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マクス・デーン、クルト・ゲーデルとサイビリヤン横断脱出ルート

ずっと前に紹介した"フランクフルト数学セミナーの歴史について"を読んだ人ならナチ政権の愚かさとそれを支持した殆どの独逸国民の馬鹿さを御存知でしょう。日本も同様でした。ところが時が経つに連れ反省意識も薄れ、日本では国粋馬鹿がはびこっています。
概して、国が世界から孤立するとか、国が理解されないとかいう現象は必ずその国民全体に海外規模の視線を持てない、もしくは持たないところに要因があります。つまり、内向けの視線しか持たないのです。
さて、今回紹介する記事は"フランクフルト数学セミナーの歴史について"でも登場したマクス・デーン、及び前述の記事には登場しなかったゲーデルがどのようにナチから脱出して米国に移住したかを詳説しているNotices of the AMSに掲載されたMax Dehn, Kurt Gödel, and the Trans-Siberian Escape Route(PDF)です。その私訳を以下に載せておきます。なお、これを読んでゲーデルの生涯に関心を持たれたら是非ともJohn W. Dawson Jr.博士の著書Logical Dilemmas. The Life and Work of Kurt Gödelをお勧めします。4月に緊急事態宣言が出てからの自粛生活に退屈しているであろうと友人共の一人がわざわざこの本を4月下旬に郵送してくれて、私も面白くて一気に読めました。

マクス・デーン、クルト・ゲーデルとサイビリヤン横断脱出ルート
2002年10月 John W. Dawson Jr.

マクス・デーンとクルト・ゲーデルの経歴は非常に異なる軌跡をなぞる。それでもデーンとゲーデルは一つの歴史的事情で結ばれていた。すなわち、彼等はサイビリヤン横断鉄道[訳注: 日本の馬鹿表記では"シベリア横断鉄道"]を経由してナチズムの災難から逃げた唯一の高水準な数学者達だった。彼等の脱出の物語と移住前及び移住後の著しい差異はホロコーストの知的亡命者に突き付けた危険と限られた機会の両方を例証する。
1940年、マクス・デーンとクルト・ゲーデルの各々が欧羅巴を去り二度と戻らなかった。当時デーンは学問的経歴の最後に近い著名なトポロジストだった一方で、ゲーデルは数理論理学において人々をぎょっとさせる発見で最近突然に著名になったばかりの若きPrivatdozent[訳注: 私講師]だった。デーンはユダヤ人だが、ゲーデルはそうではなかった。そして、彼等の個性は全く反対だった。デーンは外向的で寛容な人であり、彼の人間性、知的及び文化的な関心事の幅、野外に関する愛情と知識のため、学生達や同僚達から一様に尊敬された一方で、ゲーデルは親友を殆ど持たず孤独を楽しむ心気症患者であり、孤立して研究を行い、周期的な精神病の発作を受けた。それにもかかわらず、少数の点において彼等の経歴は似ていた。すなわち、両者はヒルベルトの有名な問題リスト[16]に関する問題を解決した。両者は決定問題に関する重要な論文を発表した。そして、環境の力によって両者はサイビリヤン横断鉄道を経由して米国に移住した。
国外移住前のデーンとゲーデルの状況の相違はヒトラから逃げた数学者達における背景の多様さを例証する。彼等の脱出の状況は、そんな国外移住者達が直面した混乱、困難、危険を際立たせている。そして、米国での彼等の引続きの経歴の著しい差異は知的亡命者達のために避難場所を与える米国における研究機関の範囲の良い実例である。

デーンの欧羅巴における経歴
マクス・デーンの等身大の伝記は今までのところまだ無いし、彼の発表した研究の全作品集も無い。だが、幾多の短い記事が彼の人生と数学的業績の詳細を与える。只今の簡単な概要のために、主に[13], [15]と特に[16]の中のヒルベルト第三問題に関する章を利用している[訳注: 文献[13]は"フランクフルト数学セミナーの歴史について"]。
デーンは1878年11月13日にハンブルクで生まれ、医師Maximilian Moses デーンの8人の子供達の一人だった。マクスの息子Helmutによれば、家族は"一部の者が'良きキリスト教徒'と呼ぶ信念により生きる"分離したユダヤ人であり、彼等はナチが政権を取るまでユダヤ人と思わなかった[16, p. 118]。ハンブルクのGymnasium[訳注: ギュムナーズィウム]を卒業して、マクスは最初フライブルクへ行き、後にゲティンゲンへ行った。ゲティンゲンではヒルベルトの指導の許で1900年に学位を取得した。学位論文の中でアーキミーディーズ[訳注: 日本の馬鹿表記ではアルキメデス]の公準が平面幾何学において三角形の角度の合計が180°を超えない(ルジャンドルの定理)ことを証明するために本質的であることを証明した。
