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フリーマン・ダイソンとの議論

プリンストン高等研究所名誉教授のフリーマン・ジョン・ダイソン教授が2020年02月28日に死去されたことは皆さんも御存知でしょう。享年96歳でした。ちょっと遅いですが、ここに謹んで哀悼の意を表します。
02月中旬頃から世界的にもコロナヴァイラス流行の兆しが見えていたので、ダイソン教授の死去を聞いた時、私は一瞬コロナヴァイラスが死因なのかと思いましたが、そうではなかったので変な意味ではなくちょっと安堵しました。96歳というご高齢なので安らかに世を去られたに違いありません。
ところでダイソン教授ほどの大科学者が博士号を取得していないことも有名な話です。だから私もダイソン博士とは言えないのです。いくら大科学者でも博士称号の申請をしない限り、世界中の大学が喜んで博士称号を贈りたくても出来ないのです。但し栄誉を称える意味での、いわゆる名誉博士号は20を下らない数を受けています。ここで言う博士称号は実際の博士号を意味します。何故ダイソン教授が博士称号を拒むのかも、今回紹介する記事の中でちょっとだけ触れられております。
こういうことを考えると、個人ブログやtwitter等のSNSのプロファイル欄でPh.Dや学位を権威の印籠のように振りかざして誇示する馬鹿連中のレヴェルの低さに愕然とします。と言うか、その滑稽さに腸が捻じれる程に笑えます。本当はダイソン教授ほどの実力があればプロファイル欄に何も記入する必要はないのです。実力の差はいかんともしがたいので仕方ありませんが、せめて日本国内向けポゥズ又は格好つけを止めて、世界規模の視線を持ってほしいと思います。
さて前置きはこれくらいにして、今回紹介する記事はEMS Newsletterの03月号に掲載されたA Discussion with Freeman Dyson(PDF)です。その私訳を以下に載せておきます。

[追記: 2020年05月12日]
ダイソン教授が少年期に読んで感銘を受けたというEric BellのMen of Mathematicsについては"アーベル賞受賞者ジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニアへのインタビュー"の[追記: 2015年12月10日]を見て下さい。

フリーマン・ダイソンとの議論
2020年03月 Michael Th. Rassias チューリヒ大学、瑞西

注意: この記事が印刷された丁度数日前に、フリーマン・ダイソンが2020年02月28日に死去したことは私達を完全に悲しませた。下記の記事は元々の形で発表されている。

