にかじらなければならない。だが、彼は非常に親切だった。いつも私を励ました。彼はどうしてか私を信頼した。だから、私は書いては書き改め、書いては書き改め、書いては書き改めることを始めて、最終的に終えた。
だが、それをフェルマの最終定理に関するワイルズの研究と比べられるか私は分からない。彼の理論はずっと難しい。私のものはより易しい。特異点解消は手で行われた。大きな理論もテクニックも使っていない。ただ手でなされる。アンドリュ・ワイルズは証明のために多くのことを一緒にした。私はただ新しい定義を造り、その都度研究していた。

Notices: だから、既存の理論を使うよりも、殆ど貴方の思う通りに御自身の理論を作り上げた。

広中: そう。実際、それが私のスタイルだ。

Notices: 貴方は数学者でない人達に特異点解消を説明しなければならなかったはずです。どのように説明しますか。

広中: 特異点は至る所にある。特異点が無ければ、形を語れない。署名を書く時、交叉、尖点が無いなら、ただのくねった線だ。くねった線は署名を作らない。多くの現象が特異点を持つから、興味深い、または時には悲惨だ。特異点は交叉かも知れないし、突然に方向を変える何物かも知れない。世界にはそのようなことが多くあり、それが世界の面白い理由だ。そうでなければ、完全に平坦だろう。仮にすべてがスムーズなら、小説も映画も無いだろう。特異点のために、世界は面白い。時々人々は特異点を解消することは何をするにも役立たないと言う。それは世界を面白くさせない! だが、特異点を持つ時、変化の計算はとても複雑になるので、技術的には特異点解消はとても役立つ。特異点を持たないが、特異点そのものの計算のために使用出来るモデルを私が作れるなら、モデルは大変有益だ。それは虫眼鏡に似ている。スムーズな事柄に対しては、離れて観察し、形を認識出来る。しかし、特異点がある場合、どんどん近づかなければならない。虫眼鏡があれば、より良く見える。特異点解消は虫眼鏡に似ている。実際は、虫眼鏡よりも良い。
非常に簡単な実例はジェットコースターだ。ジェットコースターは特異点を持たない(仮に持つなら問題だろう!)。 だが、ジェットコースターが地面に作る影を観察するならば、尖点と交叉を見るだろう。スムーズなオブジェクトの射影として特異点を説明出来るなら、計算はもっと易しくなる。すなわち、計算で、微分で、または何であれ、特異点を持つ問題を抱えているなら、スムーズな事柄に引き戻せるし、そこでの計算はずっと容易だ。だから、スムーズな事柄へ引き戻して、計算または解析出来、そして元々の幾何では何を意味するのか見るために元々のオブジェクトに引き戻せる。

Notices: 素晴らしいアイデアです。

広中: そう、いいアイデアだと思う。

Notices: しかし、それを一般的に証明することは難しいはずです。

広中: そうね、私は多くの同時的な方程式を持つことを恐れなかった。それが私の最も誇りに思う貢献だった。常識では、単一の方程式は多くの同時的な方程式を扱うよりもずっと簡単だということだった。固定数の変数を持つ問題を研究する場合に、多くの事例では確かに事実だ。しかし、変数の数に関する帰納法によって全次元に対する証明を組み立てたい場合、最初から多くの同時的な方程式によって問題を定式化することを容易にする。逆説的に聞こえるかも知れないが、そうではない。n変数とそれより以下における結果を用いて、(n + 1)変数における問題を証明しようと考えよう。(n + 1)変数における"単一"の多項式は、係数が最初のn変数における"多く"の多項式だということで最後の変数の冪の線型結合として書かれる。だからn変数における多くの同時的な方程式の結果を必要とする。始めに問題が多くの同時的な方程式によって定式化されるなら、変数がいくつあろうと帰納的証明はスムーズに行く。非常に簡単な観察だが、それを思いついた時、私は証明全体がすぐそこにあったと思った。それは局所レベルでの問題に過ぎなかった。大局的テクニックは全くグロタンディークからだ。