同年の後、巴里の国際数学者会議でヒルベルトの"数学の問題"についての講演の直後(かつ印刷版が出版される前。印刷版では問題のリストが10から23に拡張された)にデーンは発表された問題の第三番目(講演の間に述べられなかった問題の一つ)の解決に関係する結果を証明した。つまり、同じ底と高さを持ち、有限な合同部分に等分解可能でなく、等分解可能な多面体を作るための、そんな部分による等補足可能でもない二つ四面体を示すことによって、彼は同じ底と高さの四面体が同じ体積を持つことを証明するにはアーキミーディーズの公準も必要であることを実証した。
ヒルベルト第三問題の解法に対して、デーンはミュンスタでHabilitation[訳注: 教授資格]を授けられた。ミュンスタで1901年から1911年まで彼はPrivatdozentを務めた。1907年にEnzyklopädie der mathematischen Wissenschaften[訳注: 数理科学大百科]の中の影響力のある概要記事"Analysis situs"をPoul Heegaardと共同執筆した。1910年に彼は群に対する、いわゆる"デーン図解"を導入し、3次元空間のトポロジに関する基礎的論文を発表した。その論文は以降"デーンの補題"(後に証明が不完全だと判明するけれども)と知られるようになる結果と現在"デーン手術"と呼ばれるテクニークを含んだ。論文は群に対する語と共役類(決定)問題も含んだ。その問題についてデーンは引続く2つの論文で更に探究し、その2番目の論文は現在彼の名前で呼ばれるアルゴリズムを使用した。
1911年から1913年までデーンはキールでExtraordinarius[訳注: 特任教授]、そして1913年から1921年までヴロツワフでOrdinarius[訳注: 主任教授]だった。1912年8月23日に彼はToni Landauと結婚し、ヴロツワフにいる間に彼女は彼に3人の子供を授けた。1914年にデーンは三つ葉模様の結び目がその鏡像に連続的に変形可能でないという証明を発表した。結び目理論における初期の重要な結果だ。それから、1915年から1918年まで彼の研究は兵役期間によって中断された。
1921年デーンはルートヴィヒ・ビーベルバハの後を継き、フランクフルトでOrdinariusになった。翌年彼はそこで数学の歴史に関するセミナー[訳注: 数学史上でも名高い"フランクフルト数学セミナー"のこと。これについては"フランクフルト数学セミナーの歴史について"を見て下さい]を創始した。数学の歴史と重要性並びに、その中におけるデーンの指導的役割が上で引用された[13]のジーゲルによる回顧録の中で痛切に語られている。デーンは1935年までセミナーを指導した。1935年、彼が56歳の時にナチ政権は引退を強要した(彼の早期の軍務奉仕のおかげで、大部分の人よりもずっと後だった)。
大学からの免職の後、デーンはもう三年間フランクフルトで住み続けた。しばらくの間、彼は年金を受領し、講義するためいろいろな欧羅巴諸国へ旅行した。1938年に刊行した重要な論文を含めて彼も発表を続けた。その1938年の論文で彼は現在"デーン捩り"と呼ばれる概念を導入した。しかし、1936年までに彼は用心深く子供達をナチの手の届く範囲から外へ送り出していた。息子Helmutは米国へ、娘のMariaとEvaは英国のケントにある全寮制学校へと。その全寮制学校でデーン彼自身が1938年の1月から4月まで教えた。
その春の後、デーンはフランクフルトに戻ったが、それは運命を決する行為だと判明した。と言うのは、1938年の11月11日(Kristallnacht[訳注: 近代史上でも名高い"水晶の夜"のこと]の後の朝)にナチ捜査官に逮捕され、地域の拘留所に連れて行かれたからだ。しかし、奇跡的に彼はその日の後で解放された。非常に多くが一斉検挙されたので彼等全員を留めておく場所が無かったのが理由だ。
差し迫る再逮捕と国外追放を前提にして、デーンと妻はすぐにバート・ホンブルクに逃げた。そこで彼等は彼の友人で同僚であるWilli Hartnerにより隠れ場所を与えられ、その隠れ場所でHartnerとジーゲルと一緒にデーンは60歳の誕生日を祝った。Hartnerは後に新聞のデーンへの弔意[9]の中で、その特別な年月を思い起こしていた。”その時に彼を見た人々にとって忘れられないのは、彼の落ち着き、彼の達観した沈着だった。と言うのは、会話がその日の出来事ではなく、芸術に対する数学の関係、考古学の問題、ついには孔子の人道概念に集中したからだ"。