フリーマン・ジョン・ダイソンは英国バークシャのクロウソーンで1923年に生まれ、米国の世界的に有名な理論物理学者、数学者であり、学問的高水準は科学の歴史的人物のそれと同じである。彼の経歴の当初、第二次世界大戦の間は英国空軍において民間科学者として働いた。1945年に彼はケィンブリジ大学から数学の学士を取得した。1945年から1946年までインペリアル・コリジで講師職に就き、1947年に大学院生としてコーネル大学に行き、ハンス・ベーテやリチャード・ファインマンと研究した。続いて、彼は1948年から1949年までプリンストン高等研究所の研究員、1949年から1951年までバーミンガム大学の研究員だった。そして彼はコーネル大学で教授となり、そこで1953年まで残った。驚いたことに彼は学位を持ってなかったし、実際学位を取得しなかった(そのトピクも以下で彼と話し合われている)。1953年にプリンストン高等研究所の常任教授となり、そこで彼の残りの経歴を通して残った。
フリーマン・ジョン・ダイソンは数学と物理学の広大な分野においていろいろな計り知れない貢献をした。その中にはリチャード・ファインマン、ジュリアン・シュウィンガ、朝永振一郎によって創始された3つの量子電磁力学の別形式の統合がある。ファインマン理論に関する彼の研究と講義は、その時代の物理学者達にとってそれを理解する際に不可欠の役割を果たし、これがファインマンの研究を学界コミュニティに認められることを助けた。この議題に関する彼の研究はジュリアス・ロバーツ・オペンハイマを感銘させ、プリンストン高等研究所の常任教授職を申し込まれるという影響を持った。
多くの種々異なる重要なプロジェクトにおける彼の参加の中でも例えば、彼は1958年のエデゥワーヅ・テラーが率いる、医療アイソトゥプ生産のために病院と大学において世界中で使用される小さくて本当に安全な原子炉の設計ティームの一員だった。
ダイソンの情熱は必ず、どの数学が有用に応用出来るかを通して問題を探ることにある。彼の科学的関心の範囲と彼の終り無き探究に対する意欲は、数学、物理学、それらの深い繋がりにおける問題のみならず、生物学のような他分野における問題も調べることに彼を導いた。
彼の経歴の中で、うんざりする程多くの賞と勲章が授けられた。少しばかり列挙すると、王立協会会員(1952年)、ローレンツ賞(1966年)、ウルフ賞(1981年)、エンリコ・フェルミ賞(1993年)、テンプルトン賞(2000年)、アンリ・ポアンカレ賞(2012年)。
私はプリンストン高等研究所の学際研究プログラムの客員研究員として、科学のそんな大黒柱達に囲まれるというおこがましくも大変な栄誉を受けたことがあり、2015年あたりに初めてフリーマン・ダイソンに会うという大恩典があった。それ以来、彼の英知を吸収することを願い、彼と一緒に時間を過ごす機会を持っている。彼の業績に鼓舞され、かつ彼の人生の数々の興味深い出来事の美しい話にいつも魅了されたので、EMS Newsletterの読者達と以下の話し合いを共有するというアイディアが起きた。

貴方の学問的経歴は純粋数学者として始まり、しばらくはダヴェンポートと研究し、中でも例えば4次元のミンコウスキ予想をいろいろな数学分野の手法を使って証明しました。後に物理学に転向しました。どの年齢で数学者になると決めたのですか?
私が講師としてインペリアル・コリジに就職した1945年から1946年の間にダヴェンポートに会った。彼はユニヴァースティ・コリジにいたから、私は公式的には彼の学生ではなかった。彼は気前よく私に取組むべき問題をいくつか与え、十分に張り合いのある難しさだったが、不可能な難しさではなかった。一つ目はすべての代数的数は有理数(p/q)にqの(2+ε)乗を超えない精度で近づくというジーゲル予想だった。私はそれを証明出来ず、後に予想はKlaus Rothによって証明された。二つ目は4次元のミンコウスキ予想だったが、私はそれの証明に成功し、ケィンブリジのチュリニティ・コリジの特別研究員のための論文として使用した。私は相変わらずダヴェンポートの長年の友人だった。
職業として純粋数学の選択は主にEric BellのMen of Mathematicsを13歳で読んだ結果だと思う。Bellの本が1937年に新しく出版され、それがウィンチェスタ・コリジの高校生賞として私に与えられたから2重の意味で幸運だった。本は数学的伝記の集まりで、数学者達を生身の人間として実物大に持って来ており、彼等のアイディアを実物大に持って来るために技術的なことを十分詳しく彼等の研究を説明している。

後に何が貴方を物理学へ転向させたのですか?
物理学への移動は私が1946年にチュリニティ・コリジへ移った時に起きた。そこで私はNicholas Kemmerに会った。彼は世界的理論物理学者であり、献身的な教師でもあった。彼は私に物理学者になるために必要なことの殆どを教えた。物理学の実際的問題に対して私の19世紀数学が役立つことを分かった一方で、当時純粋数学を支配していたもっと抽象的なアイディアについては無知なままだった。数論の小さな世界に居続けるよりも原子核と素粒子の謎を探究している連中に加わる方がもっと興奮させるであろう。物理学者としての私が米国を訪れるための資金を見つけることに困難は無かった。米国では素粒子物理学革命が既に真っ盛りだった。