Notices: 極小モデル問題に関する森重文の研究のような、もっと最近の研究に対して、特異点解消に関する貴方の研究がどのように繋がるのか説明出来ますか。

広中: それはそうと、森は天才だよ。私はそうではない。それが最も大きな違いだ! 私が京都大学の客員教授だった時、森は学生だった。私が京都で講義し、森がノートを書き、ノートは本として出版された。彼は実に素晴らしかった。私の講義は酷かったが、彼のノートを見た時、すべてそこにあった! 森は発見者だ。彼は人々が想像しなかった新しいことを見つける。3より高次元で、何の種類の多様体または幾何がそこにあるか分類したいとするなら、スムーズモデルに適用する多くのテクニックがあるから、スムーズであるモデルを作ることが助けとなる。スムーズは局所的問題が消滅し、大局的問題のみが存在することを意味する。
ここに特異点を作れる方法がある。或る多様体を取り上げよう。その多様対の或る部分を掴み、それを点に潰す、それが特異点だ。だから特異点自体は幾何である。ブラックホールには別の宇宙が存在するとスティーヴン·ホーキングは言って来ている。特異点はそれに似ている。つまり、その内部を本当に見るなら、大きな世界を見る。だから、特異点を扱う問題は、特異点は一つの点に過ぎないが、その中には実に多くの事柄があるということだ。今、特異点の中は何であるか見るために、それを膨らませ、拡張させ、スムーズにしなければならない。それから、画全体が見える。それが特異点解消だ。森がやっていることは、何かを崩壊させることで特異点を作っていることだ。

Notices: だから彼はスムーズモデルから始め、そして特異点を作っている。

広中: そう、性質のいい特異点をね。それは森が30歳代始めの時にやった研究だった。本当に新しかった。幾何を分類するために、各クラスに対する極小モデルを持つことは役立つ。それからクラスの他のオブジェクトが極小モデルから作られる。2次元では、ザリスキが極小モデル理論を作った。勿論、イタリア学派が極小モデル理論を作ったが、ザリスキはそれを厳密にした。そこでは、極小モデルはスムーズだ。特異点は無い。それが最良の極小モデルだった。3次元では、しかし、スムーズ性を主張するなら、極小モデルを得られない。
"よろしい。小さな良質の特異点を許すなら、極小モデルを得る"と森は言う。これは完全に意外なことだった。そんな小さな極小モデルが存在するとは予期しなかった。3次元とそれより高次元において、スムーズ極小モデルは存在しないことを私は知っていたので、彼がこの研究をしていた時、私は彼が何か間違っていることをしていると思った。そこには存在しないから、何故彼は見つけようとしているのか。だが、"違う。私達が完全に理解している或る特異点を認めるならば、極小モデルが存在し、その他のすべてはそれから形成される"と彼は言った。

米国から日本へ帰国
Notices: 貴方がハーバードにいた間、半分をそこで、半分を京都で過ごしました。

広中: そう。約20年国を離れて、そして帰国した(少なくとも最初の数年は)ので、私は苦労した。例えば、一時私はハーバードの数学部門の議長だった。私達が例えば新任命を議論した時、皆が異なる意見だった。1人が或る人を強く推薦し、他の誰かは或る他の人を推薦し、私達はそれを議論したものだった。だが、日本では違う。推薦があれば、誰も何も言わない。

Notices: 誰も反対しないのですか。

広中: そう。日本では以下のように進行する。A教授が若いB博士を推薦すると仮定しよう。A教授がB博士を推薦したことは事実だ。A教授は文書で推薦を書いた。何故彼は今主張すべきなのか。"他の人に議論して貰いましょう"と彼は考える。そうして、A教授はC教授の推薦に関して何かいいことを言う。もし私が真に受けたら、それは私の間違いであって、会合の後でA教授は憤慨する。だから私は注意深く聞いて、彼が本当に自分の推薦を立証したかったのか確認しなければならない。
1人の日本人は彼が推奨したこと、または彼がやりたいことを主張するだろう。しかし、彼はそれを言わない。もし彼がそれを主張して、それが適わないなら、彼は或る種の不名誉または恥辱を持つからだ。だから細心の注意を払って彼の恥にならないように、そして間接的に彼のしたいことを推測しなければならない。

