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"ツォルンの補題"の起源

代数系もしくは代数構造の講義を受講した人なら群の第一同型定理(人によってはこれを第二同型定理と呼ぶ人もいます)と呼ばれるものを誰もが御存知でしょう。すなわち、Nを群Gの正規部分群、HをGの部分群とすれば、HN/N≅H/H∩Nが成立するというものです。
以前紹介した"わが父アンドレ・ヴェイユ"の前置きで触れた友人は学生達が講義時点で第一同型定理の証明を本当に理解しているのか怪しいと言ってました。証明自体は群の準同型定理(つまり群Gから群G'への全射準同型fがあって、NをGの正規部分群とするならf(G)=G'≅G/Nが成立する)を使って、fのHへの制限を考えたら誰もが簡単に出来るはずなんです。ところが学生達の中にはf:G→G/Nの形に引きずられてかどうか分かりませんが、愚かにもf:H→H/Nだと思う馬鹿もいるらしいです。これが全く無意味なのはH/Nという剰余群らしきものを考えるのであれば少なくともH⊃Nが条件になければならないのに、第一同型定理の条件のNはGの正規部分群に過ぎないのであって、Hとは何の包含関係も仮定されていないことから分かるでしょう。
そこで、これに関して少しばかり解説します。GからG'への全射準同型fが与えられた時、fのHへの制限、すなわち全射準同型f:H→f(H)においてf(H)が何なのかを理解することが大切です。簡単のためH'=f(H)とします。f-1(H')が何なのか分かりますか? fは準同型なので一般的にf-1(H')⊃H。そしてf-1(H')⊃Nでなければなりません(何故なら、準同型定理によりG'≅G/NなのでH'=f(H)はG/Nの部分群であり、しかもNを法とする剰余群でなければならず、それがf-1(H')/Nのはずだから)。もっと簡単に言えば、h∊Hばかりではなく、G/Nにおける剰余類hNに属するようなhn(n∊N)という形の要素すべてをf-1(H')は含みます。すなわちf-1(H')はHとNの両方を含む最小の部分群HNを含むことになります(f-1(H')がHとNを含む部分群であることをお忘れなく)。HNが実際にGの部分群であることは、a, b∊HNとすれば、ab∊HNHN=HHNN(∵NがGの正規部分群だからHN=NHが成立する)=HN、a=hn(h∊H、n∊N)とすればa-1=n-1h-1∊NH=HN。以上でf-1(H')⊃HN。今度は逆にf-1(H')⊂HNを証明する。xをf-1(H')の任意勝手な要素とすると、f(x)∊H'=f(H)だからf(x)=f(h)となるようなHの要素hが存在し、f(x)=xN=f(h)=hN。すなわちx∊hN⊂HN。xはf-1(H')の任意勝手な要素だったからf-1(H')⊂HN。よってf-1(H')=HN。またHN⊃Nだから確かにNはHNの正規部分群。
以上のことからf(H)=HN/Nであることが分かったでしょう。最後にH∩NがHの正規部分群であることは、h∊Hに対してh-1(H∩N)h=h-1Hh∩h-1Nh=H∩h-1Nh=H∩N(∵h, h-1∊H。NはGの正規部分群)。よって、f:H→HN/Nが全射準同型、H∩NがHの正規部分群なので、これらに準同型定理を適用すればH/H∩N≅HN/Nとなります。

以上のことを長々と書いた理由は守秘義務のため具体的には書けないのですが、上述の友人は昔、ある都道府県の数学科教員採用試験の問題作成に関係し、この第一同型定理を証明せよと出題したことがあったからです。数学教諭になろうとする人なら、こんな誰もが習って当たり前に理解しているはずの証明を出来て当然だと思いきや、他の出題に比べて圧倒的に正解率が悪かったそうです。酷い答案だと「群の準同型定理を適用すればよい、自明。」云々もあって、友人は呆れたそうです。断っておきますが友人は試験場での閃きやアィディアを必要とする問題を出す人ではなく、数学教諭を志すなら誰もが習う基礎的なことをきちんと理解し、少なくとも何のポイントを押さえて証明すべきか理解していることを重視しており、数学教諭に数学的閃きや才能は必要無いという常識的な考えの持ち主です。例えば、この友人は同年(だったと思います)の採用試験に線型空間の次元定理、つまりn次元線型空間からm次元線型空間への線型写像fに対してn=dim img(f)+dim ker(f)の証明も出題しましたが、これなんか誰もが習っていて証明を書けなければおかしい程の基礎事項です。しかしながら、前述した酷い答案を書く受験者は何様のつもりなんでしょうか。出題者側は受験者が証明をきちんと書けるかどうか、つまり最低限の数学的論理思考をしっかり身に付けているかどうかを見たいのに、こんな答案を書く受験者は誰に読んで貰うつもりでいたのか不思議です。こんな人達に中学や高校の数学と言えども習いたいと思う人はいないでしょう。上述した私の解説は証明の体裁こそ取ってないけれども、きちんとポイントを押さえているはずです。

