スキップしてメイン コンテンツに移動

存在しなかった著者: ニコラ・ブルバキ

この"私訳"シリーズにおいて、ブルバキについてはこれまでも"ブルバキの沈黙は続く―Pierre Cartierへのインタビュー"、"ニコラ・ブルバキ、数学者集団―クロード・シュヴァレーのインタビュー"、"ニコラ・ブルバキと共に25年間 1949年–1973年"を紹介しました。それらは前から其々ピエール・カルティエ博士、故クロード・シュヴァレー博士、故アルマン・ボレル博士といったブルバキの中にいた人の観点からのものでした。更には、ブルバキの客分でもあったマイケル・アティヤ卿(私から言わせるとほぼブルバキの準メンバーです)の"ブルバキに関する2冊の本のAtiyah卿による書評"、数学史家John McCleary博士の"ブルバキと代数トポロジー"を紹介しました。それらはブルバキの部外者からのものですが(アティヤ卿が本当に部外者なのかどうかの議論は置いといて)、自らがブルバキを見た体験もしくは克明な調査の結果でした。
以上の記事はすべて真正面からブルバキを論じており、そこにはアミール・D・アクゼル氏のような嘘まででっち上げてエンターテインメントを作る姿勢は皆無です(アクゼル氏に限らず、例えばサイモン・シン氏はでっち上げをしないけれども、調査と数学的知識が乏しいので結局嘘になってしまっている例があります。要は著書が日本語訳されているような人達は多かれ少なかれエンターテインメント性が入っています。つまり今日の日本人[勿論、専門家を除きます]の知的レベルに合っているわけです)。それは当たり前で、ブルバキの中の人、ブルバキから招聘される人、ブルバキを学問的に調査する人のものですから面白可笑しく論じることが出来ないのです。そんなことが出来るのはブルバキと全くの接点が無い人です。つまりは何のお声もかからない、ブルバキからすればどうでもいい人です。
では、部外者であっても編集者、もしくはメディアの立場から見たブルバキを論じたものとしてクラウディア・クラーク女史の"The Author Who Never Was: Nicolas Bourbaki"(PDF)を今回紹介します。クラーク女史はAMS(米国数学会)ではメディア担当編集者であり、サイエンスライターでもあります。大学、大学院と数学を修められ、数学に関してド素人ではありません。私もいくつかクラーク女史の著書をちらと眺めたことがありますが、印象として知ったかぶりに難しいことを決して書かないことです。そして何よりも出来る限りの資料を読んで、曖昧さを残さない姿勢に好感を持ちました。そんな人でなければAMSでの仕事を任せられるはずがありません。
いずれにせよ、その私訳を以下に載せておきます。例のごとく、参照文献へのインデックスはそのままですが、参照文献を省略しました。

[追記: 2018年05月29日]
これを読めば、旧版和訳の復刻などは馬鹿の戯言だと思うでしょう。もし、それでも旧版和訳の復刻認可を願い出るならブルバキ代理人(おそらく現在はシュプリンガー社だと思いますが)から「はぁ?」と怪訝そうな顔をされても致し方ないです。仮にそんなことがあれば、それこそ日本が後進国であると馬鹿にされますよ。

[追記: 2019年03月24日]
このペィジは2018年05月27日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

存在しなかった著者: ニコラ・ブルバキ
2005年 クラウディア・クラーク

"秘密結社"。これらの言葉は最近の2つのベストセラーThe DaVinci code1Angels & Demons2を思い出させるかも知れない。これらの本は古代社会の物語を語っているが、彼等自身と彼等の信念を守るために数学を使ってミステリーに隠されている。もっと最近の過去を調べるともう一つ別の秘密結社を見い出すだろうが、非常に異なるものだ。
1930年代の中頃に始まり、この秘密結社は数学者達の小さなグループ―1950年代の中頃において会員数は"約12人"3と見積もられている―から構成されている。彼等は数学解説書を書いたが、"それが無ければ数学は現在あるものと全く異なっているだろう"4。典型的なメンバーはエコール・ノルマル・シュペリウールの卒業生だったが、エコール・ノルマル・シュペリウールは一般的にフランスにおける大学教育の最も権威のある機関だ5。最も生産的な時にグループは年に一巻または二巻を書いた3。メンバー達は1994年の京都賞受賞のアンドレ・ヴェイユ―彼もグループの開祖だ―のような世紀の最も偉大な数学者達6の何人かを含んでいる。だが、正式なメンバーリストは発表されていない7。そして、古いメンバーがリタイアする時3に新しいメンバーが加わるのでグループはまだ存在している。彼等は彼等自身をニコラ・ブルバキと呼ぶ。
科学的刊行における原作者問題がずっと最近に注目8を受けたので、原作者に関するブルバキモデルは特に検討することが興味深く思われる。ブルバキとして有名な、この数学者達のグループは何だったのか、そしてどのように始まったのか? 何を達成し、どのように達成したのか? この特異な原作者構造が出版業者達との交流にどのように影響したのか? そして、誰が本に対する所有権を持ち、誰が印税を受け取ったのか? それらの質問に対する答えを探すうちに私はブルバキメンバーの説明を読み、元メンバー達とブルバキと仕事して来ている出版専門家達にインタビューして来ている。