Notices: 貴方が最初に帰国した時、このやり方を再び解決しなければならなかった。

広中: 私は我慢出来なかった。米国流に余りにも慣れていた! 最初の約2年間に、完全に予期しなかった敵を作った。だが、今私はそれに慣れている。私が数十年前のこと、私達の世代もしくは古い世代のことを言っていることに注意してほしい。日本の若い世代の大部分よりも私は長く海外で生活したけれども、日本の若い世代は私よりもずっと米国化またはグローバル化している。

Notices: 数学をするにも日本流があるのですか。

広中: それに答えるのは難しい。数学は勿論科学だが、個性にも依存する。だが、なるほど、カンファレンスで人々の行動の仕方に違いを見る。カンファレンスが日本人数学者達のみなら、自己のアイデアのプロパガンダと取り変わって、通常他者のアイデアを褒める。だが、それは殆ど賛辞を意味しない! その種のことに慣れなければならない。
数学をすることの業績ではなく、数学をする方法に影響する日本人の文化的特徴がある。ある意味で、ロシア流に似ている。例えば、岡潔は京都大学を卒業したが、その後約十年間何も発表しなかったから、優秀な大学の職を得られなかった。最後に彼は奈良女子大に職を得た。彼は少しクレージだったが、非常に独創的だった。佐藤幹夫の中に同じスタイルと非常に高い創造性を私は見える。同様に或る程度、小平邦彦にも見える。小平は米国に行ったので、非常に西洋流になったが、それでも彼の性質は日本人的だ。それが日本文化と関係するものだ。以下は短絡的かも知れないが、西洋世界では通常、自分自身を語り、或る方法で見せびらかし、自分を偉大に見せ、そしてそうすることによって、モティベーションを高め、突進する。そのおかげで、高レベルの生産性と独創性に到達する。それが一つのやり方だ。だが、日本流は、少なくとも伝統的なやり方はそうではない。いい格好をしない。誰かが認め始めるまで待つ。その時でさえ、控えめにすることは素晴らしく、尊敬に値する特徴だ。だから10年間何も論文を書かない。すなわち、まさしく無だ。数学者は自分のやっていることを誇示しないで信じなければならない。

Notices: 20年以上開かれている若者のための夏期セミナーを部分的にサポートするために、貴方は日本数理財団を設立しました。これらのセミナーはどのように運営しているのですか。