さて、話は変わります。皆さんは当然ツォルンの補題を御存知でしょう。数学ではあちこちで御世話になる基本的な定理です。例えば、可換環における極大イデアルの存在証明にも使用されます。それほど馴染みのあるツォルンの補題ですが、正直言って私はツォルンがどんな人なのか、また何故補題なのか今まで全く気にもしませんでした。最近たまたま友人共の一人と雑談した(電話口で)時に、そもそも何でツォルンの補題と呼ばれるのかと私はつい口を滑らしてしまい、友人から呆れられました。その友人から最低限これを読めと言われたのがPaul J. Campbell博士のThe origin of “Zorn's Lemma”です。一読して驚きました。数学者は数学史をなおざりにしてはならないことが分かると思います。なお断っておきますが、私はブルバキ数学史を数学史ではなく、ブルバキ数学史観だと思ってます。理由は、数学史だというのであれば数学の歴史的資料を掘り起こしたり、新資料に基づく新解釈を提示したりするのが数学史研究なのですが、ブルバキの場合そうではなく、事実の積み重ねもしないで自分達の解釈の押し付けに他ならないからです。もっとはっきり言えば傲慢のなせるわざだと言わざるを得ないからです。
コロナヴァイラスのせいか世間では歴史的資料(西班牙風邪の時の資料等)に注目しているようですが、もっと大事なことは歴史的資料を保管する公的機関、教育機関、博物館、図書館等にもっと理解を持つことなんです。私が海外を見聞して思ったことは資料保管に対する意識の高さです。つまり、未来への責務と考えているのです。まして公文書改竄なんてあり得ないのです。詳細な歴史資料を残すことは個人批判のためではなく、未来世代がいろいろな決断を迫られた時に判断材料を提供するためなんです。
いずれにせよThe origin of “Zorn's Lemma”の私訳を以下に載せておきます。

[追記: 2022年03月22日]
友人共の一人から聞いたのですが、彼の学生達の一人が上述の群の第一同型定理の解説を読んで、群Gから群G'への全射準同型fが途中からGからG/Nの話にすり替わっているのではないかと質問したそうです。こういうのを木を見て森を見ずの典型と言っても過言じゃありません。この学生が言うところのすり替えが気になるのであれば次のようにすればいいでしょう。群の準同型定理によりf(G)=G'≅G/Nだから、G'からG/Nへの同型写像gが存在し、合成写像(g∘f)をiと置けば、iはGからG/Nの全射準同型です。そして上述の解説で述べたように、iのHへの制限を考えればいいわけです。解説の中で私がfのままにしているのは記号の節約といちいち分かり切ったことをくどくどと説明するのを避けたためです。数学は希臘の時代からパァタン又は構造を研究する学問であり、写像がfであろうがgであろうが、はたまた何であろうがそんなことはどうでもいいことなんです。その学生さん、本当に理系なのか、文系の間違いじゃないのかと思わず友人に訊いたものでした。

"ツォルンの補題"の起源
1978年02月 Paul J. Campbell

要約
論文は関連する複数の極大原理と"ツォルンの補題"の起源を慎重に追跡することによって、"ツォルンの補題"はその最初の発見者の名前を取って名付けられたのではないという主張を追及する。ツォルンによって供給された未発表の情報を含む。

1. 序論
米国数学協会のNoticesへの最近の手紙[Minty 1976]は、"ツォルンの補題"はその結果の最初の発見者の名前を取って名付けられたのではないという、よく聞く主張の証拠を訊ねた。
少数の研究者達が俗に言う"ツォルンの補題"で通っている同値な極大原理の複数の定式化の起源を追跡しようと努めている(この論文としては、極大原理とそれに相当する極小原理を区別しない)。残念ながら、全体のストーリはどのソース中にも見つかっていない。[Rosser 1953, 493-495, 507; Cuesta 1955; Fraenkel and Bar-Hillel 1958, 68-69; Rubin and Rubin 1963, 10-13; Beth 1964, 376-378; Semadeni 1968; Jech 1973, 29]の著者達の誰もが筋道の縺れをほどく先達たちの試みに注目しなかったらしい。"ツォルンの補題"の歴史の実質的要約はSuppesによって十分に与えられていた:
この極大原理はツォルン[1935]により命名されたが、それ及び非常に関連するいくつかの極大原理の歴史は非常に混乱している。確かにツォルンは実質的に少なくともF. Hausdorff、C. Kuratowski、R. L. Mooreに先行されていた。
[Suppes 1960, 245]

