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アラン・コンヌへのインタビュー 第二部

アラン・コンヌ博士と言えば、著書Noncommutative Geometry[非可換幾何学]、Noncommutative Geometry, Quantum Fields and Motives[非可換幾何学、量子場理論、モチーフ理論](Matilde Marcolli博士との共著)が有名です。これから読みたいと思っている人もいるでしょう。私もある人から前提知識は何なのか聞かれたことがあります。はっきり言えば、こんな質問する人には無理だと言ってもいいかと思います。今回紹介するインタビューの中でもコンヌ博士が言っていますが、数学のどの分野を専攻するにしても最低限の共通バックグラウンド(微分幾何学、代数幾何学、代数構造、実解析、複素解析)がほぼ仮定されています。つまり、大学4年間と大学院修士課程で学習するであろう科目すべてを含んでいます。さらに、両著とも物理学の或る程度の素養も仮定されています。それは非可換空間で標準模型を扱っているのだから当たり前です。例えばラグラジアンが何たるかを全く知らない人が両著のいくばくかの物理の解説を読んでも理解出来るとは私には思えません。それからもう一つ重要なことがあります。インタビューの第一部でも言及されていましたが、コンヌ博士は計算大好き人間です。従って、極端なことを言えば、くりこみの摂動計算を手でやったことがない人は皮相的な理解で終わる可能性があります。
21世紀の数学は、ユーリ・マニン博士も言っていますが、"量子化"と言うテーマの時代と言っていいのではないでしょうか。つまり、20世紀のように抽象論を振りかざすだけで何とかやっていた時代は終わったということでしょう。
いずれにせよ、インタビューの第二部の私訳を以下に載せておきます。なお、このインタビュー記事はEMS Newsletter March 2008(PDF)の中に収録されているので、原文に関心がある人は該当ページを探してください。

[追記: 2015年10月02日]
アラン・コンヌ博士のインタビュー記事は他にも"IPMにおけるアラン・コンヌへのインタビュー"があります。私見によれば、そちらの方が博士の本音が出ているように思います。

[追記: 2019年03月22日]
このペィジは2015年02月23日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

アラン・コンヌへのインタビュー 第二部
2008年3月

インタビューはパリでCatherine GoldsteinとGeorges Skandalisにより実施された。
第一部はニューズレター63号のページ25–31に登場した。

貴方が得て来た結果の中でも、最も誇らしいものがありますか?
一科学者であることは(私に関する限り)大変質素な活動であって、私はどの結果についても誇りたいと思わない。私は傲慢な人々を警戒しがちだ。もっとはっきり言えば、私にとって問題なのは、結果のコミュニティによる称賛に反して、発見の喜びだ。人が得る喜びの総量"快感"は勿論かなり変動するし、例えば単に貴方の質問に答えるために、Dirk Kreimerとの共同研究で私達が99年に見つけた、くりこみとバーコフ分解の間のリンクは一週間に渡ってずっと続いた大きな快感を私に与えた。私が10歳になり両親によってボーイスカウトに送られた時、子供として誇らしげに振舞ったものだった。厳しいグループの中に私はやって来たので、或る日グループは私のいばった態度を私自身の"笑いものグループ"という言葉によって受入れないことを教えた。その時以来私は、騎馬闘牛士のセッションの後の通路内の雄牛のように、いつも少し腰を低くして立って来ている。

