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COVID-19後の数学

コロナヴァイラスの影響のため、いろいろな催しやスポーツ等の大会が中止または延期になっていることは皆さんも御承知でしょう。そして、数学界も何らかの形でいろいろな影響を受けています。数学に限らず、どんな学問でも国際交流が不可欠です。ところが、コロナヴァイラスが世界中に蔓延している最中の2020年04月03日に京都大学数理解析研究所(略してRIMS)が望月論文の受理を宣言するため記者会見を催しました。望月論文の、あのいわくつきの"系3.12"の証明の合否の議論以上に、何故この時期に論文受理の記者会見をしたのか、非常に違和感もしくは不快感を覚えている人達が海外では少なからずいます。私の海外の知人達も不快だと言ってました。ここで私が海外の知人達に書き送ったものを少し長いですが、世界の(平均的知性を持っている人なら)誰もが読めるように(このことこそがインタネッを使用して発信するという本来のあり方なんです)さらけ出しておきます。なお、英語を解しない、または翻訳エンジンに頼る人は時間の無駄ですから以降読まなくて結構ですのでお引取り下さい(そういう平均的知性を持ち合わせていない人は私の友人共や知人達の中にはいないので)。

While COVID-19 is invading the globe, it's ridiculous for the RIMS to have held a news conference to announce accepting Mochizuki's papers. The RIMS members seem unaware that the maths communities of the world look askance at the RIMS.
Even if the RIMS forcibly goes forward with the publication of the papers, there remains a possibility that the EMS Publishing House will cancel or break a contract with the RIMS. I expect that this faint hope will be the last to stop the RIMS from getting out of control and that the RIMS will come to a stop.
By the by, there're two things as unknown abroad, and many articles don't touch on them: first of all, at the news conference, asked about the referee process in detail, Akio Tamagawa, a member of the PRIMS editorial board, didn't accurately reply to it. Strange as it may sound, he said that you would see the truth after his death, then. Ha? Don't you feel it odd? I wonder what the purpose of holding the news conference was. The media wanted to know why it took the PRIMS eight years to accept the papers.
Next, taking the announcement of the RIMS into account, Fumiharu Kato, the author of a popular enlightening book written in Japanese about IUT, praised Mochizuki for IUT and shamelessly said that IUT deserved to win at least two Nobel Prizes in a Japanese TV programme. I've got nothing else to do but to say that he had the childishness to say such a stupid thing.
Last but not least, you might want to know this: Shinichi Mochizuki aside, Akio Tamagawa is most responsible for accepting the papers. Since Masaki Kashiwara is only a figurehead, it might be impossible to bring him to account. Honestly, I'm not sure why Kashiwara had the foolishness to accompany Tamagawa at the news conference. Tamagawa and the RIMS may have wanted to use Kashiwara to borrow his worldwide fame; Kashiwara, however, is never an expert in arithmetic geometry, and neither is he a member of the PRIMS editorial board. In addition, he looked as if he was only a Tamagawa puppet at the news conference, so he should have left there at once.
And all the anonymous cowardly referees who have to do with the papers are responsible, of course.
That's all I'd like to say.

さて、今回紹介する記事はQuanta Magazine誌に掲載され、コロナヴァイラス後の数学の有り様を論じているMath After COVID-19です。これを選んだ理由は数学に限らず、政治、経済、教育、学問の今後の有り様に目を向ける必要があるからです。日本のミーディヤ(のみならず、何だかんだ言ってもミーディヤは民度を忠実に反映しているので日本国民も)はほぼ内向きの視線しか持てない、もしくは持たないのかも知れませんが、コロナヴァイラスを終息させるためにも世界規模の視線を持つことが重要だからです。
日本は自粛止まりで、いわゆる都市封鎖にはなってませんが、私の海外の知人達の情報、例えばサービヤ(日本語で言えばセルビアのこと)の知人によれば外出許可証(この外出許可証もいろいろなレヴェルがあるそうで)を持ってない人が外出すれば罰金刑を即に宣告されます。その人が陰性であろうがなかろうが関係ありません。国民の生命を第一に考えているからです。
前置きはこれくらいにしてMath After COVID-19の私訳を以下に載せておきます。