例えばお父様のような音楽家よりも科学者になると貴方に決めさせた程度に永続的な衝撃を持った特定の論文、本、または定理でさえ、貴方が巡り会ったものがあったのですか?
私の職業の選択にもっとも影響を与えた本はMen of Mathematicsだった。私の父は作曲家、指揮者であり、楽団理事だった。彼は1938年に王立音楽大学の学長になった。彼は賢明にも私が音楽的才能を持ってないことを分かり、決して私に音楽を押し付けなかった。彼はいつも科学での私自身の道に従うことに私を勇気づけた。

貴方は博士号を取得するための博士プログラムを守らなかった。この議題において、規範から随分と異なる興味深い見解も貴方は持っています。
学問的経歴への入場券として博士号が必要とされない時に、英国で一度に教育を受けたことは幸運だった。後年、ますます硬直した博士号システムに私はいつも反対した。それは19世紀の少数の独逸人学生達のために設計され、彼等の要求に上手く合致した。21世紀においては大人数の種々異なる学生達の要求に全く合致しない。特に女性達に有害である。彼女達は出産の生物学的時計を処理しなければならない一方で、硬直して時間的に長い博士号システムは彼女達のベストな年月を使い果たしている。才能ある彼女達が学問的経歴から手を引く主要な理由の一つだ。富裕又は専門職階級の家庭にたまたま属してない、すべての性差の若者達にとっても有害だ。現代社会における富と貧の間の不平等を増加させ、継続させる効果を持っている。

貴方に最も影響を与えた数学者はいますか? お互いの共同研究、または交流、または彼/彼女の研究を勉強することさえも、それらのいずれかを通して? 貴方が大昔にそんなケィスとしてエイブラム・ベシコヴィチに言及していたことを私は憶えています。彼はたまたま貴方の親友でもありました。
私に最も影響を与えたのはベシコヴィチだった。1941年に17歳でチュリニティ・コリジに到着したことは幸運だった。その時、進歩的な学生達は殆どいなかった。古くて有名な数学者ハーディ、リトゥウヅ、ベシコヴィチは彼等の時間と注意を、そこにいた少数の進歩的学生達に惜しみなく与えた。私はすぐに有名な数学者達の個人的友人になったが、特にベシコヴィチと。彼は玉突き台の所有者だった。私は専らベシコヴィチと玉突きをしたが、ハーディともやった。ベシコヴィチは私に取組むべき難しい数学問題を与え、ケィンブリジ周辺の長い散歩に私を連れ出した。その時、露西亜語だけが話された。

私は解析学及び解析的数論学者ですので、貴方が大昔に初めて私にG. H. ハーディをよく知っており、ケィンブリジで彼と玉突きさえして時間を過ごしたと話した時、私は夢中になりました。彼は変わった性格で有名なので、彼と過ごした時間からいくつかの思い出を共有していただけますか?
小さなティブル周辺に座っている4人の学生達のグループに彼は函数論と解析学の素晴らしい講義をした。彼は講義をすごく注意を払って準備し、ちょうど時間が終わる時に論述が最高潮に来た。彼が知っていた有名数学者達の個人的生活と癖に関するストーリを入れた。彼は早くしゃべり、詳細が豊富なので、私はすべての言葉を聞かなければならなかった。講義の繰返し無しで、彼は週に3時間話した。ちょうど今日の博士号システムがやっているように、当時のケィンブリジを支配したTripos試験システム[訳注: 学士優劣の選別のために学部学生が受けなければならない優等試験のこと]に彼は猛反対だった。私が博士号の廃止に失敗したように、彼もTriposの廃止に失敗した。