70年代から貴方の数学的探求を見守れば、貴方がいつも物理学とゼータ函数に魅せられて来ている印象を受けます。
確かに。リーマンのゼータ函数に対する私の熱中は、リーマンの式(素数分布でゼータ函数の零点を述べている)をイデールの観点で再定式化しているヴェイユの研究を読んでいることから来ている。この式の"素数"側とレフシェッツ不動点定理の間に著しい類似があり、第一の問題はリーマン-ヴェイユの式がトレース式になるようにイデールが作用する空間Xを見つけることだ。ある時点、葉層構造に関するVictor Guilleminの論文とセルバーグのトレース式を読んだ後で、空間Xは葉層構造の葉の空間でなければならず、従って非可換空間だと私は認識した。リーマンのゼータ函数に関するシアトルでのカンファレンスに行く後まで10年間、このアイデアに私は魅了されたままだった。量子統計力学に関するBostと私の研究で空間Xは既に存在し、単にアデールクラスの空間であると認識した。すなわち、体の乗法群の作用によるアデールの商空間。これは、トレース式として数論の、そして吸収スペクトルとして零点のスペクトル実現のリーマン-ヴェイユ式の解釈を与える。
それは、零点の位置に関する密接な情報を与えるにはまだ程遠いが、正の標数の大域体の場合に対するヴェイユの証明を置換え始められる幾何学的フレームワークを与える。Katia ConsaniとMatilde Marcolliとの私達の共同研究において、ガロア理論と両立出来る、コホモロジー的観点からのスペクトル実現の理解方法を示して来ている。特に顕著なのは、私がインタビューの第一部で説明したように、非可換空間がその時間を生成する間に、この新しい力学的特徴は空間を冷却し、温度が0になる時にはこのようにして、古典的点の集合を得ることを可能にする。更に、この熱力学的手法を洗練し、剰余体の代数的拡大上の点の類似を得ることが出来、正標数の場合を扱う時にフロベニウス作用の許での曲線の点と同様な方法で、これらは系統立てられる。ヴェイユの証明を代数幾何学から私達の解析的フレームワークに移行することを許す一般的な概念的ツールを開発することは今や非可換幾何学にとって大きな挑戦だ。
物理学に対する私の熱中は、ハイゼンベルグの発見と共に非可換幾何学の起こりである量子力学から来ている。物理学者達の行う洗練された計算、特に実験から誘発された計算に私はいつも感嘆する。物理学者達が彼等の物理的動機からレシペに隠れて、驚くべき数学が存在することを発見するのは大きな動機だ。近年では、くりこみとバーコフ分解に関するKreimerとの初期研究はMarcolliとの私の共同研究で更に追求されて来ている。私達はリーマン-ヒルベルト対応から得られる宇宙群を発見した。宇宙群は数年前ピエール・カルティエが予想した"宇宙ガロア群"の役割を担う。実際、くりこみ可能な量子場理論全体の普遍的対称群だ。一つのパラメータの部分群として物理学者達のくりこみ群を含むが、もっと豊穣な構造を持つ。それのモチーフ的ガロア群との関係を私達は完全には理解出来ておらず、その意味でカルティエの夢をまだ十分に実装していないが、Bloch、Esnault、Kreimerの深遠な研究がその側面を明らかにするだろう。
標準模型に対して、この研究は数年前にAli Chamseddineと共同で始まったが、ChamseddineとMarcolliとの最近の私の共同研究において更に進められて来ている。標準模型に結びつけられた重力の非常に複雑なラグランジアンが、申し分の無い構造を持つ時空に対して純粋な重力として(線素の固有値を数えるように、簡単な形で)得られることが分かっている。つまり、通常の4次元連続体としてではなく、K-理論から来るモジュロ8の次元を訂正する効果を持つもっとも簡単な種類の有限非可換空間による通常の連続体の積として記述される。これらは興味深いアイデアであることは明らかだが、これまで実験的テストと通っておらず、従って純粋数学の領域にまだ属している。