[追記: 2021年09月19日]
"ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する"の[追記: 2021年08月12日]の中でも書きましたが、とうとうPRIMSの望月論文特別号が2021年03月にEMS Pressから刊行されました。2020年04月03日のRIMSの論文受理の記者会見の時から論文刊行の時まで、そして今日に至るまで、日本においては何らかの異論や反論が全く出なかったのかと海外の知人達の多くが訝ってました。日本語でごにょごにょと何らかを言っている人がいることは私も知ってますが、そんなものは異論、反論または称賛の表明にもなりません。日本語で発信しても全く無意味であり、世界から見れば日本語というバリヤに守られ、国内向けポゥズ、つまり恰好付けのために喚いているとしか思われないでしょう。訝る海外の知人達の何人かに、私が日本の現状について最近書き送ったものの一部を世界の誰もが平均的知性があれば読めるようにここに載せておきます。
You can argue about IUT, that infamous Corollary 3.12 in particular, till you're blue in the face abroad, but in Japan, it's nonsense to do that, or rather, even risky. Mochizuki's circle would stop at nothing to attain their ends in Japan. Worse yet, most of them are shamelessly bossy in their country, and so, like the obstinate old, they won't listen to your criticism. It cannot be otherwise. At least I've got nothing I could do about it.
Why has making a free argument about IUT been going from bad to worse in Japan? The plausible reason is that the papers about IUT get left alone all over the world except in Japan despite the long-awaited publication. In other words, if you're Japanese, then you feel obliged to conform to the so-called original and glorious theory made in the name of the RIMS, especially Shinichi Mochizuki, all the more for the previously mentioned reason. You might feel as if you lived in a feudal society, but there it is. It may mean that Japan is, in fact, a backward country.
Be that as it may, since Mochizuki and his circle have turned their backs on the world, there's no way that the proof of Corollary 3.12 gets recognized.

[追記: 2021年10月02日]
海外では望月論文の査読者にまともな数学者がいたのか疑念を持つ人が多いので、参考までに私が海外の知人達に書き送ったものを世界の誰もが読めるようにここに載せておきます。
From a lot of reliable information, I cannot but infer that, regarding the publication of Mochizuki's papers, an unspoken understanding existed inside the PRIMS editorial board long ago, where Shinichi Mochizuki was the chief editor. Not only I but anyone else also takes this inference for granted, though.
It's very doubtful the PRIMS requested conscientious mathematicians to be referees. At this point, I'd like to make one thing clear: Mochizuki's circle, namely his followers and disciples, who look like suckerfishes for him, can't be referees in terms of referee neutrality. Most Japanese need to understand the meaning of it. Those who don't see this meaning may well be weak in the head.
I haven't heard of such a conscientious mathematician who can go over Mochizuki's papers with a fine-tooth comb without missing a beat in Japan. Abroad, most first-rate mathematicians were sceptical about those papers from the outset. Or rather, you'd rather quit being a mathematician than recognize that proof of Corollary 3.12.
In the end, virtually no one can be a referee; nonetheless, the PRIMS didn't reject those papers. Worse yet, the PRIMS not only accepted those papers but officially published them as well. It's only natural that many a mathematician should harshly criticize the PRIMS for blowing its own trumpet.
Taking the status quo into account, unfortunately, I cannot but guess that the referees for those papers were from Mochizuki's circle, abusing the referees' anonymity. It's no use, however, getting upset with such anonymous cowardly referees because they may have only followed someone's command.
To rub it in, most Japanese had better ask themselves severely what the purpose of a referee's anonymity is. 
My first inference above isn't simply a guess.

COVID-19後の数学

現代数学は共同研究と旅行に依存する。COVID-19がそれをますます困難にしている。

2020年04月28日 Kevin Hartnett

02月22日(今では一生涯昔に思える)に数学者Priyam Patelはシャルル・ド・ゴール国際空港でソゥツレィクシティへ帰る乗継便を待っていた。彼女はCOVID-19感染に対する予防のために手を洗えと旅行者達に促す標識に気が付いた。

"'そんな大げさなことなのか'と思ったことを憶えている"と彼女は言った。

ユーター大学の教授であるPatelは南独逸のシュヴァルツヴァルト[訳注: "黒い森"を意味します]にあるオーバーヴォルファハ数学研究所での修行からの戻りだった。一週間前の間、彼女は近接した宿舎で生活し、50人の数学者達と家族スタイルの食事を共にした。私もそこにいたが、そのことについては"Mathematics as a Team Sport"と題して最近のQuanta誌に書いた。続行する期間に一箇所に集まることが如何に現代数学研究の本質的な部分であるか分かった。そんな経験はアイディアを互いに弾ませ、新しい共同研究を始める機会を数学者達に供給する。それらは研究を活性化する。

今、COVID-19の時期において、それらのことはもはや起きていない。

病気はオーバーヴォルファハで其の週の話題だった。オーバーヴォルファハでの其の週は低次元トポロジ、すなわち3次元と4次元図形の研究が専念された。ヴァイラスは世界の大部分でまだ生活をひっくり返してはなかった。今から回顧すれば、独逸の森での私達の時間は嵐の前の静けさのように感じる。Patelと彼女の同僚達が家に戻るとすぐに、COVID-19は全世界の問題に変化した。そして、感染拡大につれて近く予定されている数学コンフレンスの中止が始まった。最初のもの、そしてもう一つ別のもの、それから近い将来のそれらすべてが中止になった。