ツォルンの1935年論文の中で与えられた"ツォルンの補題"の元々の形式を引用する。イタリク体はそこにあるままだ:
定義1. 集合Bの集合B={B}は、すべての2つの集合B1、B2に対してB1⊃B2またはB2⊃B1のどちらかならばチェィンと呼ばれる。
定義2. 集合Aの集合Aは、Aに含まれるすべてのチェィンBの合併∑B∋BBを含めば、閉じている(右に閉じている)と言う。
その時、我々の極大原理は次の形に述べられる。(主命題)集合Aの閉じた集合Aにおいて、他のA∊Aの真部分集合として含まれないA*が少なくとも一つ存在する。
[Zorn 1935, 667]

2. ツォルンの補題と他の非常に関連する極大原理の歴史
Rubin and Rubin[1963, 10-13]はここで私達が関心のある様々な極大原理を区別するという慎重な仕事している[1]。ツォルンによって定式化された特定の原理は原理M3としてリストされている。Rubin and Rubinは最初に包含の許で線型に順序付けされたクラースとしてを定義し、ツォルンの原理を次のように定式化している:
M3: 空でない集合Xの部分集合であるすべての空でない巣がXの要素を合併に持つなら、Xは極大要素を持つ。
[Rubin and Rubin 1963, 12]

そして彼等は以下を与えている:
M4: 空でない集合Xの部分集合であるすべての整列順序な巣がXの要素を合併に持つなら、Xは極大要素を持つ。
[Rubin and Rubin 1963, 12]

M3の仮定が少なくともM4の仮定と同じ強さであるから、M4は単にM3を意味することに注意せよ。同様に、ツォルンの原理M3は仮定の見かけが弱い原理だ。もっと言えば両者は論理的に同値であるけれども。
M4の不思議な前兆は早くも1910年に、二点の間のすべての連続体(または連続弧)は二点間の既約(極小)連続体である部分集合を含むというトポロジにおける定理の形で起きた。この定理は最初Janiszewski[1910]によって宣言されたが、彼は整列定理に基づいて証明の概要を述べた。しかし、Zoretti[1910]は順序数を使用しない証明を宣言し、Mazurkiewicz[1910]もそんな証明を発表した。Zorettiの証明は[1912]に登場したが、Mazurkiewiczのものから問題の定理が選択公理の何らかの形または同等に依らなくても証明可能であることは既に明らかである。Janiszewskiは彼自身の詳細な証明[1911, 85-89; 1912, 163-167]を作製し、またMazurkiewiczの証明も再作製(一つの思いがけない間違いを持っている)[1911, 30-34; 1912, 108-112]した。続いて、Mazurkiewicz[1919]は更にもう一つ証明を与えたが、これは整列定理を採用しているものだった。
その定理はブラウワにより言及[1911, 138]されたが、整列定理を使って彼が証明したもっと一般的な定理の特殊な場合であると注意した。ブラウワは点の閉集合が閉部分集合で置換わるものは切落されていると表現し、点の閉集合の帰納的性質を"[閉集合列を減らしながら]切落し列の項で占有される時、その列の極限集合に対しても成立する性質である"と定義した。彼の定理は以下である:
μを帰納的性質αを所有するSPn[通常n-空間]の点の閉集合とする。それを限定種βの切落しを可算回適用することで点の閉集合μiに切詰めることが出来る。ここで点の閉集合μiは性質αをまだ所有するが、種βの新しい切落しによってその性質を失う。

彼はJaniszewski-Mazurkiewicz-Zorettiの結果が二点を含み連続であるという性質をαに持たせ、"最も一般的"な種βの切落しをすることで得られると指摘した。
更にもっと一般的な見本だと了解する人はKuratowskiだったが、彼は[1922, 88-90]の中でM4を述べて証明し、上で言及した早期の研究を詳しく述べた。また彼は集合のチェィンに関するHessenberg[1909]による早期の研究を認めた[1922, 77]。
原理M3とM4の歴史的展開と密接な関係性の概略は図1の2列目[訳注: これは全くの図なのでここに載せることが出来ません。従って関心を持たれた人は是非とも原文を参照して下さい]に表示している。
非常に関連する極大原理のもう一つの系列はHausdorff[1907, 110]から始まったが、彼はRubin and RubinのM6の特別な場合を証明した:
M6: すべての集合Xに対し、巣であるXの極大部分集合[注意: 包含⊆に関しての極大]が存在する。
[Rubin and Rubin 1963, 12]
後にHausdorff[1909, 300-301]は一般的命題を定式化して証明した。彼の本[1914, 140]は結論を拡張することにより結果を改善した。Rubin and Rubinはその結果をM5と称している:
M5: RがXにおいて推移的関係なら、Rにより線型的に順序付けされているXの極大部分集合[注意: 包含⊆に関しての極大]が存在する。
[Rubin and Rubin 1963, 12]
1927年にHausdorffは[1914]の短縮版を刊行したが、その中で順序集合に関する章は実質的に削減された。新版はM5を含まなかったが、pp. 173-174において明確にM4を述べて証明し、pp. 280-281においてJaniszewski[1910, 1911, 1912]とブラウワ[1910](不思議なことにブラウワ[1911]ではないけれども。ブラウワ[1911]はブラウワ[1910]の後半部分だ)による論文が論及された。著者[訳注: Campbell]はツォルンがpp. 173-174における結果を指摘してくれたことに感謝する。
1928年のS. Bochnerによる抽象リーマン面に関する論文は"集合論補助文"[Bochner 1928, 408-409]を使用したが、それは殆どRubin and Rubinが言うところのM1である:
M1: Rが空でない集合Xにおいて推移的関係であり、Rにより線型的に順序付けされているXのすべての部分集合がR-上界をもつなら、XにR-極大要素が存在する。

