スキップしてメイン コンテンツに移動

ツォルンの補題の使い方

私の友人共の一人が代数構造の講義を受け持った時に学生から訊ねられたことがある愚かな質問の一つが単位イデアルが素イデアルからも極大イデアルからも除外されている理由でした。そんなことはちょっと考えれば分かりそうなもんだがなぁと友人は嘆いてました。そこで、これに関して少しばかり解説しておきます。
可換環Rの単位イデアルと言うのはRそのもののことです。念のため素イデアルの定義を述べると、RのイデアルI(≠R)は、任意のa、b∊Rに対してab∊Iなら、a∊Iまたはb∊Iが成立する時、素イデアルです。もし、IRの条件を無視するならRも確かに素イデアルです。ですが、そもそも可換環Rの話をしているのだから、前述の素イデアルの定義にそのまま当てはめると"任意のa、b∊Rに対してab∊Rなら、a∊Rまたはb∊Rが成立する"は当たり前の話であり、何も言ってないようなものです。それでもRを素イデアルと見なすことに問題はなく、せいぜい素イデアルに関するいろいろな命題を述べる時にいちいち"単位イデアルRを除く"とかの但し書きが増えるだけでしょう。感染症対策みたいに最初の水際で遮断するか、後で症例が見つかるたびに隔離するかの違いだけです(どちらが面倒なのかは明らかで、水際で遮断出来るのがいいに決まってます)。
極大イデアルに関しても同様ですが、もっと深刻です。単位イデアルを極大イデアルと見なすと、いわゆる零環を体として認めるのかという話になります。単位要素を持つ可換環RのイデアルIを法とする剰余環R/Iが体になる必要十分条件はIが極大イデアルであることは皆さんも御存知でしょう。ここでIRならR/R={R}となり、{R}は零環{0}と同型なので、体の一般的定義の条件のうちの一つ、"体は零要素と異なる要素を持つ"ことに反します。そもそも、この条件は零環を体として認めたくないから体の定義に入っているのです。
以上で単位イデアルが素イデアルからも極大イデアルからも除外されている理由が分かったでしょう。二度とこんな下らない質問をしないことです。

さて話は変わって、今回紹介する記事はウィリヤム・ティモシ・ガゥワーズ卿のweblogからHow to use Zorn's lemmaを紹介します。この記事はかなり昔のもので、私も最初に読んだのはThe Princeton Companion to Mathematics(略称PCM)を購入した直後ですから2010年頃です。ツォルンの補題については昨年の夏、その歴史を'"ツォルンの補題"の起源'で紹介しましたが、その時にガゥワーズ卿のHow to use Zorn's lemmaも失礼ながら次いでに再読して改めて感銘を受けました。つまり、ガゥワーズ卿のような超一流プロがどのようにツォルンの補題をうまく使うかを勉強させていただきました。そして、ガゥワーズ卿の書く英文の端正さにも改めて魅了されました(日本人の私が言うのもおかしいですが、本当に見事です。こういう感触を受けるのはDirac博士のThe Principles of Quantum Mechanicsを始めて読んだ時以来です)。
2021年明け早々にも紹介したかったのですが、例のコロナヴァイラスが下火になるかと思いきや、逆に日本のみならず世界中に猛威を振るっているのを見て、そして多くの方々が苦しんでいるのにツォルンの補題どころじゃないだろうと控えていました。しかしながら、友人共の一人から学生達の中にはツォルンの補題の実践的使用に関心を持っている珍奇な人もいると聞き、ガゥワーズ卿の記事の私訳を掲載する気になりました。その私訳を以下に載せておきます。