フランクフルトでのユダヤ人虐殺の初期段階が一旦収まると、デーンと妻はAlbert Magnus(デーンの学生で同僚のWilhelm Magnusの息子)の補助を受け、やっとのことで列車でフランクフルトを抜けハンブルクに脱出出来た。ハンブルクでデーンの姉の一人の家に彼等は数週間隠れた。その姉は彼女の年齢のため妨害されなかった。そこから、ジーゲルと"デンマーク人の同僚でデーンの元学生"[15](おそらくJakob Nielsen)からの更なる援助があり、デーン家がデンマークに脱出し、デンマークからノーゥエイ[訳注: 日本の馬鹿表記では"ノルウェー"]に脱出する方法が見つかった。1939年1月に彼等はコゥペンヘィゲン[訳注: 日本の馬鹿表記では"コペンハーゲン"]に到着し、間も無くしてデーンはViggo Brunの代わりとしてチュロンハインにあるTechnische Hochschule[訳注: 工業大学]の臨時職を確保した。Brunはその時休暇中だった。
1940年3月1日(ナチがノーゥエイを侵攻した時)までデーン家は比較的安全だった。しかし、彼等は財政的に不安定だった。独逸を去る前にデーンは蔵書と調度品を大損で売らなければならなかった。彼はもちろんチュロンハインのHochschuleから給料を支払われていた。フランクフルト大学からは何とかして1939年4月1日から1940年6月30日まで有効の公式休暇を得ることが出来、それが彼の年金報酬が続くことを可能にした。しかし、それらはハンブルク内の口座に入金され、そこからの支払いは独逸帝国内の集まりに対してのみ可能だったので、彼が倫敦へ発送出来るだけのわずかな調度品と身の回り品の倉庫保管料を支払えなかった。結果的にそれらも損失だった。
ナチがチュロンハインを侵攻した時、デーン家は近くの田舎に逃げた。しかし、ユダヤ人に反対する行動が鎮静し、少し経ってからデーン家は隠れる苦労も無かったらしく市街に戻った。実際、テキサス大学のデーン関係書類の中に保管されている書簡は1940年6月にチュロンハインから彼が書いた手紙を含む。手紙は休暇延長を要求している。もう一つ別の1940年8月29日付の手紙はオズロゥ[訳注: 日本の馬鹿表記では"オスロ"]に近いHvalstadに彼が移ったことを独逸当局に知らせている。
その状況下でデーンが"良き独逸人"として振舞い、彼の所在を知らせ、ノーゥエイにもっと長く留まることの公的認可を求めることは異常だと思える。おそらく彼はナチ官僚が返答するのにどれくらい時間を要するか知っていた。そうしている間に、Ernst Hellinger及び米国に脱出した元同僚達の援助があって、彼は米国への長旅の準備をしていた。

国外移住前のゲーデルの人生
幾多のソースがゲーデルの人生と研究の詳細を与える。[1]が等身大の伝記である一方で、ゲーデルのCollected Worksの第一巻にある紹介エセィ[6]は秀でた短い概要である。
簡潔に言えば、ゲーデルは1906年4月28日にモラヴィア[訳注: 現在のチェク共和国にある東部の地方]のブルノで生まれ、少年時代を過ごした。そこのRealgymnasium[訳注: Gymnasiumと同様に大学進学のための中高等学校ですが、Realgymnasiumでは古典語としてGreek語ではなくLatin語を教えます]を卒業し、1924年の秋にヴィエナ[訳注: 日本の馬鹿表記では"ウィーン"]大学に入学した。Phillip FurtwänglerとHans Hahnの講義に影響を受けて彼はすぐに物理学から数学へ転向し、Karl Mengerに指導された数学研究セミナーに活発的になった。しばらくの間、Moritz Schlickのセミナー(後にヴィエナ・サークルとして有名になる)の会合にも参加した。
その期間としては珍しく、ゲーデルは他のどの大学のコースも登録しなかった。1929年に彼はオスチュリア市民権を認められ、同年にHahnへ学位論文を提出した。学位論文の中で可算一階術語理論の意味的完全性を証明し、1930年2月6日に博士称号を授けられた。
翌9月、ケーニヒスベルクでのコンフレンスでゲーデルは第一不完全性定理の、最初のやや間接的な発表を行った。第二がその後すぐに続き、両方が画期的な論文[7]の形で出版され、それが彼のHabilitationsschrift[訳注: 教授資格論文]となった。1933年に彼はDozentur[訳注: 講師職]を任じられ、その秋に1933-1934の学年度をプリンストンに新しく創設された高等研究所で過ごす招待を受けた。
