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証明の不滅

数学科卒でない知人の一人が微積分再入門ということで張り切って勉強し直しているのですが、先日会うと、どうも上極限・下極限の概念が分かりにくいとぼやいていました。教養課程の微積分で習ったはずだと私が言いましたら、知人は当時も理解していなかったと正直に答えていました。だから、ちょっとだけ相談に乗ってあげるつもりで何が分からないのかと聞くと、知人の使っているテキストの上極限の定義と、昔学生の時に習ったはずの上極限の定義、つまりlimn→∞sup anが、どうつながるのか分からないと言いました。そのテキストの上極限の定義は知人の言葉で書けば以下の通りです。

(知人の使用しているテキストでの定義)
数列{an}の上極限とは、{an}の最大の集積値である。
(なお、念のために言いますが、これは知人が口頭で述べたことであり、実際にテキストでこう書かれているという意味ではありません。どういうテキストなのか見せて貰っていませんし、おそらく集積値の集合に対する最小上界というように定義されている可能性の方が高いと私は推測しています。その場合でも上の定義と一致します。つまり、集積値の集合は明らかに閉集合なので、最小上界は集積値の集合に属し、結局は最大の集積値となるからです。)

その知人が読む可能性が高いのにもかかわらず、はっきり言えば、この程度のことが分からないのは、学生時代に習ったはずの上極限の定義すらも全然理解していなかったことが本人の白状を待つまでも無く明白です。つまり、暗記していたに過ぎないとも言えるでしょう。手取り足取り教えるのは私のポリシーに反するし、本人のためにもよくないと思ったので、以下の問題を紙に書いて渡し、これに解答出来れば、貴方は上極限を理解したことになるので頑張って取り組んで欲しいと突き放しました。

(問題)
数列{an}の上極限は、infn≧1(supk≧nak)、もしくはlimn→∞supk≧nakと定義されているとする(念のために言えば、どちらの記号も込入っているので、一般的に上極限の記号は略記的にlimn→∞sup anと書かれています)。
αが数列{an}の最大の集積値ならば、αは{an}の上極限であることを示せ。
逆に、αが数列{an}の上極限ならば、αは{an}の最大の集積値であることを示せ。

数学科の学生ならば、一年生でも100%近くの全員が解答出来るはず(いや、出来なければおかしいとも言うべきです)のレベルであり、試験に出すようなレベルでは決してなく、宿題レベル以下の基礎的なものです。知人は痛くプライドを傷つけられたのかどうか知りませんが、私の冷たい対応にちょっと憤慨気味の様子でした。その後ちゃんと解答出来たのか聞いていないので知りません。しかし、私も鬼軍曹ではなく、知人が読むだろうことを期待して、そして初学者にも分かりやすいように解答例を書いておきます。

(解答例)
最大の集積値αに収束する部分列を{ani}、{an}の上極限をaとする。α=∞ならば、{an}は上に有界ではないので、上極限aも∞である。α=-∞ならば、仮定によりα以外に集積値はあり得ず、{an}は-∞に発散し、上極限aも-∞である。以降、αは有限とする。αに収束する部分列{ani}に対して、ani≦supk≧niakだから、niを十分大きくすると、α≦aとなる。aも{an}の集積値の一つであるから(上極限が集積値の一つであることは明らかであるが、下に述べる逆命題の証明のところでも触れるので、それを参照のこと)、αの最大性によりα=aでなければならない。よって、αが上極限であることが示された。
逆に、αが上極限であるとする。α=∞ならば、{an}は上に有界ではないので、ある部分列{ani}は∞に発散する。この場合、α=∞が最大の集積値である。α=-∞ならば、{an}は下に有界ではないのだから、ある部分列{ani}は-∞に発散する。別の部分列{ami}が有限値aに収束するとする。任意の正の数εに対して、a-ε<ami<a+εとなり、a-ε<supk≧miakが成立する。miを十分大きくすると、a-ε≦αとなるが、今の場合α=-∞だから矛盾する。よって、有限な集積値aは存在しない。部分列{ami}が∞に発散するなら、上極限も∞でなければならないが、α=-∞だから矛盾する。よって、今の場合α=-∞が唯一の集積値である。以降、αは有限とする。任意の正の数εに対して、ある自然数Nが存在して、α-ε<supk≧Nak<α+ε。よって、ある自然数ni(≧N)が存在して、α-ε<ani<α+ε。任意のεに対応して、このようなniが必ず存在するのだから、{ani}はαに収束する部分列である。すなわち、αは{an}の集積値の一つである。α<aとなるような集積値aが存在すると仮定しよう。0<ε<(a-α)/2となるようなεに対して、a-ε<ami<a+εを満足するamiが存在しなければならない。α+ε<a-εだから、α+ε<supk≧miakとなる。ここで、miを十分大きくすれば、α+ε≦αとなって、ε≦0。これはεの取り方に矛盾する。よって、このようなaは存在せず、αが最大の集積値であることが示された。