[追記: 2021年03月26日]
ちょっと誤解を受けそうなので釈明させて下さい。
単位イデアルを素イデアルから除外してない著書(例えばZariski-SamuelのCommutative Algebra)も勿論あります。ただ、上述の友人は但し書きや断わりを入れるのが面倒なので、始めから除外しているのに過ぎません。要はその真意を汲み取れない学生の思慮の浅さを嘆いていたのです。
それから、以下の私訳では原文通り忠実に"部分順序集合"と訳しましたが、私個人はこの用語を好きでなく、単に"順序集合"と呼んでいます。理由は"部分順序集合"と"順序部分集合"を一瞬でも錯覚しそうな気がするからです。それに、"全順序集合"という用語がせっかくあるのだから、"順序集合"だけでいいでしょう。
では、順序集合の部分集合は何と呼ぶのか? 部分集合は部分集合ですよ。親の順序を引き継ぐかどうかは子の勝手であり、あずかり知らぬことです。引き継がせたいのであれば、元の順序を持つ部分集合であると予め書いておけばいいだけです。ですから"部分順序集合"や"順序部分集合"を廃止すべきです。
同趣旨で、"全微分"という意味不明な用語も廃止すべきです。せっかく"偏微分"という用語があるのだから、"微分"だけでいいでしょう。

ツォルンの補題の使い方
2008年08月12日 ウィリヤム・ティモシ・ガゥワーズ

私はTricks Wikiのための実例記事のシリーズを続けている(そんな記事の一般的なクラースを表すために意図されたものを付加して)。講義コース(少なくとも私が学部生の時に出席したものを拠り所にすれば)においては役立つ定理、補題、命題等を述べることが(それらが何故役立つかを説明するという非常な面倒をせずに)一般的慣習だ。もちろん、この更なる深い理解を拾い上げる多くの方法がある。例えば、どこでどのようにそんな結果が使用されるのか注意すること、慎重に設定された練習問題をすること、等。それにもかかわらず、特別な結果が適用され得ることを示す気配に人々が認識することを手助けするためにもっと多くのことがなされているのがしばしばである。

この記事は、特に数学専攻の学士課程における早期の学部生向けであるが、私自身が学部生の時に持った経験によって呼び起こされている。挑戦的な問題群(Béla Bollobásによって設問された)の一枚をその時に受けたが、それらの問題の一つが完全に私を困らせた(それらの問題の多くが難問だったと思うが、この一つが私の頭に残っている)。問題が何だったのか正確には思い出せないが、実数体RからRへの加法的函数が必ず線型であるかどうかを決定する問題と同様の難しさを持ったものだった。私の指導官がツォルンの補題を使って問題を解いたが、そのことを私達は講義中に告げられた。ツォルンの補題が役立つかも知れぬことすらちっとも私には思いつかなかったから、私はただ不信の目でそこに座っていた。その時と現在の間の或る時点で私はツォルンの補題を"理解"した。そして今、ツォルンの補題が必要とされる所を見ることが容易だと感じている。この記事は他の人々のために、その過程を速めることを意図されている。

定理を適用する方法を自分で考え出すことがもっと良いと人は論じるかも知れない。それに関して私は2つの意見を持つ。多分、何らかの個別の定理に対して、その定理が適用され得る状況を人が自身で考え出すのであれば、他の誰かに言われるよりも良い。しかし、それを考え出すことはかなりの時間と努力を要する可能性があり、だから助けを受けるのであれば、人はもっと多くの定理を適用する方法を学べるかも知れず、自身の分野と異なる数学分野の定理を学べるかも知れない。結局、様々な重要数学原理を使う方法に関する一連の記事が有用なリソースとなり、私が不確実だと思う多くの数学分野を私がより良く理解するのを助けなければならないものになって欲しいと思う。従って、ここにツォルンの補題が最初の企てである。今までのところ、私は2つの適用の実例しか持っていない。或る段階で、もっと複数個を持つことが望ましいだろう。

題目:  ツォルンの補題の使い方

手っ取り早い説明: 複数段階で数学オブジェクッを構築しており、(i) 無限個に多くの段階の後でさえも構築が終了しない、(ii) 構築続けることを止めるものは無いようだ、と分かるならばツォルンの補題が助けられる可能性が十分にある。

前提知識: ヴェクタ空間のような学部数学の基礎概念。

実例 1: RからRへの函数fは、すべてのxyRに対してf(xy)=f(x)+f(y)ならば加法的と呼ばれる。明らかにf(x)=λxの形の任意の函数は加法的である。他に加法的函数はあるのか?