広中: 2つのセミナーがある。一つは学部学生のための日米セミナー、他はただ日本人高校生のためのもの。数学者としての私の経験から、面白いのは議論とアイデアであり、座って聞き、ノートを取る系統だった講義ではないと思う。若い人達が創造的生活を持ちたいと思う時、たとえアイデアがうまく定式化されていない、または変更ばかりがあっても、彼等はアイデアについて語る楽しさを学ぶはずだ。もっとはっきり言えば、創造的活動の最も面白くて楽しい部分はアイデアが変化することだ。これがセミナーが運営している理由だ。
私はセミナーをサポートするために財団を始めた。20年間セミナーを運営した後に、"私は年老いているから、止める"と言った。その時、卒業生達がセミナーを組織し始め、彼等は続けている。近頃、私は非常にのんびりして、2ヶ所で若い人達を教えている。一週間に一つの講義を音楽、絵画、芸術の学校で行っている。小学一年生のクラスも教えている。それは一月に2日だけだが、非常に面白い。
かって私は子供はチンパンジーのようなものと言ったので、誰かが私の言分に激怒した! しかし、チンパンジーは実に素晴らしい。京都大学はチンパンジーを研究する研究所を持っており、私はそこでチンパンジーを観察した。彼等は非常に直観的だ。彼等は即座にすべてを判断する。例えば、そのチンパンジーは入ってくる人の名前を当てるためのボタンを押すように訓練されているらしく、名前が正しければ、彼は褒美、例えばバナナを貰う。たとえ顔の半分しか見ていなくても、チンパンジーはすぐにボタンを押し、決して考えない。これやあれを何故決定したのか見るためにテストするならば、チンパンジーは本当に怒る! 子供もそのようだ。例えば、今私は一年生にオイラーの公式(多角形の面の数、辺の数、頂点の数の間の関係)を教えている。彼等は実に直観的で、答えを推測出来る。
人が働く時、知識を持たなければならないか、または酷い過ちを作るだろう。だが、同時に知識だけでは何も新しいことをしない。人は本能を持っているはずであり、何らかで本能を使用していることに気付いているはずだ。どのようにして本能力を失わせずに子供達に知識を与えるか興味深い問題だ。彼等を知識漬け続けるなら、大部分が本能を失い、知識に頼る。この知識と本能の間のバランスは面白い。
私も小さな数学をやり続けて来ているが、数学を非常に楽しく、かなりの時間やっている。若い時は業績を作りたい、またはコミュニティに認められたいと思う。だが、私は今その種の衝動を持たない。衝動はずっと内面的だ。私は創造的思考を楽しみたい。或る年齢に達する時、時の流れに寄り添う方法を見つけ始める。若い時は、時間とどういう関係を持つべきか分からない。私が20歳代、30歳代だった時と同じように、かなり真剣に数学をしているが、もっと楽しんでやっている。2ヶ月に何かを発表しなければ、それを他の誰かが発表するかも知れないと私は悩まない。私はその種の問題をもうやらない。私がやる必要が無い。誰も考えないだろうことをやりたい! そして、それをすることを楽しめる。

何故数学をするのか
Notices: 素朴な質問です。何故貴方は数学をするのですか。

広中: 私が若かった時、数学をすべき理由についてアイデアを持っていた。だが、そのアイデアは変わり、或る時点で私はもう考えなかった。それは全く私の職業だった。しかし、その後、約50歳代の時、日本に戻り、京都の小学校で講義をした。教師達は児童との質疑応答のセッションをアレンジした。私は彼等に何でも質問出来るよと言った。1人の児童が"何故数学をするのですか"と訊いた。私が何を言ったか憶えていない。私はいくつかの答えを組み立てたに過ぎなかった。面白い学科、挑戦しがいがある、または、そのようなもの。しかし、学校を去ってから、私は何故数学をしているのか真面目に考え始めた! 理由は分かっていると思ったが、その時誰かがその疑問を訊いたら、私は真面目にそれを考え始める。
私は数に関係するものを集めている。例えば、花と葉の10000枚を超える写真を持っている。ただ数を数え、それらを比べるのが好きだ。物事に数学的興味を見つけられるのだから、数学者であることを私は大変喜んでいる。

Notices: 数学をする欲求は物事の珍奇から来るのですか。

広中: そう。先ず、数は面白い。数論は実際に最も重要な数学の分野だと私は思う。また、非常に難しい。加法と乗法の間の関係を真面目に考えるならば、驚くほど奇妙だ。例えば、5は素数だが、1を加えると6になり、それは2×3だ。つまり、異なる数が出現する。それについて大騒ぎするのは馬鹿げているようだが、乗法がこの奇妙さで出現する理由を真面目に考えるならば、数論の多くの疑問と特に素数分布のリーマン仮説に密接に関係する。それは非常に難しい。問題は長年存在して来たが、解決に向けて誰も確かな進歩を作っていない。

Notices: 貴方はリーマン仮説を研究しようとしたことがあるのですか。

広中: いや、それをするほど私は賢くない! それにもかかわらず、生活を楽しくさせる方法を与える。数、加法、乗法の考え方から自然を見ることによって、数学者でない人達よりもずっと楽しめると私は思う。