以上のことを書いたのは解答例を知人にほのめかすためだけではありません。定義や定理の意味の解釈を別解釈することで、違う見え方が出来て、時には問題の突破口になるかも知れないということを言いたいがためです。そのためには元の意味をしっかり把握することが前提となるので、丸暗記などは愚の骨頂です。上記の上極限の2つの定義は実際に問題を解く場合にさほど差異はありませんが、例えば、冪級数の収束半径に関するコーシー・アダマールの定理も初学者には違った見え方が出来るかも知れません。そういう意味で、数学のテキストも数学者が書くのであれば誰のものでもいいというわけではありません。研究書や講義録ではなく、誰もがよく知っている初等的数学事項を扱うテキストの場合には証明の上手さ、透明性を指標にして選ぶのがいいと思います。例えば、故Walter Rudin博士の書いたどのテキストにも(博士は生涯で3冊ほどしか書いていませんが)、定義や定理の適切な解釈、証明の巧みさ、透明さに私は何回も読む度に脱帽します。反対に、初等的事項と言えども、証明が下手(もしくは意味不明や誤証明)だと下辺な私でさえ思うテキストを書く数学者は残念ながらわんさといます(それらの数学者は殆どの場合、研究者的に二流、三流以下であり、世界的名声を持っていません。だから、現役盛りの時でも自己釈明もしくは教育への貢献というポーズのもとに厚顔無恥で複数のテキストを書くのでしょう)。
要は当たり前のことですが、定義や定理の意味の解釈と証明は表裏の関係にあると言えます。定義や定理の意味を考え抜いた後に証明があるのです。従って、意味の解釈をなおざりにして、証明を読んでも分かるはずがなく、まして阿呆学生が証明を暗記しようとするなどは以ての外です。著者の書く定義や定理の説明を違う角度から別解釈してみたり、意味を考え抜いた後には、憶えようとしなくとも自然に定義や定理の説明が出て来て、時には自分で証明を思いつく場合もあります。逆に証明があろうが無かろうが余り気にならなくなりますし、書かれている証明の見え方が全然違って来ます。作家や音楽家の愛好者が作品群のリスト等のデータを暗記しようとしたでしょうか? それと同じことです。
ここまで書いて、昔に証明不要論という馬鹿げたことを言い出した阿呆通俗科学ジャーナルがあって、それに対してSteven G. Krantz博士が"The Immortality of Proof"(PDF)で懸命に反論したことを思い出します。御存知の通り、Krantz博士は多複素変数等の分野で著名で、現在はNotices of the American Mathematical Societyの主任編集者でもあります。私も博士の"Function Theory of Several Complex Variables"に大変お世話になりました。博士の書いた反論の私訳を以下に載せておきます。

[追記: 2019年03月21日]
このペィジは2013年02月23日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