1934年の春にオスチュリアへ戻った直後、ゲーデルはうつ病の深刻な発作に見舞われ、Purkersdorf bei Wienにある療養所に入院した。1935年までにZermelo-Fraenkel集合論の公理付きで選択公理の相対的一貫性を証明するほど十分に快復した。しかし、次の再発が1937年の春まで彼に体の自由をきかせないようにした。1937年に彼はとうとう一般連続体仮説の相対的一貫性の証明も成功した。
ゲーデルは1937年の夏の間にヴィエナで最後の講義をした。翌春、Anschluß[訳注: 第三帝国によるオスチュリア併合のこと]の直後、教育するための彼の公認が撤回され、Dozent[訳注: 講師]の未払い順位が廃止された。Dozent neuer Ordnung[訳注: "新秩序の講師"]が取って代わり、それはナチ当局の調査を必要とした。ゲーデルは新しい職位を申請したが、その時までに彼は既に国外移住していると認められた(([14, p. 29], ゲーデルの申請を評価している手紙の一つを再作成している)。そうしている間、オスチュリアの財政状態は悪化し、ゲーデルは非雇用のままだった。
未確定にもかかわらず、1938年の9月に彼は結婚し、そのすぐ後にもう一度米国へ戻った。その秋に高等研究所で講義し、1939年の春にノチュラダーン大学に行った。彼は翌秋に再び高等研究所に戻るつもりだったが、ヴィエナに戻ると徴兵検査のために招集され、ナチの兵役に対する合格を宣告された。
その時でさえ、ゲーデルは彼の周辺で何が起きているのか全く気付かなかったようだ。1939年9月17日付のジョン・フォン・ノイマン宛の手紙の中で、"ここ周辺にはあまりニューズがない。最近私は当局と多くの折衝をした。9月の終わり頃に再びプリンストンにいることを希望している"と書いた。9月30日付のKarl Menger宛の手紙の中で、Mengerは"歴史的事件の発端に無関係であるためには事実を正しく記録せよ"と考えたが、ゲーデルは"6月の終わりから再びここヴィエナにいるが、最近の数週間に私はやるべきことのために走り回っている。だから今まで研究セミナーのために私が何かを編纂することは残念ながら不可能だった"と書いた。そして、彼の国外移住の後、Oskar Morgensternにヴィエナではどのような状況だったのかと訊かれた時、彼は無造作に"珈琲が貧弱だ"と答えた。
しかし、同時にゲーデルは方法を見つけ出そうと努力し始めていた。すなわち、オスチュリアでは生活費の手段を持ってないが、高等研究所からは非常勤雇用を提供されているという理由で、大学からの休暇と独逸帝国からの出国ヴィーザの両方を申請した。軍隊上の彼の身分を考慮すると、米国に戻る許可を得る見込みはわずかなように見えたに違いない。そして、米国側にも困難があった。と言うのは、彼は早くから米国の出入国ヴィーザを持っていたけれども、1938年に彼がオスチュリアに戻った時にそのヴィーザを没収された。それ以後、米国の方針は教育または研究職の人達に対するヴィーザは"出国した国で申請直前の2年間にそのような職にいた申請者のみに与えられる"と規定した。
結局のところ、殆ど高等研究所所長Frank Aydelotteのおかげで、ゲーデルは必要な書類を得ることに成功した。Aydelotteはゲーデルのためにオスチュリアと米国の両方の領事館と入国管理局を取りなした(関係する交渉の詳細については[1, chapter VII]を見よ)。ゲーデルと彼の妻に対する出国許可書は遂に1939年12月に発行され、二人は1月半ばに欧羅巴を去った。しかし、その時までに大西洋を渡ることはかなり危険になっていた。代替手段(出国許可書に明確に規定されている)はサイビリヤン横断鉄道を取ることだった。その終着駅のヴラディヴァストークから日本海を渡り、そこから太平洋を横断して航海出来るであろう。

サイビリヤン横断脱出ルート
1891年に始まり、サイビリヤン横断鉄道は急がずに建設された。モスコゥから線路が2つのルートのうちの一つを経由しヴラディヴァストークへ約9,200 kmまで延びた。2つのルートのうちの一番目は1901年に完成し満州を渡った。二番目はアームワ川のコースを引き継ぎ完全にサイビリヤ内に位置するが、日本人が満州を管理下に置く(後に彼等はそれをやった)やも知れぬという懸念から建設され1916年に完成した。