簡単な帰納的結論はf(1)=λならば、すべての自然数nに対してf(n)=λnであることを示している(これはf(n+1)=f(n)+1だから)。またf(0)=0を証明することも簡単だ(例えばf(0)+f(0)=f(0)だから)。そして、このことからf(n)+f(-n)=0が成立し、すべての自然数nに対してf(-n)=-λnである。もう一つの帰納的結論は、すべての実数xとすべての自然数mに対してf(mx)=mf(x)であることを示している。従って、mf(x/m)=f(x)、このことから、すべての実数xとすべての自然数mに対してf(x/m)=f(x)/mが成立する。これらの観察から、f(1)=λならば、すべての有理数xに対してf(x)=λxが成立する。

この段階でf(x)の他の値に関する何かを引き出すことは困難なように思える。実は、f(\sqrt{2})を私達が好きなように定義することへの大きな妨げは無いようだ。f(\sqrt{2})をμと設定するなら、前の段落の議論と同様な議論が、すべての有理数xに対してf(x\sqrt{2})=μxであることを示している。しかし、x\sqrt{2}という形式の数はx=0の場合を除いて有理数ではない。だから、これは私達が既にしている選択と矛盾しない。もちろん、無理矢理f(xy\sqrt{2})をλxμyと設定するだろうが、それをすることに問題は無い。

何故これが問題ではないかについて、もう少しはっきりさせよう。それはxy\sqrt{2}=x'+y'\sqrt{2}ならばxx'かつy=y'だからである(そうでなければ\sqrt{2}=(x'-x)/(y-y')となり、それは有理数である)。このことは何が起きているのか後でもっとはっきりと分かるだろう。

これまでの議論は、加法的であるがf(x)=λxの形ではない函数がなければならないことを強く示唆している。すべての実数が有理数xyに関するxy\sqrt{2}の形式であるはずがないので、私達はまだその加法的函数を定義していない。しかし、部分的に定義された加法的非線型函数を造っており、使用している方法は非常に柔軟である。実のところ、もう一つの数、例えばπを選ぶなら(そこではまだfは定義されてない)、任意に選ばれた或るνに対してf(xy\sqrt{2}+zπ)=λxμy+νzと設定することにより、xyzQに関するxy\sqrt{2}+zπという形式のすべての数へ定義を拡張出来る。

もっと一般的に、t1=1であり、どのtnt1t2、...、tn-1の有理線型結合ではないという概念を持つ数列t1t2、...を構築出来るであろう。そしてその時に、任意に選ばれたλiに対してf(ti)=λiを定義出来るであろう。これは有理数のすべての数列x1、...、xnに対してf(t1x1+…+tnxn)=λ1x1+…+λnxnを告げている。

このように無限列を構築している時でさえ悩みの種は、それらの数の有理線型結合の集合は可算であるので、実数全体に対するfをまだ定義していないことだ。しかし、tiの有理線型結合でない新しい実数s1を選び、f(s1)に対する値を選べるのだから、まだ私達の函数の構築を続けられる。そして、それからtis1の有理線型結合ではないs2を選べる、等々。だが、再び、たとえsiの無限列を作っても、可算的に多くの実数のみに対してfをまだ定義している。

私達がしていることを注視する良い方法は以下である。実数を有理数体上のヴェクタ空間として考えており、このヴェクタ空間に対する基底を構築しようと頑張っているが、これはすべての実数がℬ内のメンバの一意的な有理線型結合であることを満足する、実数の集まりℬを意味している。その時、ℬ内の数に対して好きなようにfの値を定義し、それらの数の有理線型結合に対して明晰な方法でfの値を定義するならば、有理数体上で線型であり、従って加法的であるRからRへの函数を得るが、必ずしもf(x)=λxの形式ではない。

さて、Q上のヴェクタ空間と考えられるRは確かに無限次元だ。もっとはっきり言えば、非可算次元を持つ。だからRは基底を持つのか? ("非可算次元を持つ"が意味することは"可算的に多くのヴェクタによって生成出来ない"であり、定義により基底を持つは真ではない)。有限次元ヴェクタ空間において極大線型独立系は線型独立であるのみならず、空間全体を生成するから(仮に空間全体を生成しないなら、その極大線型独立系が生成する空間に属さない要素を選び、それをその極大線型独立系に加えるであろう。それは極大性に矛盾する)、有限次元ヴェクタ空間に奮い立ち"極大線型独立系を取れ"と言うことは魅力的である。