証明の不滅
1994年1月 Steven G. Krantz ワシントン大学

これは、Scientific American1993年10月発刊号のカバーストーリー"証明の死"への反論だ。もっと一般的に言えば、その記事に言及されている考えの連中についての論評である。
記事は、数学者が定理を記述して証明していることが時代遅れだと指摘する。この変化に対するいろいろな理由が以下のように述べられている: 数学はとても複雑になって来ているので、大部分の数学者が他の数学者の証明を理解出来ない。更に、証明はとても長く複雑である。フェルマー最終定理のワイルズの証明は200ページだ。詳細すべてが記述されるなら、1000ページになるであろう。ケプラー球充填問題のW. Y. Hsiangの解法は、3年以上後でも疑問となっている(実際には、一部の専門家達は最近私にHsiangの証明は間違っていると思うと言っている。だが、少なくても、これらの専門家はHsiangが証明として提出する内容を理解していた!)。今回の遅延は何をしているのか分からないほど事は複雑になっているという考えの証拠として示されている。
一部の人は、数学の論理的基礎が一般的に合意しているよりも脆弱だと指摘する。基礎は事実上解決出来ない矛盾に満ちている。数学的伝統に固執する(私自身のような)恐竜は全く時代遅れであるという根拠として、これが載せられているらしい。要するに、完全に正しくはないことを擁護する意味は何なのか? 定理を証明すること以外に数学をする方法を何故許さないのか? コンピュータグラフィクスを分析することによって、またはBabai風に、ある命題は"おそらく正しい"ことを示すことによって真実を確立出来ないのか? Scientific Americanの記事に続いて起こっている騒動のうちに、記事のテーマが著者の空想の作り事だと定評されて来ている。誰も公然と証明は死すと述べる数学者を見つけられない(誰か志願するか?)。明らかにJohn Horgan(著者)は数人の数学者のインタビューを部分的に理解しているに過ぎなかった。著者はいろいろなインタビューを編んで奇妙な実際根拠の無いタペストリーを造り、彼が聞いたと思ったことを妄想図に仕立てた。実際に印刷された記事の起源が何であれ、私はそこに表現されている考えが危険(数学者の皆さん、私、そして私達の職業と分野にとって)だと思う。何人かの望ましい人々が起ち上がり、記事に対する彼等自身の意見を系統立てて答えた。今回は私のものだ。
記事が言うように、フェルマー定理のワイルズの証明が"時代錯誤"でないことは事実だ。人類の英知の勝利である。記事が指摘する通り、それを理解することは我々全体の知識範囲を超えていない。ガウスは非ユークリッド幾何を最初に発見したと主張した。ガウスが言っていることを誰かが分かるだろうとは思わなかったから、彼は発表しなかった。対照的に、今日の学生は高校で非ユークリッド幾何を習う。新しいアイデアは基盤の一部となるために時間を取る。
世界中の数百のセミナーで、フェルマー最終定理のワイルズの証明を人々は調べるだろう。それが最終的に正しいか、またはそうでないかになるだろう。正則函数のヒルベルト空間に関するLouis de Brangesの本が好例だ。その本は(噂によると)ビーベルバッハ予想の証明をした。多くの数学者による思考と分析の後に、今やLenard Weinsteinによる2ページの証明がある。確かに、de Brangesのアイデアに基づいてはいるが、微積分以上のものは無い。Lusin予想のLennart Carlesonの証明も全く難解だった。だが、しばらくの後、多くの数学者による相当な量の研究と、Charles Feffermanによる独立する証明で、私達はそれが正しいこと知っている。このように証明が進化し、確認されることは数学の厳密さへの証しであり、数学のプロセスである。ワイルズの証明が正しければ、フェルマー定理の簡単な証明が進化するだろうことは大いにあり得る。
この最後の考えを展開することは価値がある。数学は単純にある個人や小グループによって成し遂げられる努力の産物ではない。もっとはっきり言えばプロセスだ。ある"先頭人物"がしばしば偉大な定理の最終段階(証明)を思いつくが、証明の中にある多くのアイデアを形成し、後で確認する基盤の働きを詳しい分析は示している。これが、数学が作用する様のとても美しいことの一部だ。一人の人間が論文に最後の言葉を書くが、コミュニティ全体が先頭に立ってボールを運んでいる(そして、ボールに空気があることを確認している)。
Hsiangの証明が疑問のままということは事実だ。これは、殆どの人が読んでいないか、または懸命に考えていないからである。問題が形成されてから3百数年の間に、数学は進化し、分散して来た。最近まで球充填問題は中心問題と考えられていなかった(ConwayとSloanの最近の本は多分それを変えるだろう)。だが、ケプラー問題の噂の解法が問題ではなく、(現在において)150ページの解法を読むために、数学者が今していることを放棄させるだろうことだ。Hsiangが正しいか結局分かるだろうが、私達の殆どが注意をどこか他へ逸らし終わっている。
最後に、数学の基礎について。ラッセルのパラドクスと整数構築の問題について誰もが知っている。だが、論理学者はこれらのことを扱う方法を決めて来た。逆にMorris Klineは、数学は砂の基礎の上に建てられていないと言う。数学よりももっと厳密または堅固な、人類による研究分野は無い。数学が永続的価値を持つ理由の一つは論理的に一貫していることだ。新世代は新しさを贔屓して旧数学を拒否しない。と言うのは、そうではないと主張する立派な数学者は反生産的であり無責任だからだ。