その違いはBochnerが関係の非対称性(aRbとbRaの両方が成立しない)を含めたことだ。形式M1はおそらくしばしば"ツォルンの補題"と呼ばれる命題だ(cf., 例えばKelley [1955, 33])。ツォルン彼自身は普及している用語に文句を言わずに従って来ている。つまり、彼は一貫してM3を"極大原理"と呼び、M1を"ツォルンの補題"と呼ぶ[Zorn 1976-1977]。Bochnerの証明は整列集合における超限帰納法によっていたが、それについて彼は読者に[Hausdorff 1914]を参照させた。M3がM1の特別な場合であることに注意せよ。Bochnerの論文への参照について著者は[Veech 1976]に感謝する。最後、1932年にR. L. MooreはM3の証明[Moore 1932, 84]を発表したが、Mooreの参照文献は[Kuratowski 1922]をリストしている。
上述の原理すべての歴史的相互関係は図1の中に示されている。更に、図は調査対象外にある複数の原理(M2, M7, M8)に関するディタを含み、ノゥト2にはそれらの定義が含まれている。
ツォルンに先立つ数学者達すべてが同じ性質の結果を証明していた。各々の場合で極大原理が整列定理または選択公理から成立することが示された。Rubin and Rubin[1963, 11]はツォルンが"極大原理は選択公理を意味すると述べた最初だった"(しかし、cf. §4)ことを注意している。彼は選択公理、整列定理、彼の極大原理の同値性を断言したが、その時に彼の証明を発表しなかった。証明を発表するつもりだと述べたけれども[1935, 669]。Fraenkel and Bar-Hillel[1958, 69]はツォルンの極大原理と他の極大原理、整列定理、選択公理の同値性を証明する論文に言及している。
更に、ツォルン以前の極大原理の適用はすべてトポロジの領域内であった(代数において選択公理と整列定理の直接的使用の例があったけれども[Fraenkel and Bar-Hillel 1958, 68])。Rubin and Rubin[1963, 11]はツォルンが初めて代数に極大原理を適用し、見たところではHausdorffとKuratowskiの早期の研究を知らなかったようだと注意している。

3. どこから用語"ツォルンの補題"なのか?
どのように用語"ツォルンの補題"になったのかはまだ謎だが、推測のために少なくともいくつか根拠がある。ツォルン彼自身は選択公理に代わる集合論的公理として彼の極大原理を提案するつもりだった。彼にとって彼の極大原理が何かの補題では決してなかった。
ブルバキ[1939, 37]が”ツォルンの定理"について語った一方で、Tukey[1940, 7]が"ツォルンの補題"という語を印刷物で使用した最初だったらしい。実際には、ブルバキもTukeyもツォルンによる特別な定式化(特にM3)に言及していなかった。代わりに両者はもっと一般的なM1の変種に言及していた。それでも彼等はそれにツォルンの名前を付けた(例えば、ブルバキの定理はR-上界の代わりにR-最小上界を使用している)。どちらもBochnerの"補助文"を知らなかったようだ。そうでなければ、"ツォルンの補題"における"補題"に対してBochnerの"補助文"がもっともらしいソースであろう。
ブルバキは”ツォルンの定理"を議論している文脈で"基本補題"を述べた。すなわち:
Eを帰納的順序集合、fをすべてのx∊Eに対してf(x)≧xとなるようなEへのEの適用とする。その時、f(x)=xとなるような少なくとも一つの要素x∊Eが存在する。
[Bourbaki 1939, 37]
その補題は選択公理を要求しない。KuratowskiはM4の彼の証明の中で結果の集合的包含版を証明して使用していた。
ブルバキの同じペィジに見つかる"ツォルンの定理"と"基本補題"のごちゃ混ぜの中に用語"ツォルンの補題"の起源があるという予想を人は推進するであろう。この乗り換えはこじつけのように見える。
Mycielski[1970]はSemadeni[1968]を以下に述べることが"ツォルンの名前がこの命題につなげられた事実の説得力のある説明”と考えた(この著者によるSemadeniの慎重な読込みが原因を裏付けないけれども):
すなわち、科学において使用者が使う手法の名前を決定するが、必ずしも使用者が最高に詳しい人だとは限らない。カルダーノの公式がこの状態の出来事の古典的例である(この場合、"アルス・マグナ"の中のタルタリアに関するカルダーノの引用は永遠に使用される名前に影響して来てない)。
[Mycielski 1970, 244]
SemadeniはどのようにKuratowskiの名前が状況から消えたのかに関して筋が通ってそうな説明を提案した:
残念ながら、数学のポゥリシュ学派はKuratowskiによって明快に述べられている極大原理の重要性に気付かなかった。それでポゥリシュ数学者達は四半世紀後に米国からツォルンの補題の使用を学んだ。
[Semadeni 1968, 146]
このように、ツォルンが極大原理の中にある大部分認識されてない可能性に対して注意を向けさせることに偉大な貢献をしたことは間違いないようだ。