そのように今済んだように見える。つまり、QRの基底を探していて、任意のヴェクタ空間の基底を見つけるためにしなければならないことは極大線型独立系を入手することである。

だが、何故極大線型独立系が存在しなければならないのか? それは厳密に私達が早期に直面していた困難ではないのか。つまり、私達はますます多くの有理的に独立な実数を選ぶことを引き続けられたが、もはや続けられない時点に決して辿り着けないようだった。

ツォルンの補題のもっと一般的な議論とそれを使用する方法のために、この実例を中断しよう。

一般的議論: 今私達はツォルンの補題が適用され得るまさに典型的な状況にいる。任意の非極大オブジェクッは容易に拡張され得るので極大オブジェクッを構築したいし、あたかも出来るはずだと感じる。ツォルンの補題の通常の陳述は次である。部分順序集合とは順序≤を持つ集合Xであり、Xの要素は順序≤に関して推移的かつ反対称的(これはxyかつyxならばxyを意味する)である。典型的な実例はXが集合の集まりであり、xyの時かつその時のみxyが成立する(ここで私は記号"⊂"を"何々の部分集合である"を意味するために使用しており、"何々の真部分集合である"ではない)部分順序集合X内のチェィンとはXの全順序部分集合である。すなわち、xyYならばxyまたはyxのどちらかが成立するような部分集合Yである。部分順序集合Xの部分集合Yに対する上界はすべてのyYに対してyuとなるような要素uである。そして、部分順序集合X内の極大元x0xとなる唯一の要素xXx0それ自身であるような要素x0である。ツォルンの補題は、部分順序集合X内のすべてのチェィンが上界を持つならば、Xは極大元を持つと述べている(極大元は他のすべてより大きい必要がないことに注意せよ。ただ他の何かより小さくてはいけない)。

この非常に抽象的な外見の陳述がどのように私達が早期に持った問題の種類に関係するかを見るために、私達は部分順序集合Xを持っており、極大元を探していると想像しよう。次のように極大元を構築しようと努めるであろう。先ずx1から始める。それが極大でないなら、より大きい要素x2を見つける。それが極大でないなら、より大きい要素x3を見つける、等々。それは増大列x1x2、...を与える。今、行き詰っているようであり、実際に時おり行き詰っている。例えば、Xが通常の順序を持つ自然数の集合なら、列1、2、3、...を造っていたのかも知れない。それは極大元を探す助けにならないだろう。すなわち、驚くことではないが、自然数の集合Nは極大元を持たないので。

しかしながら、列1、2、3、...は上界の無いチェィンであるから、Nはツォルンの補題の前提を満たさない。Xがこの前提を満たすなら、x1x2x3、...はチェィンでもあり、上界を持つ。それをxωと呼べるだろう。これが極大でないなら、より大きいxω+1を見つけられる。それが極大でないなら、更に大きいxω+2を見つけられる、等々。

実例 1の続き: 私達が今いる位置と、QRの基底を造ろうと努めていた時の位置の両方の間の類似性に注意せよ。再度、私達はますます大きいオブジェクッを造ることを続けられるが、プロセスがいずれ終わることを断言する簡単な方法が無いように見える。いや、それどころか簡単な方法がある。すなわち、ツォルンの補題がそれが終わると告げている。

私達の実例においてどのようにツォルンの補題が適用するか見よう。私達が注視していたオブジェクッはQ上線型独立なRの部分集合だった。Rの極大線型独立系がR全体を生成することに注目したが、ここでの"極大"は何らかのより大きい線型独立系に含まれないことを意味した。このように、部分順序⊂を持つ、Rの線型独立系全体の集合を見ていた。