貴方は数学と物理学との間の関係を語って来ています。数学と物理学との間の関係について、何か違うことを話していただけますか?
はい。真の物理学者達が数学的厳密に左程心配しないことは普通だ。そして、何故なのか? 実験に直面する試練を結局のところ持つからだ。これはだらしなさが許容されていることを意味しない。すなわち、ある実験家がかって私に理論家達よりも10倍より以上計算をチェックすると言った! しかし、厳格な形式主義者でないのが普通だ。これは、数学に対する物理学者達のある態度に一致する。つまり、大雑把に言えば、彼等は数学を一種の売春婦として扱う。本当の理解の後のみに数学の何らかを使用する数学者達の心構えを持たず、物理学者達は数学の任意の分野または分野の一部を断固として自由で且つ恥知らずな流儀で使用する。
標準模型とゲージ理論のくりこみの入念な仕上げとなった勇ましい時代の後、物理学者達のある世代全体が、標準模型を"説明する"ばかりでなく重力と統合する理論の探求において、実験物理との関連から縁遠くなった。そして、弦理論と呼ばれるアイデアを追求して、これらの物理学者達は数学者となり、数学に大きなインパクトを持った。彼等が手繰るオブジェクトは、リーマン面、つまりカラビ-ヤウ多様体だ。彼等は数学、本当の洗練された数学をする。しかし、これまで、これらのアイデアと実世界との間の何らかの関係を示す物理的手段が存在していない。更に、彼等が物理出身であるため、彼等の進める流儀は数学者達と全く異なる。
これは特に社会学レベルにおいて真実だ。すなわち、彼は大きな集団で研究し、与えられたトピックに彼等が費やした時間の合計は非常に短い。定められた時に、彼等の殆どが同じ問題に取組み、ウェブ上で登場するだろうプレプリントは多かれ少なかれ同じ序論を持っている。与えられたテーマがあって、非常に多くの論文がそのテーマに関するヴァリエーションだが、長く続かない。これは特に弦理論と非可換幾何学の間の関係において発生した。人々の群れが2000年代の初めに非可換空間で場理論をやろうとして、比較的短時間の後に、赤外線と紫外線の周波数の間の混合現象のため非可換空間での場理論はくりこみ可能でないと彼等は結論した。この結論は2、3年の間勢いよく残ったが、一味が全く異なる別のトピックに移った後に、非常に小さなグループの人達が実際にラグラジアンで欠落している項を追加すれば、理論はくりこみ可能であることを示した。これは、主要人物WulkenhaarとGrosse、そしてRivasseau、Vignes-Tourneret、Gurau等々の素晴らしい考察が必要だった...彼等は、4次元で最初の効果的な構築を終えて今注目すべき状況にある一般論を開発した。例の一味は決して元に戻らず、あるトピックから次のトピックへと移動し続けてた。
科学の社会学は、ソ連とソ連が米国の圧倒的な力に関して創出した科学的釣合いのおもりの喪失によって深くショックを与えられた。ソ連崩壊とソ連の科学的エリート達の米国への移住以降の、ここ20年間に私が気づいて来たことは、もう釣合いのおもりが無いということだ。この時点で、もし若い物理学者達を米国に連れて来るのなら、彼等はある時点で国の大物達の一人が書いた推薦状を必要とすることに気づくが、これは彼等の一人が弦理論の外側で研究をしたいのなら、彼(または彼女)は職が見つからないだろうことを意味する。こういう風に、唯一の専制的理論があって、良い学生達すべてを引き付ける。
弦理論家達が"ある他の理論がうまく行くなら、私達はそれを弦理論と呼ぼう"と言うのを私は聞いた。それは彼等が社会学的戦争に勝って来ていることを示す。"万物の並外れて簡単な理論"という最近の馬鹿げたエピソードは米国において弦理論の反対者達には信用が無いことを示して来ている。以前にはソ連と同調して抵抗があった。欧州がもっと強ければ、抵抗出来るだろう。残念ながら、特に理論物理学において欧州人の潜在的群集心理がある。多くの欧州の大学、少なくともフランスと英国において、米国で支配的なものに反対して独自な領域を開発する代わりに、誰を雇用すべきか決定するために単純に米国の大物に従ったり、呼んだりしたい。それは、私の友人であり共同研究者のDirk Kreimerのような独自な頭脳の欠乏によるものではない。しかし、それは欧州の自信の無さであり、必要なことをすること、抵抗すること、いかなる犠牲を払っても多様性を固持することが出来ないことを意味する。数学において同様なことが起きていないと私は思うので、数学と物理学の間に根本的な社会学的差異がある。数学者達は独自性を捨てて流行に倣うことに非常に抵抗があるようだ。

貴方はシャンジュー[訳注: ジャン=ピエール・シャンジュー、神経生物学者]との対話の中で、数学と現実を議論しました。これに関する考え方に進歩がありますか?
数学的現実が存在する何ものかであること、それは私自身の頭脳がそれを見ようとすることと独立しており、外部的現実としての抵抗の属性と全く同じであることに私は疑いを持っていない。何かを証明したい時、または証明が正しいか否か検証する時、同じ心の苦悩、外部的現実を処理するのと同じ外部的抵抗を感じる。空間と時間のどこかに"局所化"されていないのだから、この現実は存在しないと一部の人々は言うだろう。私はこれを全く馬鹿だと思うし、全く正反対の見解を持っている。すなわち、私にとって人類でさえも、細胞の物質的集まりによるよりも、抽象的スキームによってより上手く記述される。細胞は、どんな場合でも比較的短時間で完全に新しいものに取替えられ置換わり、従ってスキーム自体よりも意味が無いもしくは永続的でない。スキームは結局いろいろな同等なコピーに再生産されるかも知れない...
万物を"どこかに局所化されている物質"に還元したいのなら、すぐに量子力学から来る壁に出会い、外部的現実の物質への還元が中間規模(決して根本レベルではない)で意味を為す幻想であることが分かる。だから私は、"物質"にも"局所化"にも還元出来ない現実の巧妙さと存在について疑っていない。数学的現実が作られたものなのか元々存在するものなのかどうかの問題は、数学的命題の"真"と"証明可能性"の間のゲーデル定理に出現する差異を使えば、今や議論するのは非常に簡単だ。これをLichnerowicz、Schultzenbergerと私の本"Triangle of thoughts"[訳注: 思想の三角形]の中で詳細に論じたので、込入った詳細な議論対しては、その本を参照されたい。シャンジューとの本"Matière à Pensée"[訳注: 考えるべきこと]の後、私は効果的な意思疎通の不足により少し不満だったから、ゲーデル定理から来るインプットを上手に説明出来るもう一つ別の本を書く機会を作った。そこら中に根本な数学的現実があって、それを把握するために数学者はツールを作る。
数学者の推論(大きな直近の発見は頭脳に宿る)と現実の間の関係は、現実世界で実際に発生することと対照的に法廷で演じられる推論の間の関係に似ている。限定作用素レベルで数学的命題間の良い文法の差異で決まる。それらの数学的命題の一部は真実であれば証明可能だ...外的世界と対照的な法廷のアナロジーはゲーデル定理に関するJ. Y.  Girardの本の中で完璧に説明されている。それは、数学者の役割(現実のいくらかを解明するためのツールを作ること)と現実自体の間の差異の明確な心理的イメージを実際の作業の後に得ることを可能にする。