考える価値のある、もう一つの見解は以下だ。数学の基礎が興味深く重要である一方で、それは日常の数学活動に殆ど関係が無い。ゲーデルの不完全性定理とラッセルのパラドクスを私に面と向かって振りかざすことは、複素解析ついての私の思考を止めることにならないし、幾何学的トポロジーまたは貴方の選考分野が何であれ、それについての貴方の思考を止めるはずがない。数学が堅固な基礎から論理的に発展するというヒルベルト/ブルバキの見解は、物理でのニュートンの見解に少し似ている。理知的に響くが、それがすべてではない。
Scientific Americanの記事のテーマの一つは、証明が間も無くコンピュータ実験に置き換わるだろうということだ。Babaiの最近のアイデアに訴えて、コンピュータは命題が"おそらく正しい"ことを示せると指摘する。コンピュータグラフィクスは私達独自では見えないものを見せることが出来る。ここで、コンピュータシミュレーション、グラフィク実験、数値実験、"コンピュータ証明"(それが何であれ)、古典的方法で既に証明されている定理の意味をグラフィク的に描くためのコンピュータ利用(例えばコンピュータグラフィクス映画Not Knot)の違いを分類することは重要だ。コンピュータ実験は、Calabi予想のYauの証明も、特異積分に関するCalderón-Zygmund定理も、PDEの局所的可解性に関するNirenberg/TrevesとBeals/Feffermanの研究も、非同次コーシー・リーマン方程式に関するKohnの研究も、正規変換に関するEgorovの研究も知らせられなかったであろうことを指摘させてほしい。コンピュータはビーベルバッハ予想に関するde Brangesの証明のテクニカルステップの一つの中で使用されたが、いろいろなSchlicht函数の冪級数を生成するためにコンピュータを使用してアイデアを得るための係数をde Brangesがじっと眺めていたと考えるのは滑稽である。高校生を数学に熱狂させる効果を高めるために映画Not Knotは使用されて来たというのが私の理解だ。それらの生徒の多くが次に数学を専攻し、数学界で専門家になっている。才能ある米国数学者を育成し、ビジネス学校、法律学校、コンピュータサイエンス等から数学へ生徒を引き戻すだろう何らかの仕組みは神からの贈り物だ。しかし、私達が(John Horganのように言葉巧みな人と一緒になって)熱狂し、映画が何らかの"コンピュータ証明"だと自己を騙して考えることのないようにしよう。映画Not Knotは数学を大衆化させるための仕組みであり、今世紀においてもっと為される必要のあるものである。"数学者"と呼ばれる専門職があることを殆どの米国人は気づいてさえいない。私達を除いて、これを恨む人はいない。
多くの点で、これは数学(伝統的方法で為される古典的で厳密な数学を私は意味している)のための黄金時代だ。(ほんの少しを挙げれば)幾何学者とPDE研究者、幾何学者と物理学者、幾何学者と解析学者との間で起こっている素晴らしいコラボレーションがある。大きな進展が進行しているスピードは信じられないほどだ。けれど、よく見出しになる数学はコンピュータグラフィクスの形である。これは納得行く。と言うのは、大衆は偽微分作用素よりも断然コンピュータグラフィクスを喜んで使用するからだ。
しかし、これは私達がしようとしていることを大衆に理解してもらう方法を解決するよう私達恐竜に負担を置く。"大衆"は(1)有望な大学院生、(2)上院議員と下院議員、(3)米国有権者を含むことを忘れてはならない。また、米国国立科学財団(NSF)の計画案責任者と他の機関はScientific Americanを読む。彼らが読んだものによって部分的に資金援助の考えが影響されるだろうと思う。貴方が私のしているような、単純な方法ではコンピュータグラフィクスに向いていない分野を研究しているなら、貴方の大学院生、学部学生、(可能ならば)広い層の人達に貴方のやっていること、それが価値がある理由を知らしむ方法を考えるべきだ。
数学をするのは難しい。コンピュータプログラミング(少なくとも、ある賢い人が10年前に証明した定理のビデオを作るレベルで)は比較的やさしい。後者は、私達の分野の大衆化とコミュニケーションにおいて重要になるであろう一方で、John Horganと同じ間違いをせず、数学をしていること同じだと考えないことを私は希望する。これを違う方向で見るならば、証明に対するアイデアを生成するため、または進んで行く勇気を与える、十分な実例を与えるためにグラフィクまたは数値実験をすることは貴重な仕事であることを指摘させてほしい。だが、それ自体ではゴールでない。本質的な価値は無い。
無駄を覚悟の上で、力学系は現代数学の活発で非常に定着しており、厳密な分野であることを述べさせてほしい。フラクタルの絵を描き、それに"XP-43"のような名前を与え、それを絵葉書に印刷して一枚1$で売ることではない。
私はScientific Americanの記事中で、数学者達は立ち上がって彼等の分野を擁護する気の無い"骨無しのぐうたら"集団という趣旨で引用された。私はこれを悔やんでいる。メッセージを作っていることを憶えていない。もっと言えば、私の通常の業界用語で述べられていない。だが、私達の分野がどういうものかを定義し、それを擁護することは私達の義務である。私が実際にこのメッセージを作ったのなら、それを撤回しなければならないであろう。私達のやっていることを擁護するために相当数の数学者がHorganに反論するのを見て私は喜んでいる。私に関するHorganの誤引用は一つのきっかけとして考えたい。今やそれが滅茶苦茶に使用されていると考えよう。
Scientific Americanの記事が報告した通り、バークレイの高校教師は今ユークリッド幾何で証明を最小化している。この変化の支持のうちで一つの議論は、コンピュータは命題の5000ケースを素早くテスト出来、証明はもはや必要でないということだ。これらの変化は有意義かも知れないけれども(教師は恵まれない生い立ちの生徒、またはテレビを見過ぎの生徒を思っているかも知れず、いつも受身的である)、基礎数学的価値にもかかわらず、変化は広まっている。記事自体は、生徒達はもう証明の価値を認識しないと主張する。だから、私達は彼等を教える別の方法を探さなければならない。