ツォルンの補題を適用したいならば、やらなければならないことはすべてのチェィンが上界を持つことを確かめることである。Rの線型独立系の集まりであるYがあり、それらの線型独立系の任意の2つに対して、一つが他者に含まれていると想像しよう。何が上界として役立つのであろうか? 定義により、それはY内の集合すべてを含む集合でなければならず、それ故それらの合併集合を含まなければならない。それが線型独立であって欲しいので、それが小さければ小さいほど良い。だから、試すべき基本的に唯一の候補がある。つまり、合併集合そのものだ。その合併集合は線型独立か? ええと、t1、...、tnが合併集合に属するなら、各tiは或る線型独立系LiYに属する。Yチェィンだから、これらの集合Liの一つが他者全体を含む。それがLjなら、Ljの線型独立性はt1、...、tnの自明でない線型結合が零になるはずがないことを意味している。それは、私達が欲したように、Y内の集合の合併が線型独立であることを証明する。従って、ツォルンの補題により極大線型独立系が存在する。早期に私達は、そんな集合は基底であり、f(x)=λxの形式ではない加法的函数を造るために使用出来ることを言ったが、今や問題は解決している。

更なる一般的注意: ツォルンの補題そのものはどのように証明されるのか? と人は問うかも知れない。一つの答えは証明出来ないである。つまり、単に公理だ。だが、少しばかり有益な答えは選択公理及び整列原理と等価であることだ。等価であるべき理由の暗示は上でやった証明の中に見出せる。そこでは無限列x1x2x3、...を造り、その次に"超越的に"xωxω+1xω+2、...を続けた。この超越的プロセスは極大元に辿り着くまで続けられるが、それをするためには無限に多くの選択を造る必要がある(列の次の要素を定義する方法が無いから)。このように選択公理は働き始める。仮に予めXが整列されていると知るなら(すなわち、すべての空でない部分集合が極小元を持つような全順序が与えられていること)、上手く行く極小元を必ず取ることで列を構築するであろう。そして、すべての集合が整列順序を持つことを証明するためにツォルンの補題を使うのは易しい練習問題である。

実例 2: この最後の陳述がツォルンの補題のもう一つの典型的適用を与えるので、それを正当化しよう。集合Xがあり、それに整列順序を与えたいと仮定する。すなわち、Xのすべての空でない部分集合Yが極小元を持つような、Xの要素に関する全順序を定義したい。

再度、プロセスを完了するために必要な"超越的時間長"の他に、要求するオブジェクッの構築にはっきりした制約が無い位置にいることに気付く。Xそれ自体の極小元に任意勝手な要素x1を選び、その次にX∖{x1}の極小元に任意勝手な要素x2を選び、等々。言い換えると、各段階でまだ選ばれてない要素を選び、それを私達の順序の次の要素であると宣言したい。

そのラフなアィディヤをツォルンの補題の議論に変換するために、Xにおける整列順序を定義しようとする"不完全試み"の集合における部分順序を定義する必要がある。不完全試みはXの部分集合YYの整列順序を意味する。試みを正確に定義しよう。すなわち、YXの部分集合であり、Yがその要素の整列順序を持つことである。すべての試みの集合における部分順序はもう一つの試みを拡張する試みのアィディヤを反映しなければならず、採用すべき明らかな部分順序は次の通りだ。2つの試みYZが与えられた時、YZ初期部分[訳注: 原文ではinitial segmentなのですが、少なくとも訳者には初見なので、ここでは仮にこういう訳語を充てました]ならばYZと言う。これは、YZの部分集合であり、Yに付随する順序はZに付随する順序をYに制限する時の順序と同じであり、Yのすべての要素はZにおける順序の中でZYのすべての要素よりも小さいことを意味する。

この部分順序集合はチェィン条件を満たすのか? ええと、試みのチェィンを持てば、そのチェィン内の集合の合併Uを上界に定義し、次のような順序を持たせられる。すなわち、チェィン内の或る試みYuu'の両者が属し、Y内でuu'であるようなYがあればuu'である。この順序は整列順序だ。Zuu'を含むもう一つの試みなら、YZまたはZYのどちらかであり(YZの両者がチェィンに属しているから)、≤の定義がYZにおける順序が矛盾しないことを保証している。

Uにおける順序は整列順序なのか? そうです、VUの空でない部分集合なら、VY空でないようなチェィン内の試みYが存在するはずだから。しかし、その時VYY内に極小元を持つ。これはU内でも極小でなければならない。理由が分かるために、v'∊VYかつv'<vと仮定しよう。その時、v'∊Wとなるチェィン内の試みWが存在しなければならない。v'∉YだからYWを含まないので、YWでなければならない。従って、YWの初期部分のはずであり、v'∊WYかつvYv'<vとなる。これは矛盾だ。