貴方は数学者における独自性と流行について言及しています。実例がありますか?
1976年に私はIHÉS[パリ近郊のビュール=シュル=イヴェットにあるフランス高等科学研究所]に新人として着任したばかりだった。私が会った最初の人々は私の全く知らない専門のことを話していた。私がカフェテリアにいて、彼等は"エタールコホモロジー"やそのような類のものについて議論していたものだったが、それは私の教養が函数解析と作用素環だから全く知らなかった。
幸いにも私はすぐにデニス・サリヴァンと出会ったが、彼はビュールにいる限り、新人達のところに行き、彼等の専門または性格が何であれ、質問をしたものだった。彼は人が浅はかにも馬鹿だと考えるであろう質問を訊ねた。だが、人がそれらを考え始める時、話していることに関して本当は理解していないことを回答が示しているのに人は気づくであろう。彼は、人々が何をしていたのか理解しようとし、万人が持つ誤解を取り除くために彼等を窮地に追い詰める、一種のソクラテス的パワーを持つ。すべての人が必ずしも隠れた隅々まで理解して事柄を話しているのではないからだ。彼はもう一つ別の注目すべき特質を持つ。人が知らない事柄を彼は非常に明確で厳密な流儀で説明出来る。私が微分幾何学の概念の多くを学んだのはデニスとの議論によってである。一つの式も用いないで、彼はジェスチャでそれらを説明した。彼と会えて私はすごく幸運だった。それが、私の研究していた分野が限られている(少なくとも人が非常に閉鎖的だと思う時)ことを私に認識させた。これらのデニスとの議論は目に見える口述の問答を通して、私を専門の外へ引張った。そして、全くテキストを読まずに。

多様性、つまり人々は異なるバックグラウンドを持つべきということの重要さを貴方は語っています。しかし、何の種類の数学的共通分野をすべての人が共有すべきなのかについてアイデアがありますか?
それは少し難解だ。私は活気に満ちた数学の中心を語った。何故これをすべての人に教えないのか、と人は言うであろう。だが、これは大失敗に終わるだろう! 人々はリーマン面、モジュラ形式等々を知ることで終わるであろうが、ホップ代数または難解に見える他の分野のような数学の大部分に無知だろう。だから、私は分からない。最小の共通バックグラウンド(微分幾何学、代数幾何学、代数構造、実解析、複素解析)が存在するはずだという印象を私は持っている。トポロジー、基本的な数論...すべてが必要だ。それを避けることは出来ない。人々はそれだけの量を知らなければならないのだ。
その後で、もっと手の込んだ分野に入りたい時、多様性がルールであるべきだ。私がインタビューの第一部で述べたように、私達は全く新しい人々を養育しなければならない。彼等は学生達に共通知識に関して全く独自なバックグラウンドを与えられる。これは若い数学者達に完全に個性的な手がかりを与えるだろう。その手がかりは彼等に彼等自身の世界を開かさせる。幸運であれば、ごく初期にしばらくの間、彼等が本当に奮起する分野を見つけるまで、次から次へと興奮することが彼等にとって重要なのであるから、多くの異なる事柄に興味を持つだろう。この共通バックグラウンドに対する、ある限界を超えて行かないことが重要だと私は思う。独創性を伸ばせる指導教官と一緒に人は自分自身の道筋を見つけ、それに従わなければならない。だが、勿論一般的なレシペは無い。