開祖達と土台
1934年暮れのパリにおいて、エコール・ノルマル・シュペリウールで教育された若い数学教授達のグループがカフェで数学解説書を書くことを議論するために会合した。彼等のうちの一人が教えているコースに対するテキストを彼等が書こうとすることは異常だった。当時のフランスの大学の数学教授達はそれほど規則正しく9やっていた。だが、彼等がすぐに追求しようと決定したゴール―そして"約3年以内"10で完成するだろうという見積り―は本当に異常だった。
彼等のゴールは"現代数学全体に対する堅実な基礎を与える"11であろうÉléments de Mathématiqueと呼ばれる数学解説を書くことだった。単数形Mathématiqueの使用は数学全体の統一12に対するブルバキの信仰を反映した。つまり、彼等は"数学のすべての分野に共通な基礎概念を明らかにする"13ことを努めた。ギリシアの数学者ユークリッドの幾何学に関する古典的解説書Elements of Geometry7のタイトルに関する洒落は彼等の数学概念が"数学の現在の重大事を扱うために啓発的で利便的であるのみならず、これが実のところ数学の進化における究極段階、この科学のいかなる発展によっても不変のままである"14ことを意味した。その結果は"万人のため"のテキストでなく、参考図書、数学"百科事典"3、専門家達のための"ツール"10を意図した。ブルバキは殆ど仮定せず一から始め、一歩一歩残りの証明を進めたものだ。この解説書においては他の(早期の)研究のみを論及した。読者は歴史的背景を説明する節を除いて"厳密に固定された論理的順序"4で巻を読むことになっていた12。ブルバキは既存の、しばしば不正確な言語の使用を避けるために、それ自身の用語と表記を作った4。ブルバキは"応用性の最も広くて可能な領域を得るために数学の各部分を出来るだけ一般化しようと努めた"3から、読者を助けるために何らかのヒューリスティックな注意は"非常に曖昧で不正確、少数の語で正確にすることは不可能"だということで提出された草稿から"ほぼ変わらず捨てられた"。結果の巻々は非常に抽象的だと考えられた12。しかし、それらは"補遺"―読者のために"素晴らしい"練習問題を含む節も入っていた4
状況を考えればブルバキのゴールは完全に筋が通っていた。第一次世界大戦後、フランス数学は悪くなった。つまり、研究をしていたであろう数学者達の全世代の大部分が戦争の間に殺された。その世代はまたブルバキが属していた世代を教え、指導していた。結局、ブルバキの開祖の一人は彼の世代が基礎数学概念を教えられることなくエコール・ノルマル・シュペリウールを卒業していたと注記した10。そして一般的に、フランスにおける数学の既存の学習は他の国々、例えばドイツで見られる"厳密"を欠いた。ドイツは"その当時に科学を支配"していた。つまり、"部分的に第一次世界大戦後の遺恨のため、科学機関にいる人々はドイツ流の科学的方法を受け入れる用意が無かった"7。後に"開祖達"15と呼ばれる、この若い男達のグループはそれを変えたものだ。
ブルバキは"権威に反対する若い人々のグループの反抗"として始まったので、メンバー達は彼等の評判を守り、彼等の仕事に著者達の名前の長いリストを付加することを避けたかった。それ故に彼等は彼等自身にペンネームを与えることを決定した。そして匿名性は"我々は我々がこの有名な本のシリーズの著者達であること知っているのであるから、ナイト、ヒーロー、チャンピオン、最善"である精神に対する代償の小さな対価だったと1955年から1983年までブルバキのメンバーであるピエール・カルティエはコメントした。"我々はほぼ完全なものを成し遂げることに誇りを持った。それが強い報酬だった"。そして"秘密結社"に属することはおそらく魅力的で"ロマンティック"な概念だったと彼は付け加えたが、憶測の話題だった一方で会員資格は全くの秘密ではなかったけれども7。ナンシーの町のブルバキ将軍の彫像におそらく基づいてメンバー達は名前にニコラ・ブルバキを選んだ。ナンシーでは多くのメンバー達が教えていた。"ニコラ"は聖二コラによる贈り物の到来をほのめかしているのかも知れない16