今、Uが整列順序であることを示し、それによってチェィン条件を証明している(チェィン条件を証明することはまあまあ簡単だったことに注目せよ。これは多くのツォルンの補題の適用に関してもそうである)。従って、ツォルンの補題により極大な試みが存在し、それは私達が望むようにX全体の整列順序になるだろう。

それがX全体でなければ、Xの或る真部分集合Y整列順序である。だが、容易にこの試みを拡張出来る。すなわち、zXYの任意の要素として、ZY∪{z}と定義し、既にYにおいて持っている順序をZに付随させ、その上すべてのyYに対してyzと規定する(もちろん、zzも規定する)。これは更に大きな試みを造っており、Yの極大性に矛盾する。この矛盾は、(ツォルンの補題が暗に意味する)すべての集合を整列順序に出来るという証明を仕上げている。

更なる一般的注意: 最後の議論の最終段階、すなわち、すべての極大な試みはX全体の整列順序でなければならないという証明は、整列順序の拡張をずっと引き続いて出来るという早期になされた略式考察に相当する一方で、チェィン条件の証明は、試みの無限列を造るならば、それらの合併を取って引き続けられるという事実に相当する。再び、これはツォルンの補題の議論の典型である。

では、一般的に人はツォルンの補題の必要をどのように認識し、ツォルンの補題を適用するために適切な部分順序集合をどのように構築するのか? 手掛かりは上述の2つの実例の中にある。概して、或る種の構造(例えばヴェクタ空間に対する基底、または集合の整列順序)を構築しようと努める。それをする自然な方法は段階的に構造を徐々に構築することのように見えるが、真っ直ぐに作業するには余りにも多くの段階がある。しかしながら、段階が何であり、構築プロセスが何であるかのアィディヤを一度持つと、作業を修了させるためにいつもツォルンの補題を使える。部分順序集合は構造の中でひょっとして複数段階かも知れないオブジェクッ全部から成るだろうし、これらのオブジェクッの一つが構築プロセスにおいて他者よりも先に来ているかも知れないなら、もう一つよりも小さいだろう。結果として生じる部分順序がチェィン条件を満たし、極大元が構築しようと努めている種類の構造でなければならないなら証明は完成する。

コメント

このブログの人気の投稿

ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する

今回紹介するのは abc 予想の証明に関する最近の動向を伝えている記事です。 これを選んだ理由は素人衆が知ったかぶりに勝手なことを書いているのをネット上で散見するからです。ここで言う素人衆は日本のメディアはもちろんのこと、馬鹿サイエンスライターも当然含みます。昨年末(2017年12月16日)に某新聞が誤報に近いことを報道したことも記憶に新しいでしょう。そんな情報に振り回されないために今回の記事です。 今回の記事は正確かつ公平だと私は思いました。私の友人共の何人かは、この方面の専門家だから門外漢の私はいろいろなことを教えてもらいました。その上での感想です。 その方面の専門家でなくても数学の研究者なら望月論文は無理でもレポートは読めるはずなので、もっと詳しく知りたい人はレポートを読んで下さい。 前置きはこれくらいにして、紹介する記事は" Titans of Mathematics Clash Over Epic Proof of ABC Conjecture "です。その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] ここに至るまでの経緯については" 数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明 "を読んで下さい。その記事は2015年12月にオックスフォードで行われた望月論文に関する初めての国際的ワークショップより前の話が書かれています。 このワークショップはいろいろ評価が分かれるけれども、私が聞く限り、大失敗だと言う人が多いです。実際、私の海外の知人の一人がワークショップに参加しており、ボロクソに言ってました。 このワークショップを境に、海外特に米国では望月論文を理解しようとする熱意が急速に薄れたように感じますし、ショルツ、スティックス両博士の異議申し立てが出るまで実質何の音沙汰もない状態でした。 [追記: 2018年10月23日] 私の友人共に指摘されたのですが、この記事の私訳を読む人の殆どが日本の全くのド素人なんだから、たとえ原文に記載されていなくても誤解を生じさせないように訳者が万全を期するべきだと言われました。 記事に出て来る Publications of the Research Institute for Mathematical Sciences (略してPRIMS)...