しかし、若い数学者に何かに特定することなく数学の多くのことを学びなさいと貴方は実際に勧めませんか?
若い数学者にとって、彼または彼女が数学者であることを先ず示すことが非常に重要だ。そして、それは或るトピックで専門家となって難しい何かを出来ると示すことを意味する。これは、同時にすべての事柄について少し学ぶという夢想とは両立出来ない。従って、魅力的だと思うトピックを見つけた後で、おそらく数年間、その人の影響が低減するまで、専念することを余儀無くされる。以後、勿論、一旦成功すれば、一旦数学をするためのパスポートを得るなら、残りの人生で狭い分野の専門家で残ることを避けるためにスペクトルの拡張に成功するなら素晴らしいことだ。しかし、総合家になることは非常に困難だ。数学でこれ以上何も大したことをしない危険があるからだ。

数学を教えるべき方法についてアイデアがありますか?
若人達に数学的訓練、特に幾何学的訓練をしなければならない。幾何学的訓練は非常に良い訓練だ。学校で子供達がレシペ、ただレシペだけを教えられ、考えることを奨励されていないのを見る時、私は恐ろしいと思う。私が生徒だった時、立体幾何の問題を与えられたことを憶えている。私達はそれらを解くために多くの困難に行き当たった。それは幼稚な幾何ではなかった。これらは難解な証明を持つ事柄だった。2年前、私達は平面幾何の問題をやっていた。これらの問題をやって一晩中過ごしたものだった。そして今、試験に同じ問題を与えるならば(実験は最近行われた)、人殺しと呼ばれるだろう! これは進歩ではない。幾何の問題は準備し易く、人は証明を見つけるため多くの困難に行き当たる。
私達がもうそれをしないのは恥だ。私は最近の高校の問題を見たが、回転が同値類である回転群を定義している...ただ"フォーマリズム"重視のために高度知識の前史レベルに止まっている...これはひどい...幾何は絵を描くことを伴うから、直に親しみやすいはずだ。残念ながら、この数学的フォーマリズムの誇張的使用がブルバキから受継いだということはあり得ないことではない。ブルバキは、一様構造の定義のずっと後で、位相の第9章まで実数を定義していない...

貴方はブルバキに言及しています。今ブルバキの役割についてどう判断しますか?
ブルバキは驚くべき役割を果した。ブルバキが多くの科目(その中で非常な曖昧さが支配していた)を非常に明快な分野に変えたことを否定出来ない。ブルバキによる、いくつかの素晴らしい本がある。すなわち、代数第Ⅲ章、リー群に関する全巻は、感心して只呆れるのみだ。今や一旦これがなされたので、それで終わりだ。出来たはずがしなかった類の事柄の分野がまだある。しかし、それ以上のことをするのは大きな違いを作らないだろうと思う。結局、ブルバキは私達に明晰さと厳密さに対する懸念を与える大きな影響を及ぼしたから、有益な効果が発生して来ている。もしブルバキがなかったら、数学は人が信頼出来ない多くの結果に向かって漂泊していただろう。

今そんな大がかりで無私なプロジェクトを発足することが可能だと思いますか?
すべての人が"やるべき事柄"の類すべてで忙しいから、今あのくらいの程度の無私は当たり前のことではない。ブルバキグループの初期には素晴らしい精神、すなわちコミュニティへの無私な奉仕があった。私は70年代の終りに短期間参加した。いくつか草稿を書いたが、続けるのを止めさせたことは、エコール・ノルマルの或る部屋の中に各々が100から150ページの数百ものの草稿があって、それらが日の目を見ないだろうと認識した時だった。私はそれを気の滅入ることだと思った。勿論部分的な重複があった...しかし、内容が公開される前に完全に対する要求があり、最終的にあたかもこれらが存在しないかのようだった。時が流れ、そして時が流れるつれて、それらは廃れた。草稿を書くにあたって、このブルバキメンバーの信じられない献身がある。草稿が完了する時、多くを学び、事柄をより良く理解することは事実であるが、テキストが現れないなら本当に不満な気持ちを持つ。長い間デュドネが事柄を或る時点で収束させるために主要な役割を果したが、彼が去った後、どういうわけか多くの効率が彼と共に去った。

今何について研究していますか?
唯今この時点で、非可換幾何学のスペクトル公理に関係するハードアナリシスについて研究している。これは今年のコレージュ・ド・フランスにおける私のクラスの内容であり、多くのテクニカルな研究だが、喜ばしい転換でもある。この転換の丁度前に、Matilde Marcolliと共著の本の原稿を渡した後に、非常に大きな研究の本体の中の或る間違いの避けられないリスクのために私は強迫観念の心理状態になった。勿論、事柄をチェックし、すべての種類の異なる角度から見ようとすることは出来るが、例えば物理に触れるとすぐにでも、行っている計算の正確さが実世界に対して何らかの"意味"を持ち、現実のテストを通るということを確実するためには十分でないのであるから、困難は山積みする。その点に関して、偉大な物理学者ピエール=ジル・ド・ジェンヌが以下のことを言ったので、私は彼の心構えを共有しようと努めている。