これらの"贈り物"を配布する実際のペースはメンバー達が最初に見積もったよりもずっと遅かった10。例えば、4年かかって単一の章からなる最初の巻が1939年にやっと刊行された15(自己完結ユニットとして意図された、その章は典型的に200から250ページの長さであり、"本"はしばしば一巻よりも多くからなっている。例えば、代数に関するブルバキの本Ⅱは10章を持ち、一巻よりも多くが刊行された)。遅延はブルバキの作業方法に関係している。彼等の共同作業の精神で、開祖達はどのメンバーも草稿に作用することを乞われると決めたが、それは"改訂"として知られる。引退した一人のメンバーは"最初の草稿はスペシャリストによって書かれたが、後のものを誰かが書くことを乞われるかも知れない"12と報告している。典型的にメンバーは年に3回会合―1回は2週間、2回は1週間―し、書き物はすべてのメンバーに声を出して読まれた。同じ共同精神で、全員が会合―これも"会議"として知られる―の間に意見を声を出して言うことが期待されたが、概してメンバー達は同時に自分達の意見を喚く混沌とした雰囲気となった。それは書き物の書直し、または完全な却下となった。非メンバーは彼が出席した最初の会合の光景を次のように要約した。"互いとは関係なく、二つまたは三つの独り言がトップボイスで叫ばれた"12
非メンバー? そう、妻達(すべてのメンバーは男だ7)と少数の他の部外者達がゲストかつアドバイザーとして招待された9。更に開祖達は、その分野の最も現在流布している研究をするという会員資格を維持する望みを反映してブルバキのメンバーは50歳までに引退するべきことを決定した10。従って、能力を持つ新しいメンバー―モルモットまたはテンジクネズミと呼ばれる―はブルバキの会合に招待された。彼が議論に参加するなら、後ろへ招かれ、結局メンバーとされるであろう10。数人の数学者達が初期世代に合流したものだ。第二次世界大戦後の数年間に"ミドル"と呼ばれる第二世代―概して開祖達の有望な学生達―がそのようにして選ばれたものだ7
会合の混沌―そして、すべての決定は満場一致であるという条件12―を考えると、何らかを出版することはもちろんのこと、一つの版にグループが賛同出来たことは驚異であるように思えるかも知れない。各章が数回の改訂を重ね、時には中間の草稿よりもオリジナルの草稿に近くなったことは事実である。しかし、メンバー達は議論が激しければ激しいほど、より実りがあったと言ったものだ。つまり、"本当に新しく画期的なアイデアは順序立った議論からよりも対決から発生するらしいということが根底の考えだった"と1949年から1973年までブルバキのメンバーであるアルマン・ボレルはコメントした。伝えられていることによれば、メンバー達は特に熱い議論の後で"l'esprit a soufflé"―"魂が息吹く"―と述べた12
他の、おそらくもっと世俗的な仕事も草稿を刊行作品にするために要求される。非メンバーは殆どいつも秘書として雇われ、その仕事はタイピング、書簡でメンバー達に通知する、ブルバキ"会議"を準備することを含む。ブルバキのメンバー達はグループを管理する、会合中の草稿の変更をノートする、最終原稿の書き上げまたはタイピングする、出版社と取引する、出版社の最終ゲラ刷りと組み見本を校正することのような仕事を実行する。遂には少数のメンバーが長年に渡ってグループの非公式の"科学的リーダー"だと見なされ、彼等は非公式にグループの数学的焦点を指導した7。アンドレ・ヴェイユが最初のそのようなリーダーであり、第三世代"若人"15のピエール・カルティエがもう一人のリーダーだった。
殆どのメンバー達が彼等の会員資格の間の部分的または全期間にそれらの仕事をせいぜい1つまたは2つを引き受けたけれども、少数のメンバー達は特に活動的だった。彼等は開祖ジャン・デュドネを含んでおり、彼は1950年代に引退した。いくつかの章を起草することの他に7、彼は"最終原稿、練習問題、全巻(約30巻)の印刷のための準備を担当した。その全巻は彼がメンバーだった期間とそれを少し超えた間に出版された"12。彼は出版社からの校正も読んだ7。その仕事のおかげで、一貫としたスタイル―それをデュドネは"ブルバキ用に採用した"―が彼のテニュアの間に本に課せられた12
ブルバキにとって本の中の言葉の明白な重要性のため、彼等のコントロールを維持することを許す出版社と仕事する必要があった。数学ジャーナルにいくつかの論文を発表した後に4、ブルバキは非常に高名な科学出版社エルマンを選び、エルマンはブルバキの解説書に対する権利を与えられた5
カルティエの言葉では、開祖ジャン・デュドネはブルバキの最初の長期間"マネージャー"だった。その資格において、デルサルトがエルマンと最初の契約に署名し、印税を受けた7