4. ツォルンは何を言っているのか?
上の情報は人が文献探索から学べる事柄から成り立っている。しかし、数学それ自体が現代的なのだから、歴史的情報に関して追加的な潜在的に豊富なソースが入手可能だ。すなわち、数学構築に参加した現在生きている個々の人達だ。インディアァナ大学名誉教授であるマクス・ツォルン彼自身に"ツォルンの補題"の展開に関する彼の記述を申し出るため連絡を取れることは実に幸運なことだ。彼の説明が状況の多くの様相を明かし、それは書かれた記録に実質的に加わるのであるから、彼には特別に感謝する。

1933年頃、私はハンブルクで極大原理に関する研究をした。それを"実用原理"(代数での特別な場合)として提案した。それはよく認識され、"皆の関心事"になった。Artinがそれを使い、Chevalleyがそれを取上げたものだ。
ある時点で私はMooreの本[1932]を手にした。多分独逸語の最初の数ペィジをさっと目を通したと私は言ったものだが、定理に出会わなかった。ずっと後、米国で私に定理が指摘された直後に見た。その時から私はMooreが整列順序なチェィンを使っていると信じたことを憶えている。それが真相ではない。私の記憶がいかに信頼出来るかを示すために以下のことを貴方に話す!
私はKuratowski[1922]を知ったが、論文の趣旨に関して誤った印象を持った。
Hausdorff[1927]の内容を私が認識したのはたった1976年だった。接触した人々の中で、私がそれを理解した最初の人だったかも知れない。
1934年の8月の第一週に私は米国へ到着したが、米国で私はイエィオ大学の正研究員だった。到着後、約一週間イエィオで主任教授だったØystein Oreと話をした。彼は"あの原理を自分で使ったことがある"と私に言ったが、彼が個人的に極大原理を発見していたという意味で私は受取った。多分”ツォルンの補題"という言葉を最初に彼から聞いた。ニューヨークの米国数学協会で論文[Zorn 1935]を紹介した時、つまり1934年の10月より前にその名前があった。そのニューヨークの米国数学協会でLefschetzは結果を刊行すべきだと私に言った。
私は集合と集合包含を使った。1936年UCLAに着き、そこでのセミナーで私は或る結果はブルバキによると予想した。1936年の秋、私はブルバキが誰かを知らなかった。Comptes Rendusに時おり発表する若い人だと思った。いわゆる(ブルバキ[1939]の)"ツォルンの定理"、すなわち任意の部分的順序に対する定理または"ツォルンの補題"、を私が聞いたのは1936年より後(しかし、いつなのかよく分からない)だったに違いない。
Chevalleyの仕業だと私は信じた。Chevalleyはブルバキの出来事にしたかったから、原作者だと認めることを簡単に拒否した。グループではないにしても、私の同僚達のうちの少なくとも一人にDieudonnéはブルバキのその結果に対する責任は実際にChevalleyだと言った。Ziemerは彼がDieudonnéから聞いたことを私に伝えた。それは私にとってニューズではなかったが、その瞬間に"公式”的になった。すなわち、私はソースを持った。
私にとって個人的重要点は用語"ツォルンの補題"だ。論文の中で明快に述べた原理を私は"極大原理"と呼ぶ。ブルバキにおける結果に対しては"ブルバキの定理"と私は言ったものだ。Ziemer経由のDieudonnéのニューズの後で私は"Chevalleyの定理”と言った。今はおそらく”Kuratowskiの定理"と言うべきだ。私は時おり用語"ツォルンの補題"を容認、又はそれを使う。しかし、いつも微笑んで引用符を付ける。
少なくとも"補題"部分は適切だ。私が証明されて応用される定理を贈呈されるなら、それを補題と呼ぶことを厭わないであろう。それが公理でない時、私にとっては補題のようなものだ。いずれにせよ、Bochner論文では補題だ。あの論文が最近私の注意を引いた時、非常に驚いた。いいかい、Bochnerと私は1934年から1935年または多分後に話をしたんだよ。それでもどうしてか私は彼に極大原理のことを言及しなかったに違いなく、彼も結果を私に話さなかった!
しかし、極大原理が選択公理を意味することを認識したのはArtinだ。私は極大原理によって部分群を法とする群の表現系の存在を証明した。Artinは私のことをよく知っていたし、彼は私にこう言った: "それが本当なら、選択公理に対しても働くだろう"。
だが...人は記憶を容易に変形出来る。
[Zorn 1976-1977]
この論文の早期版と共に問い合わせが著者によりChevalley、Tukey、Kuratowskiに送られた。これを書いている時点でChevalleyは返答しなかったが、Tukeyは寄稿とすべき次のことを書いた:
1935年より前に当の言葉”ツォルンの補題"を使うLefschetzからのツォルンの引用を考慮すれば、名前はLefschetzと共にプリンストンに来たことが私には殆ど明らかだろう(私の書き物よりずっと前に、Chevalleyが後で来た)。
当時(1938年-1939年)プリンストンでその用語が広く使われていたことが弱いけれども私の印象だ。当時の私達の殆どの研究対象よりもブルバキはずっと名前を重視した。
更にもっと重要なのは、Lefschetzが彼のColloquium Lectures on Topologyを第二版のために改訂していた。第一章の草稿があったが、Lefschetzは抽象的過ぎだとして後に取り換えた。その第一章の草稿をEilenbergと私は少し書いた。”ツォルンの補題"がそこに登場していたかも知れないと思う。
[Tukey, 1976]
Kuratowskiの返答[1977a]はその後に刊行された寄稿[1977b]と同様だ。[1977b]で彼はツォルンの研究に先立つ彼の極大原理の定式化を注意している。