数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明

前回紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "はもちろん一般大衆向けの記事です。数論、数論幾何学、IUTT(宇宙際タイヒミュラー理論)のいずれかの専門家なら、そんな記事を読まなくても、そこまでに至る経緯は十分に承知しています(何故なら自分達の飯の種を左右する問題だから)。その方面の専門家でなくても数学研究者なら数学コミュニティ又は数学界を通して大概の経緯を聞き及んでいます。 私の身辺(私の友人共はすべて何らかの形で数学研究に携わっているので、それらを除きます)でその記事を読んだ感想は"そんなに拗れるのは不思議だ。もっと経緯を知りたい"というのが多かったです。その身辺の彼/彼女等はもちろん素人衆ですので、望月新一博士の名前も報道でしか聞いたことがないし、数学で何故これほどまでもつれるのか不思議でならないそうです。彼/彼女等は至って真面目です(何故こういう事を書くかと言うと、素人衆と言っても千差万別で、中にはネット上で国家高揚か日本民族高揚のために望月博士のことを書いているとしか思えない不逞の輩がいるからです)。そこで、それらの真面目な人達のために今回紹介するのは2015年10月の Nature 誌に載っていた" The biggest mystery in mathematics: Shinichi Mochizuki and the impenetrable proof "です。 何故これを選んだかと言うとエンターテイメント性があり、素人衆でも面白く読めるだろうと思ったからです。但し断っておきますが、いろいろな数学者の証言を繋ぎ合わせて望月博士の心情を勝手に推測するのははっきり言って妄想であり、さすがエンターテイメント性を重視して堕落した Nature 誌だけのことはあると私は思いました(あのSTAP論文を掲載したことも記憶に新しいでしょう)。 その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] この記事は2015年12月に行われたオックスフォードでのワークショップより前の話です。このワークショップは望月論文に関する初めての国際的な会合で、この記事でもこのワークショップにかなりの期待を寄せているところで終わっています。 しかし、いろいろ評価が分かれ...

谷山豊と彼の生涯 個人的回想

数学に少しでも関心のある人なら、フェルマーの最終予想が、これを含む一般的な志村予想を証明することによって解決されたことは御存知でしょう。この志村予想は、かって無知と誤解によって谷山-志村予想と呼ばれていました。外国では更に輪をかけて(と言うよりもアンドレ・ヴェイユの威光によって)谷山-志村-ヴェイユ予想と呼ばれていました。ヴェイユがこの予想に何ら関係しないことは、故サージ・ラング博士によって実証されました。それでも、谷山-志村予想もしくは谷山予想と呼ぶ人がまだ散見されます(散見と言いましたが、日本人ではかなり多いです。国民性に依存するのかどうか知りませんが)。私は数論を専攻したことがなく、ずぶの素人ですが、志村博士が書かれた記事や自伝"The Map of My Life"を読み、何故志村予想なのか納得しました。ここで込入った話を書くことは不可能なので、分り易く言えば、故谷山氏は何ら予想の内容にタッチしていないと言ってもいいかと思います。勿論、その周辺は谷山氏の研究分野でしたから周辺にはタッチしていたでしょうが、志村博士は全く独立にきちんと予想を定式化しました。ですが、谷山氏と志村博士はいわゆる盟友関係であり、また谷山氏の不幸な亡くなり方を悼む日本人的感情(つまり、センチメンタル)から日本人は谷山-志村予想と頑なに呼んでいるのだと私は理解しています。ですが、これは数学なのであり、事実を直視しなければいけないと思います。また、最終的に志村予想は証明されたのですから、何とかの定理と呼ぶべき時期だと思います。この"何とか"に何を冠するかはいろいろ意見があるようですのでこれ以上は触れないでおきます。 さて、志村博士の"The Map of My Life"の第4章、18節に"18. Why I Wrote That Article"があります。ページ数で言えば145ページ目です。タイトルが示している"あの記事"とは、志村博士が英国の専門誌 Bulletin of the London Mathematical Society に発表した" Yutaka Taniyama and his time, very personal recollections ...