"黄金時代": 1950年代と1960年代
1930年代半ばの後でÉlémentsに関する作品が始まったけれども、ブルバキの作品の殆どが第二次世界大戦後まで出版が始まらず、1950年代と1960年代まで本気で出版されなかったものだ。何故か? 一つには、各章を書くプロセスが既に述べたように非常に時間を要した。更にメンバー達は戦争の間に作業を続け、デルサルトがやっとのことブルバキのメンバー達―暫くの間フランスから脱出を余儀なくされたり、または隠れていなければならなかった人々を含む―との通信を維持出来たのに、一巻も印刷出来なかった7
戦後、"十分な題材が完備し、次の2年間に渡って6巻または7巻を刊行出来た"とカルティエは述べ、ブルバキは再びÉlémentsを書き、出版することに集中出来た。これが余りにも巨大な仕事だったので、戦後の新しいブルバキのメンバー達の加入があっても、メンバー達は彼等に最も興味を持たせる議題について取り組むように容易に選べた。カルティエの言葉では、皆が"食うには十分"7だった。
そして、彼等は食った! 1950年代の終わりまでに、デュドネのように特に多作なメンバー達のものを含むブルバキの作業によって、基礎的題材に関する作品―本質的に修士号の数学学生が知りたがっている題材3―は"本質的に終了"したものだ12。1950年代と1960年代―カルティエによって"ブルバキの黄金時代"と呼ばれる―を通して、多くの作品が完成し、エルマンは年に1巻または2巻を新しく刊行したものだ。ブルバキの6つの基礎本を含む30冊以上だ。それは本Ⅰ、Théorie des Ensembles(集合論)と本Ⅱ、Algèbre(代数)を含む。同時に"すべての本は版を重ねた。それらは訂正され、質を高められ、改善された"7
巻々が刊行されるにつれて、それらは非常に人気となり―売り切れて増刷の刊行を要求される―、ブルバキは強い影響を持った7。数学者ラルフ・ボアズ・ジュニアはいくつかの理由を次のように述べた。ブルバキは"以前は散らばった論文の中でのみ入手可能だったトピックスの最初の系統だった説明を与え"、そのアプローチも純粋数学者達に特にアピールした。また、"数学者達はブルバキを読むためにブルバキの用語を学ぶ必要があったので、その用語は広く知られるようになり、研究の語彙の多くを変えてしまっている"16。1955年にブルバキに合流したカルティエは戦後に刊行された最初の巻でさえ"私の世代に様々なインパクトを与えた。それは私が本当に数学を学んだところだ。それらの巻々はブルバキの名声とブルバキのパワーを確立するのに大いに役立った。私の世代はブルバキの学問的パワーに魅了された。そして、他方でブルバキのメンバー達はフランスの学問的システムの中で非常に高い地位を勝取った非常に傑出した数学者達だった"7と述べた。
1950年代の初期においてさえ、Élémentsの売上からの印税はデルサルトの税金を増やすには十分に大きかった。何かがなされる必要があった。カルティエは半分冗談で"メンバー達が印税を分割する必要があるなら、喧嘩を始めるだろう。グループの平和を守るための一番いい方法は"非営利組織になることだった。ブルバキが秘書の給与、タイプライター(そして、結局コンピュータ)、メンバー達が年3回の会合に出席する全出費を含むグループの費用のために収益が使用されることを示す必要があった。そのようにしてAssociation des Collaborateurs de Nicolas Bourbaki(ニコラ・ブルバキの協力者協会)は少なくとも名目上で総裁、会計係、秘書を命じて公式事業体になった7
1960年代半ばにエルマンは英語の版権を米国の出版社アディソン-ウェスリーに売り、翻訳本の刊行のために手はずを整えた5。翻訳はロシア語、ドイツ語、スペイン語を含む他の言語でも出版されている。
ブルバキが請負っていた別の活動に関連して彼等も少数の他の出版社と一緒に働いたものだ。つまり、1948年の始めにブルバキは有名な年3回のSéminaire Nicolas Bourbaki(ブルバキセミナー)を始めた。"これらは国際的なコンファレンス"17であり、数学者達が彼等自身の最近の研究または他の数学者の最近の研究のどちらかを発表する。ブルバキがトピックスを選び17、報告書を刊行させている。1950年代には"論文の約半数がブルバキのメンバーによって書かれた"し、彼等の数人は"彼等の発見の一部分を、または後に本の中で出現するブルバキのアイデアの予備説明をセミナーシリーズで公開した"。今日、"まだ有名なシリーズだが、ブルバキと直接の関係を持たない人々によって通常書かれている"3とカルティエは述べている。セミナーの出版社はニューヨークのW A Benjamin, Inc、シュプリンガー出版社、フランス数学会を含む18
ブルバキが影響を持つようになった間にグループは"益々ペンネームの使用に関する彼等のジョークに夢中になり、しばしば人々にニコラ・ブルバキという名前の個人が実際におり、本を書いていると説得しようとしたらしい"。ラルフ・ボアズ・ジュニアが語る一つの物語はEncyclopaedia Britannicaの中の記事で彼がブルバキを"集団ペンネーム"と呼んだ時あたりだ。ブルバキはEncyclopaediaとボアズの両方に抗議の手紙を送った。後者に対してブルバキは"惨めな虫の貴殿よ、よくも図々しく私が存在しないと言えるな?"と要求した。ブルバキの存在問題を解決するための圧力に対する反響の中で、ボアズはEncyclopaedia Britannica編集者Walter Yustをアメリカ数学会の秘書J R Klineに差し向けた。Klineはアメリカ数学会における会員資格に対するブルバキからの初期の申し込みは個人ではないという理由で却下されたと述べた。後でボアズは"私はブルバキがボアズはMathematical Reviewsの編集者達の集団ペンネームに過ぎないという噂を広めようとしたことを聞かされた"16と述べた。