Notices: それは美学的センスです。

広中: そうだね。だから、素朴な人間的関心と、生活を興味深く楽しくさせる方法の問題だ。

Notices: 数学は数学者が発見する独立した存在を持つものか、または人間によって発明されるものと貴方は考えますか。

広中: 私は歴史家でないが、大雑把に言えば、第二次世界大戦後1960年代と1970年代まで、数学は実に独力だった。内なるモチベーションと内なる興味を通して独力で発展する強い動機を持っていた。例えば、グロタンディークはこの原理によって生きた1人の人間だ。1950年代と1960年代には、私達数学者は実世界への応用を語る人達を見下した。一数学者が応用について語り始めたら、彼が重要なことをしていても、"おや、彼は数学者を辞めた。エンジニアになっている"と私達は言ったものだった。20世紀初頭はユニークな時代で、数学史上の出来事であり、繁栄している(少なくとも私達は繁栄していたと思った!)分野を持ち、純粋で世界から独立していた。これは大きな進歩に繋がり、数学はかなり変化した。その頃でさえ、一部の人達が"抽象ナンセンス"または"純粋ナンセンス"と言っていることを私は憶えている。だが、数学者達はそのように考えなかった。彼等は純粋数学をしていた。仮に誰かが"貴方の研究がどのように世界を助けて来たのか、または使えるものを生産して来たのか"と訊いたら、その当時の純粋数学者達は"馬鹿げた質問だ! 非常に程度が低い質問だ!"と答えただろうと私は確信する。
ポアンカレは純粋数学の見解からも素晴らしい数学者だった。だが、同時に彼は、物理的現象を理解しようとすることで数学は育まれるという点を強調した。基礎物理学の非常に速い発展は世界観をかなり変え、数学に圧力を与えた。アインシュタインの研究または量子力学を見よう。そこでは数学が非常に役立った。だが、物理学も変化した。近頃では、物理学は純粋物理学からもっと応用的なものまで変化している。例えば物理学での20世紀後半期のノーベル賞受賞者を見れば、多くがずっと応用的である。彼等は電気、電子、化学的応用、超伝導、その種のことを研究している。ずっと実世界である。20世紀初期に、少なくとも私の友人達と先生達の間では、理論かつ基礎物理学に興味を持っている多くの物理学者がいたことを私は憶えている。だが、それはかなり変わった。それは数学にも影響を持ったと思う。

Notices: フィールズ賞受賞者を見れば、彼等は皆今迄通り純粋ですよ。

広中: それは事実だ! だが、1960年代と1970年代が疑問の余地の無い存在理由を持つ数学のピークだったと私は思う。

Notices: 貴方は数学に中核があると思いますか。コア及び、あまり基礎的でない周辺領域にある他の事柄を形成する非常に基礎的なアイデアがありますか。

広中: そうね、数に深く関係を持つ理論は数学者達の理想だと思う。数学的活動の理想主義的部分だ。

Notices: 数論は数学の女王です。

広中: 女王はそんなにいい言葉でないかも! 時には、私達はその種の女王を持っていない! しかし、いずれにせよ、人々が数学の究極的オブジェクトとして考えるものだ。幾何学は非常におちゃめだ。形を変えられる、拡張出来る、変形出来る、ハンドルを追加出来る、その種のことを出来る。それを楽しめる。それが意味深長または重要かどうか、それらの基準とは別に、楽しい。それから、力学系と解析学を研究している人達がいる。私のクレージなアイデアは解析学が侍に似ているということだ。彼等はカットを作る。つまり、シュュ! それがいいカットならば、彼等は一部を放り投げられる。そして彼等は素晴らしくいい定式を見つけられる。