いつも最後の頼みのルートだ。第三帝国の初期の間、やはりサイビリヤン横断鉄道は何千人のホロコースト避難民に選択された。ホロコースト避難民の殆どが集団で日本の神戸または中国の上海のどちらかに国外移住した(前者の中でも日本人外交官杉原千畝によって発行されたヴィーザを持つ数千人のポゥランドユダヤ人が最も知られている)。後に欧羅巴からの海ルートは1940年6月を最後に閉ざされ、ソ連侵攻により独ソ不可侵条約をヒトラが破った時の1941年6月まで欧羅巴のユダヤ人達に可能な唯一の手段だった。
特に冬の間、広大な露西亜タイガを横断する旅は長くて疲れさせる。冬の間は長時間暗く、気温は-50℃まで下がる。国外移住者達は彼等のサイビリヤン横断の体験の説明を殆ど残さなかったし、ゲーデルも例外でなかった。しかし、ゲーデルのNachlaß[訳注: 遺産]の中にある彼のパースポート([14, p. 32]を見よ)とドキュメントの項目から、1月18日に彼と妻はラーツヴィヤ[訳注: 日本の馬鹿表記ではラトビア]からビゴソヴォ[訳注: 現在はベラルース共和国の都市]で露西亜に入り、モスコゥ行きの列車に乗車した。満州ルートを辿って彼等は2月2日に横浜に到着したが、乗るつもりだった船には間に合わず、彼等がとうとうPresident Clevelandに乗船した2月20日まで横浜に残った。ハワイ―での中途停泊の後、彼等は3月4日にサァンフランシスコゥに上陸し、列車でプリンストンへ行った。合計して、彼等の国外移住は2か月近くかかった。それでも注目すべきことに、心気症と早期の精神衛生危機にもかかわらず、ゲーデルは良い身体的及び精神的条件で長旅を切り抜けたようだ。
ゲーデルの出発は大急ぎだった。しかし、デーンと彼の妻は脱出を慎重に計画した。米国に移住するための必要書類を彼等がどのように入手したのか不明だが、Clare Haas(デーンがフランクフルトで知り合った医師)の苦心を通してデーンが米国で学問職を確保した(彼の入植者としての認可を前提に)ことは知られている。Haasはアイダホゥ州ポカテロゥで精神科医の職を見つけており、彼女はデーンのためにIdaho Southern University[訳注: かってのアイダホゥ大学南部分校のこと](現在はアイダホゥ州立大学)で臨時職の段取りを付けられた。そこでデーンは1941年の2月から1942年の春まで[16, p.129]数学と哲学の助教授を務めた。
デーン家は最終的に10月の遅くにノーゥエイを去り、デーンは到着後間もなくアイダホゥ大学南部分校で行った話の中で彼等の旅を記録にとどめた。そのテキストはデーン関連書類の中に8ペィジのタイプライタ原稿としてテキサス大学に保管されている[2]。その物語によれば、友人達の小さな集まりがオズロゥの駅で彼等を見送った。ノーゥエイとスゥイーヅンの間の国境で彼等の鞄は"引っ掻き回され"、彼等は国境守衛隊から"極端に不親切かつ乱暴に扱われた"。その振舞いは如何にして"若い人達が彼等自身または彼等の共同体にとって何の得も無しに、そんな不親切に勝ち誇れるのか"と彼に思わせるものだった。おそらく満州とヴラディヴァストーク内の疫病の発生のためにデーン家はストクホウンで3週間遅れた。しかし、実のところデーンは"よく分からない政治的"理由のためだと思った。結局、彼等はアームワ川コースを取り満州を横断しなかった。ストクホウン滞在の間、彼等は取り分け他の西欧羅巴中で灯火管制であるのと対照的に"華麗に照らされていた"という理由で滞在するにはストクホウンが快適だと分かった。
遂に必要な切符と旅行書類が発行され、デーン家は天然痘、腸チフス、パラチフス、疫病に対抗する予防接種を受け、モスコゥへ急いで行った。モスコゥでデーンは医者の診察を受ける必要があると分かった。次のサイビリヤン横断列車の出発までに3日以上経過したが、合間が彼等に街を探検したり、オペラとバーレィを見る時間さえも与えた。デーンは店々に長い行列があるが、食料は配給でないことに気付いた。
数日間、彼等は"果てし無き露西亜の平野"を横切ることに費やし、ときおり気温がとても低くて入浴のための使用可能な唯一の液体はコロゥンだった(温かい湯は茶用湯沸かし器で可能だったけれども)。そして、デーンはインフルエンザと肺炎という命にかかわる組合せに罹った。その病気に対し彼はイヤクスクで手当てを受けた。それでも彼の説明において、彼等が経験した苦労について彼は殆ど考慮しなかった。代わりにノヴォシビルスクの壮大な駅、偉大なサイビリヤン川、凍り付いたバイカル湖、そして"ビロビジャンという(名目だけの)ユダヤ自治州の首府にある立派な外見の入植地"。ユダヤ自治州は1934年に幾多の"自治"州の一つとして設立された。"自治"州は露西亜の少数民族に対する少数民族避難場所として意図されたが、多数の入植者達を引き付けることに成功しなかった。