方針と出版社の変更
ブルバキの成功とユーモアのある妙ちきりんな行動の真っ只中で、深刻な問題が持ち上っていた。いったん6つの基礎本が1950年代に書上げられるとブルバキは次に何を書くべきか? カルティエは"先ず第一世代は無からプロジェクトを作らなければならなかった。彼等は方法を作る必要があった。それから40年代において、方法が明らかになりブルバキはどこへ行くべきか分かった。彼のゴールは数学のための基礎を与えることだった。何を含むべきかはだいたい明らかだった。第三世代はそれを越えなければならなかった"3とコメントした。引退したメンバーのボレルは数学が"様々に育って来た"と述べた。そしてブルバキの第一世代の引退があり、次世代は一つのトピックから次へと線型的のみに進めるような伝統を疑問視出来た。いくぶんブルバキの作品により啓発されて、ブルバキがまだ取組んでいなかったトピックスに関して良い題材が今や存在した。他の重要なものに関して書くことを延期して来た一方で、これらのトッピクスについてもブルバキは書くべきなのか? "2つの傾向、2つのアプローチが出現した。1つは自治的方法、つまりブルバキの伝統的方法で広大な基礎の構築を続けること。他はもっと実用的で、たとえ最も一般的なところで徹底的には設計されていなくても、私達が処理可能と思う値打ちのあるトピックスを取り掛かること"12
長い議論の後、メンバー達は彼等を前進させる決定に到達した―"ブルバキのアプローチが有用な解説を造れるかも知れないと彼等が思った"議題を追究するための十分な土台を敷設しよう。20年間、1960年代の初期に始まり、彼等はもう2つ別の本を、更に3つ目の本の2章を書いたものだ12
ブルバキが"前線により近い特殊化されたトピックスを処理すること"を始めたように、任意のメンバーが任意のトピックについて書けるべきであるという理想を維持することはもっと困難だった。"そのルールは始めのうちは厳格だったが、もっと緩やかになった"12けれども。ブルバキも非メンバー達の時折りの援助を受けた。少数の非メンバー達の寄与はそれが本の中でクレジットされるほどに十分に重要だったが、これは典型ではなかった7。1974年から1995年までブルバキのメンバーであるベルナール・テシエは、概して非メンバー達からの任意の援助―部分的な改訂を書くこと、または練習問題を示唆することを含む―は"感謝の印も無しに、良い理由のために友好的な助け。改訂を書いている過程のメンバー達は時折りそれを或るエキスパート見せて印象を聞いたものだ"19と認められていると述べた。カルティエの言葉では"メンバー達と非メンバー達の間の境は完全には定義されていなかった"7
カバーすべき新しいトピックスに関する決定に加えて、ブルバキは"もう一度Élémentsを改訂し、少なくとも15年間手を加えられないように'最終'版を刊行する"12ことを決定した。その結果、いくつかのトピックスは"発展し、深化させた"。いくつかの証明を改善し、いくつかの練習問題が追加され、小さな巻が"ブルバキの観点で明らかに間違っているものを正す"3企てで刊行された。ブルバキはまだÉléments de Mathématiqueの部分を改訂している20
その仕事が進行していた間に、ブルバキが長年維持して来た出版社エルマン21との良い関係が1970年代の半ばに印税と翻訳権3をめぐって結局は口論となった。ブルバキとエルマンの間の長期の法廷闘争(それは1980年に終わった)の後、ブルバキは彼等の作品のすべての所有権を、また売残り又は製本されていない巻をも取り戻した7。その時点でブルバキはフランスの出版社マッソンと一緒に働いたが、マッソンはブルバキが訴訟の間に取組んで来た5巻又は6巻とエルマンから返された巻を刊行した3。シュプリンガーは英語翻訳の出版社になった。ブルバキは新しい本または既存の本の新版に対する契約を"一つ一つ"出版社達と結ぶことを好んだから、再びエルマンに"体験に基づいて全てのシリーズに対する何らかの権利を与え"ないだろう5
後にカルティエはブルバキが将来方針を定めるのに捧げた時間とエルマンとの訴訟は"グループの勢いを鈍らせた"8と述べたが、彼は次のように根拠を挙げている。ブルバキの最新の作品―187ページからなっている―は1998年に刊行されたが、たった200部しか印刷されず、どのジャーナルにもリヴュされなかった。そして、その最新作の大部分が1980年代の初期に書かれていた! 現在、ブルバキの作品のフランス出版社は無い。最後の巻が刊行された同じ年にマッソンはもうこれ以上ブルバキの作品を刊行しないことを決定した。結局、マッソンによって刊行された27巻のうち10巻のみが現在のところ入手出来る7