5. 結び
数学の歴史は様々の誤った帰属に満ちており、口頭及び書かれた伝承による、その続いている普及は歴史的事実の広範囲に渡る無知、または認められた慣習、または状況の単なる複雑さ、と多様に起因する。これらのすべてが"ツォルンの補題"において役割を演じている。その用語さえも異なる人々によって論理的(歴史的ではなく)に同等だが、異なる命題を示すために使用されている。
この論文は"ツォルンの補題"で通っている極大原理の系列の相互関係に関する歴史の正式版を提案していない。ここで議論されている系図を持つ原理の系列は、Teichmüller[1939]、Wallace[1944]、Kneser[1950]、Szele[1950]、Birkhoff[1948, 1967]、Felgner[1967]、Bernays[1974]やその他の寄与と共にどんどん増加している。原理は関係における条件、帰納的条件(部分集合の集合に限界を定めることに役立つ)内の部分集合の集合における構造、存在が断言される(議論される基礎オブジェクトの性質は言うまでもなく[e. g., Janiszewski[1910]の場合、等])オブジェクトの型に従って区別される。
たとえ一般的概要を変えるであろう更なる事実が暴露されなくても、ここで与えられた歴史は帰属の疑問に対する簡潔で完全公平な解決を排除するには十分にもつれている。Semadeniはポゥランドの同僚達に"優先権を巡る論争を始めずに、用語'Kuratowski-Zorn原理'を使うことは不適当ではないかも知れない"[Semadeni 1968, 146]と示唆した。疑問を解決させない方がもっと良い。一般的問題に対するもっと大局的な解法は、容易な簡潔化を許さないもつれ全体にもかかわらず、私達数学者が私達自身及び私達の学生達を私達の分野の歴史にもっと詳しくなるような教育を努めることであろう。

謝辞
(略)

ノゥト
(略)[訳注: 面白いことが書かれているので関心ある人は原文を参照して下さい]

参考文献
(略)