生徒達は教えられていなければ読書の価値を認識しない。教えられていなければ良い音楽の価値を認識しない(ベートーヴェンの第5番交響曲が余りにも複雑だから、それを"ダ、ダ、ダ、ダーン"とビデオに置き換えることを誰かが提唱しているのか?)。教えられていなければ数学的思考の価値と重要性を認識しない。微風の中の葦のように曲げるのではなく、生徒達を教えることは私達の仕事である。生徒達の無知の気まぐれに迎合しないで、彼等の中に強い知的価値を植えつけることを高校教師達と一緒に私達は働かなければならない。このごろの高校教師達が低賃金と敬意の不足を彼等の運命と感じていることが、ユークリッド幾何での証明に納得しない非常に訓練された高校教師ではないグループを私達に宛がって来ていると私は懸念する。私は最近わが町の高校教師達に学校でどのようにユークリッド幾何を扱っているのか訊いたが、彼等はユークリッド幾何が何であるか知らなかった。
世間のもう一つ興味深いことには、官僚制度はハードウェアを好むことだ。4年間の人間形成のためにかわいい娘をある大学に送るべきかどうか印象を得るため両親がその大学へ来る時、大学運営の有力指導者は非常にむさ苦しいノーベル賞受賞者とフィールズ賞受賞者を見せない。かわって、遺伝子工学研究所とスーパーコンピュータセンターを見せびらかす。同様に、納税者はPCとソフトウェアを買うために金が使用されていることを納得する。彼等は金が教師の賃金を増やし、その結果私達はいい教師を得られることを理解しない。この国の私達数学者は数学的知識の管理人であることを思い出そう。それは本ではなく、ソフトウェアではない。私達なのだ。数学が何であるかを定義し、それを擁護するのは私達の義務である。今やNSF資金援助は阿呆の道を進んでいるから、私達はもっと時間を要するかも知れない。
Jean Taylorの研究、David Hoffmanとグループの研究がScientific Americanの記事中で目立った言及を受けたことを私は嬉しく思う。これらの科学者はコンピュータ実験(そして、金属線フレームを石鹸解の中に入れるような、理屈を超えた実験も)によって十分な知識を得られる分野で研究をしている。彼等は実験を終えた後に定理を証明している。何が真実かを知っている方法だ。数学の勝利の一つは、信憑性の高くない事例を超越することだ。定理の伝統的定義は次のようなものである。"試験済みで正確な論法による不変量または幾何学的事実を証明していること"。この定義を"コンピュータグラフィクスでの観察の後での未知な推測の提案物"で置き換えることは、誤った方向に向かい、悲劇となるであろう。この3000年に私達が学んで来たことすべてを慎重な考えも無く廃棄するから、悲劇なのである。新しい道具の価値が確立されていない一方で、伝統的数学の価値が非常に定まっているから、間違った方向なのである。
証明を廃棄し、"確からしい証明"と"グラフィクス分析"で置き換えることを正当化するためにHoffmanとTaylorの研究を使うことは、アナーキーを正当化するためにジョン・スチュアート・ミルの研究を使用するようなものである。ウィリアム・ジェニングス・ブライアンは偉大な大衆演説家だったが、アドルフ・ヒトラーもそうだった。だから、何? 繰返すが、Scientific Americanの記事は、数学的証明がコンピュータ実験に置き換えられるケースをサポートするために逆命題と対偶命題を混同している、古典的プロパガンダ手法を使っている。私達は皆これが誤りであることを分かっているが、Scientific Americanの読者層はこれが分かるだろうか?
手作業では余りにも複雑になっていた計算を知るために私はコンピュータ代数を使ったことがある。私の心の中では、または鉛筆と紙を用いては見れないものを見るために私を助けるグラフィクスをいつの日か使うだろうと想像する。伝統的な訓練を受けた他の数学者がこれら新しいツールに精通するようになることを私は強く主張する。だが、ツールはそれら自体では目的ではない。平面に単連結領域を描くことは、たとえ描いたのがコンピュータであってもリーマン写像定理(RMT)を証明することと同じではない。私は20年以上の間RMTを考えて来ており、考えを支援するために絵画の類を描いたことはない。Thurston、Rodin、Sullivanが私達にRMTを考えるための興味深く新しい方法を知らせてくれている。その方法は非常に幾何学的で、素晴らしいコンピュータ絵画に適している。だが、絵画は何も証明しない。
そして、私達はお互いを誤解しないようしよう。絵画は価値がある。それらは数学的アイデアを交換する時に特別に価値があるが、貴方がプライベートに問題を解こうとしている時にも価値がある。素晴らしいグラフィクスソフトウェアの有用性は今や複素絵画を容易に描き、私達に面白くて新しいツールを提供する。だが、賢いガウスに利用可能なコンピュータがあったなら、リーマンよりも数年前にリーマン写像定理の証明を彼が出来たとはならないだろう。
他の数学者がこれらの問題を議論することを希望するが、おそらく私の言うことに強く反対するだろう。狼は私達の中にあり、私達にとって何を信じ、何を重んじるかを決定する時である。Scientific Americanの記事が現れてから生じている議論の結論の一つは、多くの狼が数学者ということはありそうにもないことだ。だが、狼はまだ危険である。彼等はメディアに影響力があり、予算執行機関に影響力がある。修道院の外に危険があることを知らなければならない。
10年または15年内で証明を見捨て、コンピュータにおそらくは正しいと語らせるようになっているのかどうか分からない。しかし、10年または15年内では、私達の欲することを決めるのは遅過ぎるだろう。今日、決めなければならない。