ブルバキは70歳になる
引退したメンバーのアルマン・ボレルは1998年に"数学とその統一の大局的ビジョンの促進、解説のスタイル、記号の選択によって、数学に永続的なインパクトを持つことはブルバキによって十分に実行された"と述べた。これの一つの小さな尺度はブルバキの用語と記号のいくつかが標準的な数学記号になっていることだ。例えば、数学のコースで"集合"を習ったことを思い出すかも知れぬように、何も含まない集合に対するシンボルは∅である。それはブルバキによってノルウェー語のアルファベットから採用された22
現在はどうか? 早くも1980年代の半ば―ブルバキが50歳に近づいていた時―に一部がブルバキが引退すべき時だ7と示唆したけれども、たとえ皆が彼は大丈夫と思っていなくても彼はまだ生きている。
2004年の最近にシュプリンガーはブルバキの巻の英語訳を刊行した。しかし、シュプリンガーの編集者Byrneは最近15年に渡るブルバキ本の売上が下落し、本の値段の上昇を引き起こしていると述べている。2005年の早期時点で最近刊行されたハードカバーの巻が€106.95だ23[訳注: 1ユーロを大体130円と考えると高価格です]。Byrneの考えでは、売上の下落はブルバキのアプローチが"過ぎ去っている時代"を象徴しているからだ。数学のテキスト本では幾何的手法と直観的アプローチが人気になっており、ブルバキが無視した議題―確率論のような―が数学において非常に重要になっている5
活動は遠い過去でのように強烈でも多作でもないけれども、ブルバキはÉléments de Mathématiqueの改訂を続けている。ちょうど今、ブルバキ秘書のViviane Le Dretは"Algèbre、第8章の新しい完全改訂版がすぐに出現しようとしており、ニコラ・ブルバキはGeneral Topologyの第11章をひたむきに書直している"と報告している。加えて、フランス国立科学研究センターのArchives de la Création Mathématique研究ユニットが約200の改訂稿をスキャンしている20
終わりに臨んで、70年間ブルバキは原作者に関する興味をそそるモデルを与えて来ている。その一つ、個人達が喜んで相当な時間とエネルギーを匿名で彼等が信じる大義に仲間の熱愛者達と一緒に働き、彼等自身の数学知識を広げ、深い思考と騒々しい議論に従事しながら捧げている。ブルバキに所属することから結局は来るであろう信望が付加的恩典だった。H Petard4やJohn Rainwater24を含む他の数学者グループも匿名的に一緒に活動して来ているが、数学におけるブルバキの作品とインパクトの重要性は唯一無二に見えるし、そのままかも知れない。ミシガン大学の副学部長であり数学教授のロバート・メギンソンはそんな努力に匿名で寄贈するブルバキのメンバー達の自発性は現在の文化において起こり得ず、現在の文化では個人達が彼等の研究を認めて欲しいし、職に対する競争のために研究を認められる必要があると言った25
ブルバキは成し遂げようとしたことをやって来ているのか? カルティエの言葉では"その最初に述べられたゴール、既存数学全体に対する基礎を与えることは達成された"3。だが、それを超えて"ブルバキはその夢のすべてを実現して来なかったし、その目標のすべてに全く近づいて来なかった"とボレルはコメントした。例えば"私達はもっと本を書いていたかも知れない。もっと言えば、おそろしいほど大量の未使用題材がブルバキのアーカイブにある"12。ブルバキにとって次は何か? モティベーションが続くのか、それとも新しいモティベーションがそれ自体を提起するのか? それらと他の問いに対する答えにかかわらず、ブルバキの作品に対する関心は続く。2000年2月にPour la Science(Scientific Americanのフランス語版)がそのシリーズLes Génies de la Science(科学の天分)の第2号をブルバキに捧げた26。そして誰が知ろう、この存在しなかった数学者がいずれ"彼の"100歳誕生日を祝うかも知れない。