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今回紹介するのは abc 予想の証明に関する最近の動向を伝えている記事です。 これを選んだ理由は素人衆が知ったかぶりに勝手なことを書いているのをネット上で散見するからです。ここで言う素人衆は日本のメディアはもちろんのこと、馬鹿サイエンスライターも当然含みます。昨年末(2017年12月16日)に某新聞が誤報に近いことを報道したことも記憶に新しいでしょう。そんな情報に振り回されないために今回の記事です。 今回の記事は正確かつ公平だと私は思いました。私の友人共の何人かは、この方面の専門家だから門外漢の私はいろいろなことを教えてもらいました。その上での感想です。 その方面の専門家でなくても数学の研究者なら望月論文は無理でもレポートは読めるはずなので、もっと詳しく知りたい人はレポートを読んで下さい。 前置きはこれくらいにして、紹介する記事は" Titans of Mathematics Clash Over Epic Proof of ABC Conjecture "です。その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] ここに至るまでの経緯については" 数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明 "を読んで下さい。その記事は2015年12月にオックスフォードで行われた望月論文に関する初めての国際的ワークショップより前の話が書かれています。 このワークショップはいろいろ評価が分かれるけれども、私が聞く限り、大失敗だと言う人が多いです。実際、私の海外の知人の一人がワークショップに参加しており、ボロクソに言ってました。 このワークショップを境に、海外特に米国では望月論文を理解しようとする熱意が急速に薄れたように感じますし、ショルツ、スティックス両博士の異議申し立てが出るまで実質何の音沙汰もない状態でした。 [追記: 2018年10月23日] 私の友人共に指摘されたのですが、この記事の私訳を読む人の殆どが日本の全くのド素人なんだから、たとえ原文に記載されていなくても誤解を生じさせないように訳者が万全を期するべきだと言われました。 記事に出て来る Publications of the Research Institute for Mathematical Sciences (略してPRIMS)

数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明

前回紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "はもちろん一般大衆向けの記事です。数論、数論幾何学、IUTT(宇宙際タイヒミュラー理論)のいずれかの専門家なら、そんな記事を読まなくても、そこまでに至る経緯は十分に承知しています(何故なら自分達の飯の種を左右する問題だから)。その方面の専門家でなくても数学研究者なら数学コミュニティ又は数学界を通して大概の経緯を聞き及んでいます。 私の身辺(私の友人共はすべて何らかの形で数学研究に携わっているので、それらを除きます)でその記事を読んだ感想は"そんなに拗れるのは不思議だ。もっと経緯を知りたい"というのが多かったです。その身辺の彼/彼女等はもちろん素人衆ですので、望月新一博士の名前も報道でしか聞いたことがないし、数学で何故これほどまでもつれるのか不思議でならないそうです。彼/彼女等は至って真面目です(何故こういう事を書くかと言うと、素人衆と言っても千差万別で、中にはネット上で国家高揚か日本民族高揚のために望月博士のことを書いているとしか思えない不逞の輩がいるからです)。そこで、それらの真面目な人達のために今回紹介するのは2015年10月の Nature 誌に載っていた" The biggest mystery in mathematics: Shinichi Mochizuki and the impenetrable proof "です。 何故これを選んだかと言うとエンターテイメント性があり、素人衆でも面白く読めるだろうと思ったからです。但し断っておきますが、いろいろな数学者の証言を繋ぎ合わせて望月博士の心情を勝手に推測するのははっきり言って妄想であり、さすがエンターテイメント性を重視して堕落した Nature 誌だけのことはあると私は思いました(あのSTAP論文を掲載したことも記憶に新しいでしょう)。 その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] この記事は2015年12月に行われたオックスフォードでのワークショップより前の話です。このワークショップは望月論文に関する初めての国際的な会合で、この記事でもこのワークショップにかなりの期待を寄せているところで終わっています。 しかし、いろいろ評価が分かれ

谷山豊と彼の生涯 個人的回想

数学に少しでも関心のある人なら、フェルマーの最終予想が、これを含む一般的な志村予想を証明することによって解決されたことは御存知でしょう。この志村予想は、かって無知と誤解によって谷山-志村予想と呼ばれていました。外国では更に輪をかけて(と言うよりもアンドレ・ヴェイユの威光によって)谷山-志村-ヴェイユ予想と呼ばれていました。ヴェイユがこの予想に何ら関係しないことは、故サージ・ラング博士によって実証されました。それでも、谷山-志村予想もしくは谷山予想と呼ぶ人がまだ散見されます(散見と言いましたが、日本人ではかなり多いです。国民性に依存するのかどうか知りませんが)。私は数論を専攻したことがなく、ずぶの素人ですが、志村博士が書かれた記事や自伝"The Map of My Life"を読み、何故志村予想なのか納得しました。ここで込入った話を書くことは不可能なので、分り易く言えば、故谷山氏は何ら予想の内容にタッチしていないと言ってもいいかと思います。勿論、その周辺は谷山氏の研究分野でしたから周辺にはタッチしていたでしょうが、志村博士は全く独立にきちんと予想を定式化しました。ですが、谷山氏と志村博士はいわゆる盟友関係であり、また谷山氏の不幸な亡くなり方を悼む日本人的感情(つまり、センチメンタル)から日本人は谷山-志村予想と頑なに呼んでいるのだと私は理解しています。ですが、これは数学なのであり、事実を直視しなければいけないと思います。また、最終的に志村予想は証明されたのですから、何とかの定理と呼ぶべき時期だと思います。この"何とか"に何を冠するかはいろいろ意見があるようですのでこれ以上は触れないでおきます。 さて、志村博士の"The Map of My Life"の第4章、18節に"18. Why I Wrote That Article"があります。ページ数で言えば145ページ目です。タイトルが示している"あの記事"とは、志村博士が英国の専門誌 Bulletin of the London Mathematical Society に発表した" Yutaka Taniyama and his time, very personal recollections "