"そんなコンフレンスが12ヶ月の間に走らないことがはっきりしている"とレーゲンスブルク大学教授であり、オーバーヴォルファハでの其の週の幹事達の一人であるStefan Friedlは言った。数学共同研究の確立されたやり方が壊れた。

旅行の不足と増大する社会的孤立が数学にどのように影響すると考えているか調べるため、独逸で会った複数の数学者達に電話しようと私は決めた。私も彼等がどのようにしているのか(幸い出席者達の中の誰も陽性ではなかったけれども)知りたかった。彼等は他の皆と同様に劇的に変化した世界の中を多くの方法で何とか切り抜けようと頑張っていることが分かった。

"私は仕事面で絶対的にやらねばならないことを言いながら毎日を始めようと努力している。出来ることはせいぜい予定していること以下だからだ"とワークショプに参加したテンポ大学の数学者David Futerは言った。

私が話した誰もが数学の新成果を得てはなかった。彼等はニューズにのめり込み、家で子供達にかき回され、オンラインZoom会合に引っ張られた。

"今や私の時間は小さなZoomのかたまりに分けられているように感じる"とュエィオ大学数学部門の職を持ち、私が独逸で会った数学者達の一人であるYair Minskyは言った。

もう一つの問題は本人達自らの会合をせずに共同研究を進める方法を理解しようとすることだった。マディスンにあるウィスコンシン大学のAutumn Kentが独逸を去った時、彼女はオーバーヴォルファハで始めていた研究を続けるため春にュエィオのMinskyを訪問するつもりだった。

"その時の計画は'まぁ私は有給研究休暇中であり、翌月には数日の間ニューヘイヴンにぱっと現れるかも知れない'だった"と彼女は言った。今や彼女は隣人の家にぱっと現れることが出来ない。

Patelも旅行が彼女の近く予定されている研究に大きな位置を占めるだろうと思っていた。オーバーヴォルファハで彼女は仏蘭西高等科学研究所[訳注: IHÉS]のKatie Vokesと新しい共同研究の一歩を進めていた。シャルル・ド・ゴール国際空港で乗り継いだ時、彼女はすぐに互いと再会することを当たり前だと思っていた。

"私はもう一つ別のコンフレンスでKatieとおそらく再会するだろうと知っていたので、彼女と私はいつ話をするか確固とした計画を立てなかった"とPatelは言った。今や彼女達は未だ別の会合を計画していない。

もちろん、これらの集会はオンライン化出来る。私がFriedlと遅れを取り戻した日に、彼は私を仮想"喫茶室"に招待した。仮想"喫茶室"はレーゲンスブルク大学の同僚達が毎午後に集まるための場所として彼がZoom上で始めていた。私は飛び込み、オーバーヴォルファハから知っている数人の人達を見た。Zoomのディスプレイに各自が各々自身の小さなボクスに居住していた。Friedlは身につけようとしている仮想白色板の使用を私に見せるためオンラインのままでいるよう頼んだ。少数の図形を描いた後に"八の字型結び目の有名な早描きコンテストが出来る"と彼は冗談を言った。

喫茶室は素晴らしく、他部門も仮想社交活動を使用していることを知ったが、オーバーヴォルファハで数学者達が共有した同志間の信頼と思いやりとは著しい差異があった。そして、私が観察したように、そんな本人自らの信頼は多くの数学的発見を促す。

"その日のある時点で貴方がたは外出し、取り止めのない考えを持つかも知れない。そして貴方がたは一緒だから、会話を始められる。事柄はもっと有機的に発生する"とKentは言った。時間管理された一時間に及ぶオンライン会議はまったく其の活動性を再製しない。

旅行と差し向かいの時間の不足は特に今夏に明白となる。通常の夏に数学者達は世界中のコンフレンスに旅行して、マイリジサーヴィスのマイル数を上げる。彼等がそれらの会合で持つ会話は一年の残りの期間で追求する研究プロジェクトをよく生成する。

"私達のコミュニティは天啓と接続性に対する、これらの時期に依存している。それすべてが炎上してしまうのが悲しい"とPatelは言った。

だが、困難にもかかわらず、数学は質実剛健な学問であり、欠乏の時期をうまい具合に適応させる。"私達は筆記用紙、またはiPadとコンピュータより以上のものを必要としない。数学は人がやる他の研究分野よりも少し強健なのかも知れない"とFuterは言った。なるほど、生命文化を担当する生物学者、繊細な機械を要する物理学者が生産力を維持したくても、今の選択肢は殆どない。

数学の強健性の部分は順応するために其の分野の能力から来ているのかも知れない。結局、ティームベィス数学の現在の方式は比較的新しい現象だ。

"数学はもっと個人的活動であったものだ。翌年かそこらで、私達は単独でやるプロジェクトに回帰するだろう"とMinskyは言った。

どのようにCOVID-19が新しい数学成果の流れに影響するかを言うことは未だ早過ぎる。しかし、交流に重きを置く分野にとって、変化は不可避である。

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