参照
(略)[訳注: 原文で見て下さい]

コメント

このブログの人気の投稿

ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する

今回紹介するのは abc 予想の証明に関する最近の動向を伝えている記事です。 これを選んだ理由は素人衆が知ったかぶりに勝手なことを書いているのをネット上で散見するからです。ここで言う素人衆は日本のメディアはもちろんのこと、馬鹿サイエンスライターも当然含みます。昨年末(2017年12月16日)に某新聞が誤報に近いことを報道したことも記憶に新しいでしょう。そんな情報に振り回されないために今回の記事です。 今回の記事は正確かつ公平だと私は思いました。私の友人共の何人かは、この方面の専門家だから門外漢の私はいろいろなことを教えてもらいました。その上での感想です。 その方面の専門家でなくても数学の研究者なら望月論文は無理でもレポートは読めるはずなので、もっと詳しく知りたい人はレポートを読んで下さい。 前置きはこれくらいにして、紹介する記事は" Titans of Mathematics Clash Over Epic Proof of ABC Conjecture "です。その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] ここに至るまでの経緯については" 数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明 "を読んで下さい。その記事は2015年12月にオックスフォードで行われた望月論文に関する初めての国際的ワークショップより前の話が書かれています。 このワークショップはいろいろ評価が分かれるけれども、私が聞く限り、大失敗だと言う人が多いです。実際、私の海外の知人の一人がワークショップに参加しており、ボロクソに言ってました。 このワークショップを境に、海外特に米国では望月論文を理解しようとする熱意が急速に薄れたように感じますし、ショルツ、スティックス両博士の異議申し立てが出るまで実質何の音沙汰もない状態でした。 [追記: 2018年10月23日] 私の友人共に指摘されたのですが、この記事の私訳を読む人の殆どが日本の全くのド素人なんだから、たとえ原文に記載されていなくても誤解を生じさせないように訳者が万全を期するべきだと言われました。 記事に出て来る Publications of the Research Institute for Mathematical Sciences (略してPRIMS)

数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明

前回紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "はもちろん一般大衆向けの記事です。数論、数論幾何学、IUTT(宇宙際タイヒミュラー理論)のいずれかの専門家なら、そんな記事を読まなくても、そこまでに至る経緯は十分に承知しています(何故なら自分達の飯の種を左右する問題だから)。その方面の専門家でなくても数学研究者なら数学コミュニティ又は数学界を通して大概の経緯を聞き及んでいます。 私の身辺(私の友人共はすべて何らかの形で数学研究に携わっているので、それらを除きます)でその記事を読んだ感想は"そんなに拗れるのは不思議だ。もっと経緯を知りたい"というのが多かったです。その身辺の彼/彼女等はもちろん素人衆ですので、望月新一博士の名前も報道でしか聞いたことがないし、数学で何故これほどまでもつれるのか不思議でならないそうです。彼/彼女等は至って真面目です(何故こういう事を書くかと言うと、素人衆と言っても千差万別で、中にはネット上で国家高揚か日本民族高揚のために望月博士のことを書いているとしか思えない不逞の輩がいるからです)。そこで、それらの真面目な人達のために今回紹介するのは2015年10月の Nature 誌に載っていた" The biggest mystery in mathematics: Shinichi Mochizuki and the impenetrable proof "です。 何故これを選んだかと言うとエンターテイメント性があり、素人衆でも面白く読めるだろうと思ったからです。但し断っておきますが、いろいろな数学者の証言を繋ぎ合わせて望月博士の心情を勝手に推測するのははっきり言って妄想であり、さすがエンターテイメント性を重視して堕落した Nature 誌だけのことはあると私は思いました(あのSTAP論文を掲載したことも記憶に新しいでしょう)。 その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] この記事は2015年12月に行われたオックスフォードでのワークショップより前の話です。このワークショップは望月論文に関する初めての国際的な会合で、この記事でもこのワークショップにかなりの期待を寄せているところで終わっています。 しかし、いろいろ評価が分かれ

谷山豊と彼の生涯 個人的回想

数学に少しでも関心のある人なら、フェルマーの最終予想が、これを含む一般的な志村予想を証明することによって解決されたことは御存知でしょう。この志村予想は、かって無知と誤解によって谷山-志村予想と呼ばれていました。外国では更に輪をかけて(と言うよりもアンドレ・ヴェイユの威光によって)谷山-志村-ヴェイユ予想と呼ばれていました。ヴェイユがこの予想に何ら関係しないことは、故サージ・ラング博士によって実証されました。それでも、谷山-志村予想もしくは谷山予想と呼ぶ人がまだ散見されます(散見と言いましたが、日本人ではかなり多いです。国民性に依存するのかどうか知りませんが)。私は数論を専攻したことがなく、ずぶの素人ですが、志村博士が書かれた記事や自伝"The Map of My Life"を読み、何故志村予想なのか納得しました。ここで込入った話を書くことは不可能なので、分り易く言えば、故谷山氏は何ら予想の内容にタッチしていないと言ってもいいかと思います。勿論、その周辺は谷山氏の研究分野でしたから周辺にはタッチしていたでしょうが、志村博士は全く独立にきちんと予想を定式化しました。ですが、谷山氏と志村博士はいわゆる盟友関係であり、また谷山氏の不幸な亡くなり方を悼む日本人的感情(つまり、センチメンタル)から日本人は谷山-志村予想と頑なに呼んでいるのだと私は理解しています。ですが、これは数学なのであり、事実を直視しなければいけないと思います。また、最終的に志村予想は証明されたのですから、何とかの定理と呼ぶべき時期だと思います。この"何とか"に何を冠するかはいろいろ意見があるようですのでこれ以上は触れないでおきます。 さて、志村博士の"The Map of My Life"の第4章、18節に"18. Why I Wrote That Article"があります。ページ数で言えば145ページ目です。タイトルが示している"あの記事"とは、志村博士が英国の専門誌 Bulletin of the London Mathematical Society に発表した" Yutaka Taniyama and his time, very personal recollections "