識別の危機

昨年紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "の元記事はもちろん大衆向けのオンライン科学ジャーナル Quanta Magazine に掲載されたものですが、著者はErica Klarreich女史です。彼女はサイエンスライタではあるけれども、歴とした数学者です。しかも、幾何的トポロジで彼女の名前を冠した定理を持つくらいの立派な方です。何故こういうことを書くかと言うと、IUTを支持するイヴァン・フェセンコ博士がKlarreich女史をいかにも素人呼ばわりした非常に下らないドキュメントを書いたからです。大学にポストを持っていなければ全員が素人なんですかと問いたいくらいです。これでは世界からIUT自体が白眼視されるのも無理からぬことだと思いました(本当のところは全く違う理由からなんですが、話せば切りが無いので止めておきます)。 さて、今回紹介するのはディヴィド・マイケル・ロバース博士が書いた記事" A Crisis of Identification "です。ロバース博士と言えばショルツ、スティクス両博士のリポートが公開された直後からキャテグリ論の専門家として非常に冷静な分析をされていたことに私は感心してましたから直ぐに記事を読みました。一つの不満を除いて非常によく書けていると思います。" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "も勿論読み応えのある立派な記事でしたが、どちらかと言うとドキュメンタリ風の記事でしたし、読者層が一般大衆であることを考慮してあまり数学を前面に出していませんでした。ロバース博士の記事はもう完全に数学を前面に出しています。 前述した一つの不満はグロタンディーク氏のことにスペィスを割いて結構触れていることです。今のABC予想の置かれている状況とはあまり関係がないと私は思いました。やはり大衆受けを狙ったのかと感じました。まぁ、日本でも素人には何故かグロタンディーク氏は大人気ですから(捏造されたエピソゥド、つまりグロタンディーク素数がどうたらこうたらに踊らされて?)、それはそれで良いのかも知れませんが。 前置きはこれくらいにして、この記事の私訳を以下に載せておきます。なお著者の注釈欄を省いていますが、注釈へのインデクスはそのままです。 [追

数学教育について

聞くところによれば、関数型プログラミング言語の流行とともに数学の圏論がブームだそうで。圏の概念が他の数学の分野を全く知らない人でも意味が分かるのか疑問を持っています。その理由は後で述べます。 私の手許に故Serge Lang博士の名著"Algebra"があります。この本は理由があって、何と大昔の1974年の初版第6刷です。非常に貧しい学生だった私に恩師が2冊持っているからと言って1冊を下さり、私の生涯の宝物です。 仮に数学を代数学、幾何学、解析学という全く意味が無い区分けをしたとします。意味が無いと言うのは、例えば多様体論なんかはどの分野にも入るからです。そうであっても無理に区分けしたとしましょう。この3分野のうちでも、代数学(厳密に言えば抽象代数学です)が、勉強するだけなら(あくまで勉強するだけですよ、研究となれば別の話です)数学的予備知識も数学的センス(故小平邦彦博士の言うところの"数覚"、位相群で有名だった故George W. Mackey博士の言うところの"数学的成熟度"、まぁ簡単に言えば数学的才能ですね)も全く必要としません。必要なのは論理を追うための忍耐力と言えます。ですから、理解出来るか否かは別にして、代数構造を"言葉"として吸収することは誰にでも出来ます。数学のどの分野を専攻してもLang博士の"Algebra"程度の知識は"言葉"として知っていなければ話にならないのです。数学での代数学は、私達が日本語や英語等でコミュニケーションするのと同じく、数学の言語なのです。 Lang博士の"Algebra"には、第1章群論の第7節に早くも"圏と関手"が登場します(ページで言えば25ページ目です)。ついでながら、この圏、関手という日本語は全く元の英語が想像出来ないので、以降カテゴリ、ファンクタと書きます。 ところで、Lang博士はブルバキにも入っていた人ですから、こういう抽象度が高い概念を重要視しているかと思いきや、決してそうではないのですね。元々カテゴリ、ファンクタ(ファンクタの方が重要な概念でして、カテゴリはファンクタが扱う対象物です)は、ホモロジー代数の一部として提案された概念です。ホモ