Notices: 彼等は不必要部分も切り取りますよ。

広中: そうだね。これらの異なる種類の数学の根本には、数学の永久不変の問題または永久不変の使命がある。意識的であろうが無意識的であろうが、数学者達のすることは無限の有限化である。無限な事柄をコンピュータに置くことは不可能だ。コンピュータがいかに優れているか、コンピュータがいかに速くなっているかの問題ではない。無限な事柄を計算出来るはずがない。だが、それをする仕事を持つ数学者達がいる。つまり、モデルを定式化すること。元々の現象とは正確に一致しないかも知れないが、その現象を理解することに手助けする。モデルは有限だ。それをコンピュータに置ける。コンピュータは少なくともモデルに対して正確な答えを計算出来る。だから数学者達は無限に対して有限な形または有限的に計算可能で理解可能な形式を与える。
これは実に人間性の面白い特徴だ。私の考えでは、人間は無限の概念を持つということで他の動物と違う。人間は無限を決して目にしないし、人間は無限に生きない。宇宙でさえも無限の長さで継続しないかも知れない。だが、人間は無限のアイデア無しでは生きられない。

Notices: 生きられないと考えるのですか。

広中: そう。これが人々が宗教を造る理由だ。一生で到達出来るよりも世界はずっと遠く、宇宙はずっと大きいと宗教は言う。だから安心を感じる。無限は信念みたいなものだ。無限または永久不変に信念を置くならば、より幸福を感じる。

Notices: 満足を与えるものが存在する。それはいくらか世界を完備化する。

広中: 正しい。他の動物はそれをしないと私は考える。他の動物が出来ない、人間の文化的かつ知的活動は無限の特徴に関係があると思う。それが一つの理由だ。だが、同時に何かを理解し、それを実際に計算出来て、実際の製品を作るための研究にそれを置くならば、すべてが有限だ。仮にそれを無限とするならば、何も出来ないはずだ。人は無限を出来ないし、作れないし、計画出来ない。人間は2つの手を持つ。一方は無限内にあって、他方は有限実世界内にある。数学者の本当の仕事はどうにかしてこれらの2つを繋げることだと私は思う。

コメント

このブログの人気の投稿

ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する

今回紹介するのは abc 予想の証明に関する最近の動向を伝えている記事です。 これを選んだ理由は素人衆が知ったかぶりに勝手なことを書いているのをネット上で散見するからです。ここで言う素人衆は日本のメディアはもちろんのこと、馬鹿サイエンスライターも当然含みます。昨年末(2017年12月16日)に某新聞が誤報に近いことを報道したことも記憶に新しいでしょう。そんな情報に振り回されないために今回の記事です。 今回の記事は正確かつ公平だと私は思いました。私の友人共の何人かは、この方面の専門家だから門外漢の私はいろいろなことを教えてもらいました。その上での感想です。 その方面の専門家でなくても数学の研究者なら望月論文は無理でもレポートは読めるはずなので、もっと詳しく知りたい人はレポートを読んで下さい。 前置きはこれくらいにして、紹介する記事は" Titans of Mathematics Clash Over Epic Proof of ABC Conjecture "です。その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] ここに至るまでの経緯については" 数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明 "を読んで下さい。その記事は2015年12月にオックスフォードで行われた望月論文に関する初めての国際的ワークショップより前の話が書かれています。 このワークショップはいろいろ評価が分かれるけれども、私が聞く限り、大失敗だと言う人が多いです。実際、私の海外の知人の一人がワークショップに参加しており、ボロクソに言ってました。 このワークショップを境に、海外特に米国では望月論文を理解しようとする熱意が急速に薄れたように感じますし、ショルツ、スティックス両博士の異議申し立てが出るまで実質何の音沙汰もない状態でした。 [追記: 2018年10月23日] 私の友人共に指摘されたのですが、この記事の私訳を読む人の殆どが日本の全くのド素人なんだから、たとえ原文に記載されていなくても誤解を生じさせないように訳者が万全を期するべきだと言われました。 記事に出て来る Publications of the Research Institute for Mathematical Sciences (略してPRIMS)...