識別の危機

昨年紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "の元記事はもちろん大衆向けのオンライン科学ジャーナル Quanta Magazine に掲載されたものですが、著者はErica Klarreich女史です。彼女はサイエンスライタではあるけれども、歴とした数学者です。しかも、幾何的トポロジで彼女の名前を冠した定理を持つくらいの立派な方です。何故こういうことを書くかと言うと、IUTを支持するイヴァン・フェセンコ博士がKlarreich女史をいかにも素人呼ばわりした非常に下らないドキュメントを書いたからです。大学にポストを持っていなければ全員が素人なんですかと問いたいくらいです。これでは世界からIUT自体が白眼視されるのも無理からぬことだと思いました(本当のところは全く違う理由からなんですが、話せば切りが無いので止めておきます)。 さて、今回紹介するのはディヴィド・マイケル・ロバース博士が書いた記事" A Crisis of Identification "です。ロバース博士と言えばショルツ、スティクス両博士のリポートが公開された直後からキャテグリ論の専門家として非常に冷静な分析をされていたことに私は感心してましたから直ぐに記事を読みました。一つの不満を除いて非常によく書けていると思います。" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "も勿論読み応えのある立派な記事でしたが、どちらかと言うとドキュメンタリ風の記事でしたし、読者層が一般大衆であることを考慮してあまり数学を前面に出していませんでした。ロバース博士の記事はもう完全に数学を前面に出しています。 前述した一つの不満はグロタンディーク氏のことにスペィスを割いて結構触れていることです。今のABC予想の置かれている状況とはあまり関係がないと私は思いました。やはり大衆受けを狙ったのかと感じました。まぁ、日本でも素人には何故かグロタンディーク氏は大人気ですから(捏造されたエピソゥド、つまりグロタンディーク素数がどうたらこうたらに踊らされて?)、それはそれで良いのかも知れませんが。 前置きはこれくらいにして、この記事の私訳を以下に載せておきます。なお著者の注釈欄を省いていますが、注釈へのインデクスはそのままです。 [追

数学教育について

聞くところによれば、関数型プログラミング言語の流行とともに数学の圏論がブームだそうで。圏の概念が他の数学の分野を全く知らない人でも意味が分かるのか疑問を持っています。その理由は後で述べます。 私の手許に故Serge Lang博士の名著"Algebra"があります。この本は理由があって、何と大昔の1974年の初版第6刷です。非常に貧しい学生だった私に恩師が2冊持っているからと言って1冊を下さり、私の生涯の宝物です。 仮に数学を代数学、幾何学、解析学という全く意味が無い区分けをしたとします。意味が無いと言うのは、例えば多様体論なんかはどの分野にも入るからです。そうであっても無理に区分けしたとしましょう。この3分野のうちでも、代数学(厳密に言えば抽象代数学です)が、勉強するだけなら(あくまで勉強するだけですよ、研究となれば別の話です)数学的予備知識も数学的センス(故小平邦彦博士の言うところの"数覚"、位相群で有名だった故George W. Mackey博士の言うところの"数学的成熟度"、まぁ簡単に言えば数学的才能ですね)も全く必要としません。必要なのは論理を追うための忍耐力と言えます。ですから、理解出来るか否かは別にして、代数構造を"言葉"として吸収することは誰にでも出来ます。数学のどの分野を専攻してもLang博士の"Algebra"程度の知識は"言葉"として知っていなければ話にならないのです。数学での代数学は、私達が日本語や英語等でコミュニケーションするのと同じく、数学の言語なのです。 Lang博士の"Algebra"には、第1章群論の第7節に早くも"圏と関手"が登場します(ページで言えば25ページ目です)。ついでながら、この圏、関手という日本語は全く元の英語が想像出来ないので、以降カテゴリ、ファンクタと書きます。 ところで、Lang博士はブルバキにも入っていた人ですから、こういう抽象度が高い概念を重要視しているかと思いきや、決してそうではないのですね。元々カテゴリ、ファンクタ(ファンクタの方が重要な概念でして、カテゴリはファンクタが扱う対象物です)は、ホモロジー代数の一部として提案された概念です。ホモ