名誉の本当の意味は、いつも正しいことを言うことではない。新しいアイデアを思い切って提案し、それらをきちんと調査することなのだ。それは勿論、間違いを公に知られることでもある。科学者の名誉はDon Diègue[訳注: フランスの悲喜劇Le Cidの登場人物。主人公Don Rodrigueの父親。Rodrigueの恋人Chimeneの父親Don Gormasから侮辱を受ける]の名誉とは全く反対である。私達がミスを犯せば、面目を失わなければならない。

私達がやっていることで確かに大事なことは、アイデアにテストを受けさせ、何が起きているか見ることだ。その点で、真夜中に目が醒めることほどいいことはない。そして、人は恐れるべきでない。このことについて、アレクサンドル・グロタンディークの未刊の本Récoltes et Semailles[訳注: 収穫と種蒔き。フランスでは公には出版されていません。その他の国々では翻訳されて一旦は出版されましたが、後に認可は取消されました]の中で彼が書いていることがある。

間違いの怖さと真実の怖さは同じものである。間違いを恐れることは発見にはならない。それは間違いがあるに違いないと自己欺瞞する時だ。恐れの中で、いつか"真実"だと決めつけたこと、またはそういうものと伝統的に言われていたことに執着しているからだ。あり得ない安全性の心配でなく、知識に対する渇望によって動かされる時、私達を貫く苦しみまたは悲しみのように間違いとその通過の跡は新たな知識である。

どのように貴方は数学を読むのですか?
私が数学を何とかして読める唯一の方法は、命題を読みそれについて考えるので非常に遅い。前に自分で証明しようと努めなければ、私は証明を理解出来ない。一旦結果に長い時間をかけさせられたら、証明をなぞる間の数秒で理解出来る。以前には考えられなかった何かが起きている一箇所を私は見る。問題は、この読み方が非常に遅くて、結果を自身に馴染ませるために多くの時間を必要とする。私は数学の本を直線的にはほぼ読めない。対照的に議論または対話が私を早くさせている。だが、他の数学者達が非常に異なる流儀で機能することを私は知っている。

それは物理学についても同じですか?
いや、全く違う。物理学では私は読むことが大好きだ。シュウィンガーの本Selected Papers on Quantum Electrodynamics[訳注: 量子電気力学論文選集]の勉強に約15年費やした。彼は、ディラック、ファインマン、シュウィンガー自身、ベーテ、ラム、フェルミによる重要な論文のすべて、量子場理論に関する基礎的論文(勿論ハイゼンベルグの論文も)のすべてを集めた。これは長い間私の座右の本であり続けている。私はいつもその分野に魅了されて来ているし、それを理解したかったからだ。それは理解するのに非常に時間がかかった。論文の詳細を理解することは大したことではないが、それらの意味したこと、それらの背後に何の数学があったのか理解することが大変だった。それで物理学では、私は全く違う反応を持つ。読むのに全く困難を持たない。奇妙だ。考えられる理由があると思う。すなわち、数学では、いくつかの意味で私は自身を守る必要がある。物理学では全くこれを必要と感じない。

そして科学の外側では? 何か他のこと、音楽、芸術について話していただけますか?
ここ2年間、私は懸命に研究をしなければならなかったから、もはや時間が無かったが、前は絵画とピアノのレッスンを取ったものだった。音楽で思いつくことは、作曲家達が彼等の芸術において計り知れないレベルの完璧さにどのように届くのか分かることだった。楽譜を勉強する際に、数学論文を読むのと同じくらい学ぶんでいるという認識を感じられた。単に精巧さのレベルのためだ。これは数学と音楽の間の類似の問題ではない。一部の作曲家達は、正確さの幻覚のような作業によって、リーマンの研究の一部の完璧さのレベルに近いレベルに達した。
そして、このレベルの完璧さに接すると、私は同様に感嘆の感情を起こすが、動きを作る感嘆、全く静的でない何かだ。すなわち、完璧さに加えて美しさが意図を動作に変えて、人を考えさせる。芸術作品の形式において、この完璧さは勿論非常に稀だ。例を挙げるため、今度は文学において、[フローベールの]ボヴァリー夫人と[バルザックの]谷間の百合の間の"形式"に著しい違いがある。ボヴァリー夫人は完全な完璧さ、驚くべき量の作業の結果である素晴らしい正確さではあるが、他はちょっと無様だ。谷間の百合も素晴らしいものを含むが、見たところ明らかな違いがある。
数学論文または芸術作品を見る時、しばしば私はこの違いを激しく感じる印象を持つ。いくつかの部分が他より突き出ており、著者が一時立ち止まって"よろしい、うまく行くだろう、私の手の内を見せよう"と言う代わりに、完全な完璧さに近い何かに届くまでまさしく作業を続けた(バルザックはそうせざるを得なかった。彼は自分を追いたて余地が無かった)感触を持つ。
これは主に芸術について私が感じることだ。これらの作品、完全な完璧さを持つものは人に勢いを与える。それらは感触だけでない何かを人に与える。人に並外れたパワー、力を与え、それが人をさらに持続させる。それが人に何かを伝える。私は数学または物理学の一部の論文で、この印象を持つ。例えば、リーマンのゼータに関する論文、アインシュタインの相対性に関する論文...それらは少ない、非常に少ない。それらは標準の書き物のレベルを押し上げる。素晴らしい。人は何かを見て本当に理解する。これは理解するための並外れた手段であり、明晰さを超えて、人を動作に駆り立てる何かを感じる。それは人に語る。すなわち、進めと。