私の記憶が正しければ、ラマヌジャンの死は部分的にハーディに責任があると貴方も考えています?
ラマヌジャンの病気の話は彼の死後明らかになったに過ぎない。はっきりしていることは、彼が英国に来る前に印度で罹患したアミーバ肝炎で死んだことだ。アミーバ肝炎は有名な病気であり、そのことは熱帯医学の専門医の誰もが認めたであろう。当時でも効き目のある化学解毒剤を使用して既に治療出来る病気だった。ラマヌジャンが英国で病気になった時、彼の安寧に対してハーディは責任があった。ハーディは熱帯医学の専門家に彼を診せなかった。ケィンブリジの地元の医者は彼の病気を肺結核と誤診し、標準的な肺結核治療を行ったが、明らかに効き目が無かった。ハーディはラマヌジャンを長年の慢性的な病気だと見たが、問題を真剣には捉えてないようだった。彼はラマヌジャンを輝かしい頭脳、そして活発な共同研究者として楽しんだが、人間としての彼に注意を払わなかった。それは容赦ない意見だが、証拠によりもっともな理由があると私は考える。

ヒューモラスな雰囲気の話題に移ります。ラマヌジャンの場合のように、睡眠中に重要な問題に対する解法を貴方に手渡す至高の存在がいて、一度限りそんな夢を見られるとすれば、どの問題に対する解法を見たいですか?
リーマン仮説または微細構造定数のような深刻な数学的または物理学的問題の解法を与える夢を持つことに魅力を感じない。それは余りにも浅薄であろう。自然は私達の想像力の試験として、これらの問題を与え、それらが安易に解かれることは自然の不思議と美の損失であろう。だから私は大昔に失われている重要な出来事を扱う歴史的問題を選ぶだろう。地球上にどこでいつ最初の生命が誕生したのか? どこでいつ最初の人類言語が出現したのか?

貴方がチューリヒで過ごした短期間について。どこで貴方はヴォルフガング・パウリも知ったのですか? 彼との交流について少し語っていただけませんか?
パウリと私がETH[訳注: 瑞西連邦工科大学チューリヒ校]理論物理学研究所でたった二人の正式訪問者だった時の1951年の夏にチューリヒで過ごしたことは幸運だった。パウリは昼食後の散歩を好み、よく私を誘った。彼は物理学から精神分析学までのすべての種類の問題について語ることが好きだったし、私も聞くのが好きだった。多くの他のトピクの中でも例えば、量子電磁力学における素粒子間の相互作用を記述する摂動級数が収束するか又は発散するかの疑問を議論した。級数が収束するなら、はっきり定義された数学オブジェクトとして理論が存在していることを証明する。級数が発散するなら、理論が曖昧に定義されており、数学的に存在しないことを証明する。当時私は級数が収束すると信じ、パウリは発散すると信じた。私達の会話の結果として、私はパウリが正しく、私が間違っていたという簡単な証明を見つけた。歓迎しない真実に私を無理矢理直面させたことで私はパウリに深く感謝した。

パウリが量子物理学者だったから、これは私にもう一つ別のトピクを思い出させます。量子コンピュータの創造の可能性についての貴方の見解は何であり、並びに現行暗号システム破りへの量子コンピュータの可能な使用に反対する試みの中における量子暗号のような分野の到来についても貴方の見解は何でしょうか?
量子コンピュータはそれらに対する正しい名前ではない。正しい名前は量子サブルーティンだ。それらは、古典的オブジェクトが出来るよりも速く情報を処理する量子的振舞いを有する物理オブジェクトだ。それらは入出力及び人の介在によるやりとりを与える古典的コンピュータシステムに接続されなければならない。量子サブルーティンは理論的に力強く、おそらく実践的に役立つ。それらの能力に制限を設けられる以前に、大量のエンジニヤリングをまだ必要とする。重要な応用の一つは暗号だ。量子暗号システムは古典的暗号システムよりも理論的にもっと安全だろう。実世界において、暗号システムは利用者達の日々の操作の中のヒューマンエラを活用することで通常破られる。ヒューマンエラはそれらが古典的システムにあるのと同様に量子システムにも行き渡る。暗号の実践的使用の中にヒューマンエラが伴う限り、どのシステムも不正侵入者に対して安全ではないだろう。