数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明

前回紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "はもちろん一般大衆向けの記事です。数論、数論幾何学、IUTT(宇宙際タイヒミュラー理論)のいずれかの専門家なら、そんな記事を読まなくても、そこまでに至る経緯は十分に承知しています(何故なら自分達の飯の種を左右する問題だから)。その方面の専門家でなくても数学研究者なら数学コミュニティ又は数学界を通して大概の経緯を聞き及んでいます。 私の身辺(私の友人共はすべて何らかの形で数学研究に携わっているので、それらを除きます)でその記事を読んだ感想は"そんなに拗れるのは不思議だ。もっと経緯を知りたい"というのが多かったです。その身辺の彼/彼女等はもちろん素人衆ですので、望月新一博士の名前も報道でしか聞いたことがないし、数学で何故これほどまでもつれるのか不思議でならないそうです。彼/彼女等は至って真面目です(何故こういう事を書くかと言うと、素人衆と言っても千差万別で、中にはネット上で国家高揚か日本民族高揚のために望月博士のことを書いているとしか思えない不逞の輩がいるからです)。そこで、それらの真面目な人達のために今回紹介するのは2015年10月の Nature 誌に載っていた" The biggest mystery in mathematics: Shinichi Mochizuki and the impenetrable proof "です。 何故これを選んだかと言うとエンターテイメント性があり、素人衆でも面白く読めるだろうと思ったからです。但し断っておきますが、いろいろな数学者の証言を繋ぎ合わせて望月博士の心情を勝手に推測するのははっきり言って妄想であり、さすがエンターテイメント性を重視して堕落した Nature 誌だけのことはあると私は思いました(あのSTAP論文を掲載したことも記憶に新しいでしょう)。 その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] この記事は2015年12月に行われたオックスフォードでのワークショップより前の話です。このワークショップは望月論文に関する初めての国際的な会合で、この記事でもこのワークショップにかなりの期待を寄せているところで終わっています。 しかし、いろいろ評価が分かれ...

谷山豊と彼の生涯 個人的回想

数学に少しでも関心のある人なら、フェルマーの最終予想が、これを含む一般的な志村予想を証明することによって解決されたことは御存知でしょう。この志村予想は、かって無知と誤解によって谷山-志村予想と呼ばれていました。外国では更に輪をかけて(と言うよりもアンドレ・ヴェイユの威光によって)谷山-志村-ヴェイユ予想と呼ばれていました。ヴェイユがこの予想に何ら関係しないことは、故サージ・ラング博士によって実証されました。それでも、谷山-志村予想もしくは谷山予想と呼ぶ人がまだ散見されます(散見と言いましたが、日本人ではかなり多いです。国民性に依存するのかどうか知りませんが)。私は数論を専攻したことがなく、ずぶの素人ですが、志村博士が書かれた記事や自伝"The Map of My Life"を読み、何故志村予想なのか納得しました。ここで込入った話を書くことは不可能なので、分り易く言えば、故谷山氏は何ら予想の内容にタッチしていないと言ってもいいかと思います。勿論、その周辺は谷山氏の研究分野でしたから周辺にはタッチしていたでしょうが、志村博士は全く独立にきちんと予想を定式化しました。ですが、谷山氏と志村博士はいわゆる盟友関係であり、また谷山氏の不幸な亡くなり方を悼む日本人的感情(つまり、センチメンタル)から日本人は谷山-志村予想と頑なに呼んでいるのだと私は理解しています。ですが、これは数学なのであり、事実を直視しなければいけないと思います。また、最終的に志村予想は証明されたのですから、何とかの定理と呼ぶべき時期だと思います。この"何とか"に何を冠するかはいろいろ意見があるようですのでこれ以上は触れないでおきます。 さて、志村博士の"The Map of My Life"の第4章、18節に"18. Why I Wrote That Article"があります。ページ数で言えば145ページ目です。タイトルが示している"あの記事"とは、志村博士が英国の専門誌 Bulletin of the London Mathematical Society に発表した" Yutaka Taniyama and his time, very personal recollections ...