アラン・コンヌへのインタビュー 第一部

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前回紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "はもちろん一般大衆向けの記事です。数論、数論幾何学、IUTT(宇宙際タイヒミュラー理論)のいずれかの専門家なら、そんな記事を読まなくても、そこまでに至る経緯は十分に承知しています(何故なら自分達の飯の種を左右する問題だから)。その方面の専門家でなくても数学研究者なら数学コミュニティ又は数学界を通して大概の経緯を聞き及んでいます。 私の身辺(私の友人共はすべて何らかの形で数学研究に携わっているので、それらを除きます)でその記事を読んだ感想は"そんなに拗れるのは不思議だ。もっと経緯を知りたい"というのが多かったです。その身辺の彼/彼女等はもちろん素人衆ですので、望月新一博士の名前も報道でしか聞いたことがないし、数学で何故これほどまでもつれるのか不思議でならないそうです。彼/彼女等は至って真面目です(何故こういう事を書くかと言うと、素人衆と言っても千差万別で、中にはネット上で国家高揚か日本民族高揚のために望月博士のことを書いているとしか思えない不逞の輩がいるからです)。そこで、それらの真面目な人達のために今回紹介するのは2015年10月の Nature 誌に載っていた" The biggest mystery in mathematics: Shinichi Mochizuki and the impenetrable proof "です。 何故これを選んだかと言うとエンターテイメント性があり、素人衆でも面白く読めるだろうと思ったからです。但し断っておきますが、いろいろな数学者の証言を繋ぎ合わせて望月博士の心情を勝手に推測するのははっきり言って妄想であり、さすがエンターテイメント性を重視して堕落した Nature 誌だけのことはあると私は思いました(あのSTAP論文を掲載したことも記憶に新しいでしょう)。 その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] この記事は2015年12月に行われたオックスフォードでのワークショップより前の話です。このワークショップは望月論文に関する初めての国際的な会合で、この記事でもこのワークショップにかなりの期待を寄せているところで終わっています。 しかし、いろいろ評価が分かれ

谷山豊と彼の生涯 個人的回想

数学に少しでも関心のある人なら、フェルマーの最終予想が、これを含む一般的な志村予想を証明することによって解決されたことは御存知でしょう。この志村予想は、かって無知と誤解によって谷山-志村予想と呼ばれていました。外国では更に輪をかけて(と言うよりもアンドレ・ヴェイユの威光によって)谷山-志村-ヴェイユ予想と呼ばれていました。ヴェイユがこの予想に何ら関係しないことは、故サージ・ラング博士によって実証されました。それでも、谷山-志村予想もしくは谷山予想と呼ぶ人がまだ散見されます(散見と言いましたが、日本人ではかなり多いです。国民性に依存するのかどうか知りませんが)。私は数論を専攻したことがなく、ずぶの素人ですが、志村博士が書かれた記事や自伝"The Map of My Life"を読み、何故志村予想なのか納得しました。ここで込入った話を書くことは不可能なので、分り易く言えば、故谷山氏は何ら予想の内容にタッチしていないと言ってもいいかと思います。勿論、その周辺は谷山氏の研究分野でしたから周辺にはタッチしていたでしょうが、志村博士は全く独立にきちんと予想を定式化しました。ですが、谷山氏と志村博士はいわゆる盟友関係であり、また谷山氏の不幸な亡くなり方を悼む日本人的感情(つまり、センチメンタル)から日本人は谷山-志村予想と頑なに呼んでいるのだと私は理解しています。ですが、これは数学なのであり、事実を直視しなければいけないと思います。また、最終的に志村予想は証明されたのですから、何とかの定理と呼ぶべき時期だと思います。この"何とか"に何を冠するかはいろいろ意見があるようですのでこれ以上は触れないでおきます。 さて、志村博士の"The Map of My Life"の第4章、18節に"18. Why I Wrote That Article"があります。ページ数で言えば145ページ目です。タイトルが示している"あの記事"とは、志村博士が英国の専門誌 Bulletin of the London Mathematical Society に発表した" Yutaka Taniyama and his time, very personal recollections "