識別の危機

昨年紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "の元記事はもちろん大衆向けのオンライン科学ジャーナル Quanta Magazine に掲載されたものですが、著者はErica Klarreich女史です。彼女はサイエンスライタではあるけれども、歴とした数学者です。しかも、幾何的トポロジで彼女の名前を冠した定理を持つくらいの立派な方です。何故こういうことを書くかと言うと、IUTを支持するイヴァン・フェセンコ博士がKlarreich女史をいかにも素人呼ばわりした非常に下らないドキュメントを書いたからです。大学にポストを持っていなければ全員が素人なんですかと問いたいくらいです。これでは世界からIUT自体が白眼視されるのも無理からぬことだと思いました(本当のところは全く違う理由からなんですが、話せば切りが無いので止めておきます)。 さて、今回紹介するのはディヴィド・マイケル・ロバース博士が書いた記事" A Crisis of Identification "です。ロバース博士と言えばショルツ、スティクス両博士のリポートが公開された直後からキャテグリ論の専門家として非常に冷静な分析をされていたことに私は感心してましたから直ぐに記事を読みました。一つの不満を除いて非常によく書けていると思います。" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "も勿論読み応えのある立派な記事でしたが、どちらかと言うとドキュメンタリ風の記事でしたし、読者層が一般大衆であることを考慮してあまり数学を前面に出していませんでした。ロバース博士の記事はもう完全に数学を前面に出しています。 前述した一つの不満はグロタンディーク氏のことにスペィスを割いて結構触れていることです。今のABC予想の置かれている状況とはあまり関係がないと私は思いました。やはり大衆受けを狙ったのかと感じました。まぁ、日本でも素人には何故かグロタンディーク氏は大人気ですから(捏造されたエピソゥド、つまりグロタンディーク素数がどうたらこうたらに踊らされて?)、それはそれで良いのかも知れませんが。 前置きはこれくらいにして、この記事の私訳を以下に載せておきます。なお著者の注釈欄を省いていますが、注釈へのインデクスはそのままです。 [追...

数学教育について

聞くところによれば、関数型プログラミング言語の流行とともに数学の圏論がブームだそうで。圏の概念が他の数学の分野を全く知らない人でも意味が分かるのか疑問を持っています。その理由は後で述べます。 私の手許に故Serge Lang博士の名著"Algebra"があります。この本は理由があって、何と大昔の1974年の初版第6刷です。非常に貧しい学生だった私に恩師が2冊持っているからと言って1冊を下さり、私の生涯の宝物です。 仮に数学を代数学、幾何学、解析学という全く意味が無い区分けをしたとします。意味が無いと言うのは、例えば多様体論なんかはどの分野にも入るからです。そうであっても無理に区分けしたとしましょう。この3分野のうちでも、代数学(厳密に言えば抽象代数学です)が、勉強するだけなら(あくまで勉強するだけですよ、研究となれば別の話です)数学的予備知識も数学的センス(故小平邦彦博士の言うところの"数覚"、位相群で有名だった故George W. Mackey博士の言うところの"数学的成熟度"、まぁ簡単に言えば数学的才能ですね)も全く必要としません。必要なのは論理を追うための忍耐力と言えます。ですから、理解出来るか否かは別にして、代数構造を"言葉"として吸収することは誰にでも出来ます。数学のどの分野を専攻してもLang博士の"Algebra"程度の知識は"言葉"として知っていなければ話にならないのです。数学での代数学は、私達が日本語や英語等でコミュニケーションするのと同じく、数学の言語なのです。 Lang博士の"Algebra"には、第1章群論の第7節に早くも"圏と関手"が登場します(ページで言えば25ページ目です)。ついでながら、この圏、関手という日本語は全く元の英語が想像出来ないので、以降カテゴリ、ファンクタと書きます。 ところで、Lang博士はブルバキにも入っていた人ですから、こういう抽象度が高い概念を重要視しているかと思いきや、決してそうではないのですね。元々カテゴリ、ファンクタ(ファンクタの方が重要な概念でして、カテゴリはファンクタが扱う対象物です)は、ホモロジー代数の一部として提案された概念です。ホモ...