デーン家が遂にヴラディヴァストークに到着した時、彼等は神戸行きの船を待っている間、6日以上居続けることを余儀なくされた。デーンは機会をとらえて当地の教育学研究所を訪問し、素晴らしい数学図書を見つけて驚いた。その蔵書はクーラントによるテキストを含んでいた。
日本に渡ることは非常に辛く狭苦しいと分かったが、神戸の穏やかな気候が喜ばしい安堵とデーンが健康を取り戻す機会を提供した。彼は次に来る、サァンフランシスコゥへの船旅について何も言わなかった。彼と妻は1941年の元旦にサァンフランシスコゥへ到着した。

対照的な避難場所: 高等研究所とブラァク・マウンツン・コリジ
デーンとゲーデルの次に来る経歴は著しく異なるが、それでも或る面でまた並行する。両者は常任職を確保するのが困難で、始めのうち難民奨学基金を通して支援された。ゲーデルは余生高等研究所に居残ったが、1946年までそこの常任メンバではなかった。カール・ルートヴィヒ・ジーゲルが去った後、1953年に教授職を任じられたに過ぎない。ジーゲルはデーンの親友の一人であり、高等研究所に自身の避難場所を見つけていた。彼はゲーデルの昇進には絶対的に反対だった。最初の6年間ゲーデルの契約は例年を基本として更新されたが、或る時点で彼の名前はワイオゥミン大学に常任職を探し求めている者として送られた。しかし、ゲーデルは彼の身分について不満を持たなかったようだ。高等研究所は彼に講義の義務無しで彼が穏当だと思う知的関心を追求するための自由を与えた。彼には発表の強要が無かったし、たまにしか発表しなかった。高等研究所運営の問題に研究職員が関係するような義務も彼は好まなかった。そして、臨時研究員としてでさえ彼は比較的待遇が良かった(彼の1940–1941の年俸は$4,000だった)。
他方、デーンは無一文でポカテロゥに着いたが、毎月たった$100の給料しか支払われなかった。アイダホゥ南部分校での彼の教務は過度ではなく、近くの山にハイキングを楽しんだが、ポカテロゥは知性に関して沈滞している場所であり、短期間の任命は彼にどこか他で職を早急に探すことを強要した。彼は次にイリノイ工科大学へ行き、数学の客員教授を務めた。報酬は良かったが、講義義務はもっと骨が折れた。デーンは忙しいシカゴの都会または産業の環境を嫌った。だから、イリノイ工科大学でたった一年後に彼はメアリランド州のアナァポリスにあるセント・ジョンズ・コリジで準講師としての職を受けた。
米国の最も古い大学の一つであるセント・ジョンズはそのカリキュラムで有名だった。カリキュラムは西洋文化の偉大なる著書(シカゴ大学で練り上げられた100のリストに基づいて)に的を絞った(現在もまだ行っている)。ユークリド、アポロゥニァス、ニューッン等のテキスト(Principia Mathematicaで終わる!)から直接的に数学を教えるのがデーンの任務だった。だが、彼は学生達が若く(彼等の殆どが兵務のため招集されていたので18歳を超えている)予備知識が弱いとすぐに認識した。馬鹿々々しい見せかけを是認する企てに失望させられたので、彼はまだもう一つ別の職を探し求めた。
デーンの名声にもかかわらず、彼の年齢(66)が定評のある教育機関での常任職を得ることを困難にさせた。しかし、世界大恐慌の年月がいくつかの実験的な学問的事業を生み出していた。1933年に運営を始めた高等研究所はそんな一つだった。同年に創立されたもう一つはブラァク・マウンツン・コリジだったが、ノースキャロライナ州のアシュヴィルから数マイル北東にあるブラァク・マウンツンの地域社会の外にあった。1944年の3月にデーンはそこで2つの客員講義を行った。そして、そこで1945年から彼の死の1952年まで数学の唯一の教員として務めた。