識別の危機

昨年紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "の元記事はもちろん大衆向けのオンライン科学ジャーナル Quanta Magazine に掲載されたものですが、著者はErica Klarreich女史です。彼女はサイエンスライタではあるけれども、歴とした数学者です。しかも、幾何的トポロジで彼女の名前を冠した定理を持つくらいの立派な方です。何故こういうことを書くかと言うと、IUTを支持するイヴァン・フェセンコ博士がKlarreich女史をいかにも素人呼ばわりした非常に下らないドキュメントを書いたからです。大学にポストを持っていなければ全員が素人なんですかと問いたいくらいです。これでは世界からIUT自体が白眼視されるのも無理からぬことだと思いました(本当のところは全く違う理由からなんですが、話せば切りが無いので止めておきます)。 さて、今回紹介するのはディヴィド・マイケル・ロバース博士が書いた記事" A Crisis of Identification "です。ロバース博士と言えばショルツ、スティクス両博士のリポートが公開された直後からキャテグリ論の専門家として非常に冷静な分析をされていたことに私は感心してましたから直ぐに記事を読みました。一つの不満を除いて非常によく書けていると思います。" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "も勿論読み応えのある立派な記事でしたが、どちらかと言うとドキュメンタリ風の記事でしたし、読者層が一般大衆であることを考慮してあまり数学を前面に出していませんでした。ロバース博士の記事はもう完全に数学を前面に出しています。 前述した一つの不満はグロタンディーク氏のことにスペィスを割いて結構触れていることです。今のABC予想の置かれている状況とはあまり関係がないと私は思いました。やはり大衆受けを狙ったのかと感じました。まぁ、日本でも素人には何故かグロタンディーク氏は大人気ですから(捏造されたエピソゥド、つまりグロタンディーク素数がどうたらこうたらに踊らされて?)、それはそれで良いのかも知れませんが。 前置きはこれくらいにして、この記事の私訳を以下に載せておきます。なお著者の注釈欄を省いていますが、注釈へのインデクスはそのままです。 [追...

数学教育について

聞くところによれば、関数型プログラミング言語の流行とともに数学の圏論がブームだそうで。圏の概念が他の数学の分野を全く知らない人でも意味が分かるのか疑問を持っています。その理由は後で述べます。 私の手許に故Serge Lang博士の名著"Algebra"があります。この本は理由があって、何と大昔の1974年の初版第6刷です。非常に貧しい学生だった私に恩師が2冊持っているからと言って1冊を下さり、私の生涯の宝物です。 仮に数学を代数学、幾何学、解析学という全く意味が無い区分けをしたとします。意味が無いと言うのは、例えば多様体論なんかはどの分野にも入るからです。そうであっても無理に区分けしたとしましょう。この3分野のうちでも、代数学(厳密に言えば抽象代数学です)が、勉強するだけなら(あくまで勉強するだけですよ、研究となれば別の話です)数学的予備知識も数学的センス(故小平邦彦博士の言うところの"数覚"、位相群で有名だった故George W. Mackey博士の言うところの"数学的成熟度"、まぁ簡単に言えば数学的才能ですね)も全く必要としません。必要なのは論理を追うための忍耐力と言えます。ですから、理解出来るか否かは別にして、代数構造を"言葉"として吸収することは誰にでも出来ます。数学のどの分野を専攻してもLang博士の"Algebra"程度の知識は"言葉"として知っていなければ話にならないのです。数学での代数学は、私達が日本語や英語等でコミュニケーションするのと同じく、数学の言語なのです。 Lang博士の"Algebra"には、第1章群論の第7節に早くも"圏と関手"が登場します(ページで言えば25ページ目です)。ついでながら、この圏、関手という日本語は全く元の英語が想像出来ないので、以降カテゴリ、ファンクタと書きます。 ところで、Lang博士はブルバキにも入っていた人ですから、こういう抽象度が高い概念を重要視しているかと思いきや、決してそうではないのですね。元々カテゴリ、ファンクタ(ファンクタの方が重要な概念でして、カテゴリはファンクタが扱う対象物です)は、ホモロジー代数の一部として提案された概念です。ホモ...