昔の私達の議論の中で貴方も知っている重要な物理学者エデゥワーヅ・テラーに関連して、貴方が私に言った面白おかしかったことは、テラーと一緒にいるためには子供達と一緒に行動する方法を知っていなければならないということだった。それは何故ですか?
エデゥワーヅ・テラーは私と一緒にTRIGAと呼ばれる原子炉について研究した。TRIGAは他の原子炉よりもずっと安全だった。テラーはアイディアの豊富な蓄えを持つ才気あふれる科学者だった。もし誰かが思い切って彼に反対すると、彼は5歳児のように癇癪を起す気難しくて高慢ちきな人でもあった。だから私達の共同研究は非常に上手く行った。毎日エデゥワーヅは新しい馬鹿げたアイディアを提案するが、私が彼のアイディアが動かない理由を説明して彼は癇癪を起したものだ。そして、翌日には其のアイディアが忘れられ、新しい馬鹿げたアイディアが提案された。このようにして、私達は実際に動く設計に収束した。私は家で5歳児を扱う多くの経験をしていたので共同研究は上手く行った。その原子炉は商業的に成功を修め、私達は75の原子炉を売り上げた。それらのいくつかは60年後もまだ動いている。

貴方の人生で会ったことのある人物で、貴方を最もびっくりさせた人は誰ですか?
あいにく、私を最も感心させた2人の人物は両方とも科学者だが、リチャード・ファインマンとスティーヴン・ホーキングだった。両者は物理学者だった。これはおそらく偶然ではない。物理学が新しい実験、理論、革命的発見の目白押しで最も才気あふれる若者達の大きな一部を惹きつけていた時に、彼等は続けざまに生きていた。70年後の今、物理学が停滞している一方で、天文学と生物学が速度増加している。今、私は物理学者と話すよりもずっと天文学者と生物学者と話している。

"物理学"という言葉を考えている時に、心に来る最初の事柄は何ですか?
今日の物理学を思う時、私はLarge Hadron Colliderのような巨大装置を考える。それを建設するのに10億ドルかかり、10年に一つの実験しか出来ない。また私は試験されない流行の理論を思う。試験されないのはそれらが検証可能な予想を作っていないからだ。現在私が若ければ、仕事の進路として物理学を選ばないだろう。

例えば、ここ100年の間、数学は多くの異なる分野の出現、様々な手法の発見、外見上は異なる分野の連結があり、偉大な発展があると人は言うかも知れません。その点に関して数学の未来をどのように見ていますか? 例えば、学際研究が将来の議題になるかも知れないと考えていますか?
数学の最も美しい特徴はその予測不能性だ。進歩は大飛躍に来て、時には新しいアイディアで全分野を統合し、時には新しい問題で全分野を多様化する。未来について私が確かに知っている唯一のことは次の大飛躍は驚きだろうということだ。それがどのように起きるか推測しようとは思わない。

広大な分野からの多くの科学者達が、いわゆる"人工知能制御問題"に関連して人工知能(AI)の進歩に起こり得る将来結果について、様々な見解、意見、更には恐怖さえも述べています。新しい時代を決定づけた科学におけるパラダイムシフトを目撃した人として、人間生活を全く変えてしまうかも知れないAIの起こり得る重要な進歩に関する貴方の見解は何でしょうか?
人工知能は広大な分野だから、私はその将来に対する展望をまとめることが出来ない。最もはっきりした見解は1950年に出版されたノーバート・ウィーナによる本The Human Use of Human Beingsの中で発表されていた。ウィーナはAIの効果の良悪に関する彼の見解の中で見事な洞察を披露した。良い効果から人類に対する利益を、そして邪悪に対する治療を私達の社会が見出そうとするが失敗することを彼は予言した。70年後、機械と張り合っている人類は奴隷になっているだろうという彼の判断が正しいと証明されている。彼の救済策は如何なる規模の問題にも適用されてない。私はウィーナが1950年にやった以上に問題を定義することが出来ない。

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