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昨年紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "の元記事はもちろん大衆向けのオンライン科学ジャーナル Quanta Magazine に掲載されたものですが、著者はErica Klarreich女史です。彼女はサイエンスライタではあるけれども、歴とした数学者です。しかも、幾何的トポロジで彼女の名前を冠した定理を持つくらいの立派な方です。何故こういうことを書くかと言うと、IUTを支持するイヴァン・フェセンコ博士がKlarreich女史をいかにも素人呼ばわりした非常に下らないドキュメントを書いたからです。大学にポストを持っていなければ全員が素人なんですかと問いたいくらいです。これでは世界からIUT自体が白眼視されるのも無理からぬことだと思いました(本当のところは全く違う理由からなんですが、話せば切りが無いので止めておきます)。 さて、今回紹介するのはディヴィド・マイケル・ロバース博士が書いた記事" A Crisis of Identification "です。ロバース博士と言えばショルツ、スティクス両博士のリポートが公開された直後からキャテグリ論の専門家として非常に冷静な分析をされていたことに私は感心してましたから直ぐに記事を読みました。一つの不満を除いて非常によく書けていると思います。" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "も勿論読み応えのある立派な記事でしたが、どちらかと言うとドキュメンタリ風の記事でしたし、読者層が一般大衆であることを考慮してあまり数学を前面に出していませんでした。ロバース博士の記事はもう完全に数学を前面に出しています。 前述した一つの不満はグロタンディーク氏のことにスペィスを割いて結構触れていることです。今のABC予想の置かれている状況とはあまり関係がないと私は思いました。やはり大衆受けを狙ったのかと感じました。まぁ、日本でも素人には何故かグロタンディーク氏は大人気ですから(捏造されたエピソゥド、つまりグロタンディーク素数がどうたらこうたらに踊らされて?)、それはそれで良いのかも知れませんが。 前置きはこれくらいにして、この記事の私訳を以下に載せておきます。なお著者の注釈欄を省いていますが、注釈へのインデクスはそのままです。 [追