ブラァク・マウンツン・コリジはユーニークな教育機関だったが、それについて多くのことが書かれて来ている([4]は大学の詳細な歴史を与え、[10]は元学生や教員による回想のコレクシュンである。そして[12]はそこでのデーンの経歴を記述している)。フロリダ州のウィンタパークにあるロリンズコリジを辞めたか又は解雇された反体制派の教員達によって創立されたので、ブラァク・マウンツン・コリジは(高等研究所がしたように)賃貸学舎で活動を始めた芸術系の実験的大学であり、6年後(高等研究所がしたように)近くの常設所在地(元夏季キャンプ場の敷地にある森の中)に移転した。高等研究所と同様に、ブラァク・マウンツン・コリジは多くのホロコースト避難民のための避難場所として役立った。その避難民はデーンの他に、芸術家AnniとJosef Albers、Willem de Kooning; 音楽家HeinrichとJohanna Jalowetz、Stefan Wolpe、Erwin Bodky; 音楽学者Edward Lowinsky; 精神科医Erwin Straus; 物理学者Peter Bergmann; そして人類学者Paul Leserを含んでいた。また高等研究所と同様に、ブラァク・マウンツン・コリジは教員ガヴァナンスの原則に基づいて創立された。それは(高等研究所とブラァク・マウンツン・コリジの両方の場合において)残念ながらコンセンサスへ導かず、衝突や指導者の地位変更となることが多過ぎた。しかし、高等研究所と違い、ブラァク・マウンツン・コリジは基金が無かったので、その財政状態はいつも不安定だった。学生達と教員達はキャンパス設備の構築と食料の農作物の栽培に共同作業したし、教員達は彼等の部屋と賄いを除いて殆ど(時には全く何も)受取らなかった。そこでのデーンの最初の給与は毎月$40だった。更に、高等研究所が学位を提供する権限を与えられた(しかし、提供して来てない)一方で、ブラァク・マウンツン・コリジは有資格と認定されなかった。代わって、その大学院生達は外部の学者達によって実施される審査を通して認定された。
ブラァク・マウンツン・コリジは実質的に教育コミューンであって、伝統的な大学教育の代替を探し求めている自立的な学生達を引き寄せた。それはゲーデルが生き残れなかったであろう環境だった。しかし、デーンはそこで栄えた。数学に加えて彼は哲学、Latin、Greekを教えた。複数の学生回顧録が証明するように、彼は尊敬され愛される人物になっており、特に野外に対する彼の愛情が記憶された。近くの山のハイキングの途中で彼が行った準備無しの自然史の授業、哲学の教育に対する彼の型破りなアプロゥチ(ソクラァティク手法を経由して)、学生達への彼の友好的な姿勢。学生達の中に二人(Peter NemenyiとTrueman MacHenry)がいて、彼等は学位を取得するまで進んだ(彼等の卒業に対して、NemenyiはEmil Artinに審査され、MacHenryはRuth Moufangに審査された)。Nemenyiは後にミシシピイとニカラァギュアで統計学を教えた一方で、MacHenryはキャナダのヨーク大学で教授になった[16, p. 133]。
ブラァク・マウンツンで真剣な数学学生の不足にデーンが失望したと思うかも知れない。それでも、それについて問われた時、"全然。もっと言えば、私は実に幸運だ。60年の私の教育の中で少なくとも15人の本物の学生達がいる"[10, p. 298]と彼は返事した。
ブラァク・マウンツン・コリジでの知性に関するデーンの孤独は二つの休暇(1946–1947の秋学期と1948–1949の学年度)によって和らいだ。彼はその休暇をマァディスンのウィスコンシン大学で過ごした。それにもかかわらず、彼はブラァク・マウンツンへの愛着を保った。実際、大学の公文書に保管されているドキュメントの中にデーンがシカゴから書いた1946年7月13日付の手紙があり、ブラァク・マウンツン・コリジ委員会が近く予定されている彼の休暇を認可したことに感謝している。その中でブラァク・マウンツンでの"熱烈な10月とクリスマス前の暗くて居心地の良い時間を懐かしむだろう"とあり、彼がその夏の後で戻る時に"芸術家又はじゃが芋耕作のための幾何学"のように、彼がすべき"愉快な作業"があるだろうという希望を述べていた。
注目すべきことに、ウィスコンシンで休暇中にデーンは一人の最後の博士課程学生を指導した: 後にオペレィシュンズリサーチのコミュニティで著名となったJoseph Engelだった。デーンに関する未刊行の回顧録[5]の中でEngelは彼を"小さくて虚弱"で、"彼の内なる静けさ、愉快なヒューマ、天真爛漫"によって著名な"観念論的男"と表現する。Engelは或る時に、ウィスコンシン大学のRatskeller[訳注: 地下にあるワイン貯蔵庫のこと]で催された非常に略式の最終審査に続いて、どんなふうにデーンが凍ったメンドータ湖を歩いて渡ってはどうかと言ったことを思い起こしている。彼等がそうしている時にEngelは"風が波打ち際に隣接している小さな氷のバリヤを徐々に作っているのに気付いた"のでデーンに"あの氷を渡る際は気をつけて"と警告したが、デーンはその警告を無視した。"彼は氷を抜けて落ち、腰回りまで水に浸かった"。彼の小さな体が同伴している学生達に"腋の下の彼をさっと掴み、ぐいっと引っ張る"ことを可能にしたが、彼はずぶ濡れで、しかも非常に寒かった。"彼を凍えさせないために"学生達は"彼をきびきびと歩かせて最寄りの建物まで戻った"。その間中デーンは"普段の陽気で慈悲深いやり方で喋り続けた"。