識別の危機

昨年紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "の元記事はもちろん大衆向けのオンライン科学ジャーナル Quanta Magazine に掲載されたものですが、著者はErica Klarreich女史です。彼女はサイエンスライタではあるけれども、歴とした数学者です。しかも、幾何的トポロジで彼女の名前を冠した定理を持つくらいの立派な方です。何故こういうことを書くかと言うと、IUTを支持するイヴァン・フェセンコ博士がKlarreich女史をいかにも素人呼ばわりした非常に下らないドキュメントを書いたからです。大学にポストを持っていなければ全員が素人なんですかと問いたいくらいです。これでは世界からIUT自体が白眼視されるのも無理からぬことだと思いました(本当のところは全く違う理由からなんですが、話せば切りが無いので止めておきます)。 さて、今回紹介するのはディヴィド・マイケル・ロバース博士が書いた記事" A Crisis of Identification "です。ロバース博士と言えばショルツ、スティクス両博士のリポートが公開された直後からキャテグリ論の専門家として非常に冷静な分析をされていたことに私は感心してましたから直ぐに記事を読みました。一つの不満を除いて非常によく書けていると思います。" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "も勿論読み応えのある立派な記事でしたが、どちらかと言うとドキュメンタリ風の記事でしたし、読者層が一般大衆であることを考慮してあまり数学を前面に出していませんでした。ロバース博士の記事はもう完全に数学を前面に出しています。 前述した一つの不満はグロタンディーク氏のことにスペィスを割いて結構触れていることです。今のABC予想の置かれている状況とはあまり関係がないと私は思いました。やはり大衆受けを狙ったのかと感じました。まぁ、日本でも素人には何故かグロタンディーク氏は大人気ですから(捏造されたエピソゥド、つまりグロタンディーク素数がどうたらこうたらに踊らされて?)、それはそれで良いのかも知れませんが。 前置きはこれくらいにして、この記事の私訳を以下に載せておきます。なお著者の注釈欄を省いていますが、注釈へのインデクスはそのままです。 [追

数学教育について

聞くところによれば、関数型プログラミング言語の流行とともに数学の圏論がブームだそうで。圏の概念が他の数学の分野を全く知らない人でも意味が分かるのか疑問を持っています。その理由は後で述べます。 私の手許に故Serge Lang博士の名著"Algebra"があります。この本は理由があって、何と大昔の1974年の初版第6刷です。非常に貧しい学生だった私に恩師が2冊持っているからと言って1冊を下さり、私の生涯の宝物です。 仮に数学を代数学、幾何学、解析学という全く意味が無い区分けをしたとします。意味が無いと言うのは、例えば多様体論なんかはどの分野にも入るからです。そうであっても無理に区分けしたとしましょう。この3分野のうちでも、代数学(厳密に言えば抽象代数学です)が、勉強するだけなら(あくまで勉強するだけですよ、研究となれば別の話です)数学的予備知識も数学的センス(故小平邦彦博士の言うところの"数覚"、位相群で有名だった故George W. Mackey博士の言うところの"数学的成熟度"、まぁ簡単に言えば数学的才能ですね)も全く必要としません。必要なのは論理を追うための忍耐力と言えます。ですから、理解出来るか否かは別にして、代数構造を"言葉"として吸収することは誰にでも出来ます。数学のどの分野を専攻してもLang博士の"Algebra"程度の知識は"言葉"として知っていなければ話にならないのです。数学での代数学は、私達が日本語や英語等でコミュニケーションするのと同じく、数学の言語なのです。 Lang博士の"Algebra"には、第1章群論の第7節に早くも"圏と関手"が登場します(ページで言えば25ページ目です)。ついでながら、この圏、関手という日本語は全く元の英語が想像出来ないので、以降カテゴリ、ファンクタと書きます。 ところで、Lang博士はブルバキにも入っていた人ですから、こういう抽象度が高い概念を重要視しているかと思いきや、決してそうではないのですね。元々カテゴリ、ファンクタ(ファンクタの方が重要な概念でして、カテゴリはファンクタが扱う対象物です)は、ホモロジー代数の一部として提案された概念です。ホモ