数学教育について

聞くところによれば、関数型プログラミング言語の流行とともに数学の圏論がブームだそうで。圏の概念が他の数学の分野を全く知らない人でも意味が分かるのか疑問を持っています。その理由は後で述べます。 私の手許に故Serge Lang博士の名著"Algebra"があります。この本は理由があって、何と大昔の1974年の初版第6刷です。非常に貧しい学生だった私に恩師が2冊持っているからと言って1冊を下さり、私の生涯の宝物です。 仮に数学を代数学、幾何学、解析学という全く意味が無い区分けをしたとします。意味が無いと言うのは、例えば多様体論なんかはどの分野にも入るからです。そうであっても無理に区分けしたとしましょう。この3分野のうちでも、代数学(厳密に言えば抽象代数学です)が、勉強するだけなら(あくまで勉強するだけですよ、研究となれば別の話です)数学的予備知識も数学的センス(故小平邦彦博士の言うところの"数覚"、位相群で有名だった故George W. Mackey博士の言うところの"数学的成熟度"、まぁ簡単に言えば数学的才能ですね)も全く必要としません。必要なのは論理を追うための忍耐力と言えます。ですから、理解出来るか否かは別にして、代数構造を"言葉"として吸収することは誰にでも出来ます。数学のどの分野を専攻してもLang博士の"Algebra"程度の知識は"言葉"として知っていなければ話にならないのです。数学での代数学は、私達が日本語や英語等でコミュニケーションするのと同じく、数学の言語なのです。 Lang博士の"Algebra"には、第1章群論の第7節に早くも"圏と関手"が登場します(ページで言えば25ページ目です)。ついでながら、この圏、関手という日本語は全く元の英語が想像出来ないので、以降カテゴリ、ファンクタと書きます。 ところで、Lang博士はブルバキにも入っていた人ですから、こういう抽象度が高い概念を重要視しているかと思いきや、決してそうではないのですね。元々カテゴリ、ファンクタ(ファンクタの方が重要な概念でして、カテゴリはファンクタが扱う対象物です)は、ホモロジー代数の一部として提案された概念です。ホモ