Engelは更に続けて"デーンの親切で思いやりのある指導の許で研究することは喜びのもとであり特典だった。...あの素晴らしい時を振り返ると、私はまだ彼を好きだし、彼の賢明さ、人間性、ヒューマ、思いやりに畏敬する"と言っている。

最終年月
彼等の国外移住の時までに、ゲーデルとデーン両者の最も偉大な研究が彼等の背後にあった。しかし、両者は実質的な研究を発表し続けた。ゲーデルの関心はますます哲学に向き、しばらくの間相対論に関心を持った。1940年代の間彼はラセルの数理論理学とカントールの連続体問題に関するエセイを寄稿し、1949年に3つの論文の最初を発表した。その論文の中で、アインシュタインの重力場方程式の抜本的解の発見を記述した(回転している宇宙群、そのいくつかの中では時間の旅が可能だった)。1951年12月彼は米国数学協会に権威のあるギブズ講義を行い(彼の数学不完全性証明不能及び完全性証明不能定理[訳注: 原文ではincompleteness theoremsですが、これを普通に不完全性定理と訳しますと殆どの日本人は物事を論理的に考えられないので必ず勝ち誇ったかのような馬鹿が出現しますから、あえてこのように訳しました。いいかどうかの判断は皆さんの御自由です]のいくつかの哲学的意味について)、1958年に"有限型の計算可能汎函数"という概念に基づいて算術に対する一貫性証明(元々は1938–1941の時期に獲得していた)の概要を述べた。その後、早期の論文の改訂を別にして、彼はもう何も発表せず、ますます孤独になった。1960年代と1970年代早期の間、彼は幾多の名誉学位と会員資格を贈られ、1975年に米国国家科学賞を受賞した。しかし、その時までに彼の肉体的及び精神的悪化は憂慮すべき段階までに進行していた。1976年に高等研究所を引退し、2年後自己餓死で亡くなった。
デーンに関して言えば、1943年と1944年にAmerican Mathematical Monthlyに一連の5つの歴史的記事を発表した。1947年に彼は短い論文"On the approximation of a function by power series"[訳注: 冪級数による函数近似について]を教育学ジャーナルThe Mathematics Studentに寄稿した。そして1950年、彼の最後の発表"Über Abbildungen geschlossener Flächen auf sich"[訳注: それ自体に閉じた曲面の実例について]がノーゥエイのジャーナルに載った。
死亡記事の回顧録[9]によれば、"戦後、デーンはすぐに独逸人の友人達と連絡を再開した"。そして"元フランクフルトの同僚達のために寛大な救援プログラムを発足させた"。1952年6月彼は名誉教授としてブラァク・マウンツン・コリジを引退したが、"アドバイザとして務め、キャンパスに住む"[12]という例外を続けた。また彼は1953年の冬に"フランクフルト大学に戻る計画を立てた"とHartnerは報告している。だが、それはなかった。と言うのは1952年7月27日にデーンは冠状動脈塞栓症に罹り亡くなったからだ。その前日に、何本かの最愛の木を木こり達に切り倒されることから守るための奮闘努力の結果らしい。彼は森の中に埋葬され、大学の鍋屋で作製された陶器状の銘板により場所がマークされた(彼の妻Toniは100歳以上の人になるまで生き続け、1996年の彼女の死後、彼女の遺灰は同じ場所に埋葬された)。
ブラァク・マウンツン・コリジ自体はデーンの死後、4年しか生き延びなかった。持続経営に対する資金を上げることが出来ず、1956年不意に閉じた。その建物は借金返済のために売却され、区画は再度夏季キャンプ場に逆戻りした。

謝辞
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情報源
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文献[訳注: 面白そうな文献もありますので、一度目を通すことをお勧めします]
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