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フィールズ賞受賞者ピーター・ショルツへのインタヴュー

今回紹介するのはピーター・ショルツ博士への最新のインタヴュー記事"Interview with Fields Medalist Peter Scholze"(PDF)です。これはEMS Newsletterの6月号に掲載されました。しかし、残念なことにせっかくのインタヴュー記事なのにもかかわらず、インタヴューワの質が低いため、私がこれまでに読んだインタヴュー記事の中でも最低の品質です。通常、インタヴューワの任務はインタヴュイーに出来るだけ語らせることなんですが、今回の記事はインタヴューワの質問する文章の長さがインタヴュイーの回答する文章よりも圧倒的に長いという非常に特異なものです。私も初めて見ました。
またインタヴューワであるUlf Persson博士の質問の大半が自己主張の集まりで、インタヴューではなく、対談か討論と勘違いしているのではなかろうかと思ったくらいです。私と同じ感想を海外の知人達も持ったようで非常に不評です。そして、前述の私の感想は一読者としてEMS Newsletter編集部に伝達しました。海外の知人達も同様の感想を送ったようです。
ショルツ博士はボン大学教授であるのみならず、あの若さでマックス・プランク数学研究所の所長も併任しており、非常に多忙です。それなのに結果的にお粗末なことになったものに時間を割かなければならなかったショルツ博士の心痛を思うと気の毒でなりません。
前置きはこれくらいにして、その私訳を以下に載せておきます。なおショルツ博士のインタヴュー記事は前にも"2012年当時のピーター・ショルツへのインタヴュー"を紹介しました。これも読んでいただければ幸いです。

[追記: 2019年12月12日]
ピーター・ショルツ博士の記事については他にも"数論の賢人"があります。

[追記: 2023年01月06日]
ペータ・ショルツェ博士が証明に対して実に真摯なことが分かるものとして“証明支援系が一流数学へと飛躍する”があります。

フィールズ賞受賞者ピーター・ショルツへのインタヴュー
2019年06月 Ulf Persson(チャルマース工科大学 スウェーデン ヨーテボリ)、EMS Newsletter編集委員

UP(Ulf Persson): フィールズ賞の新受賞者全員に訊ねる、私の標準的な、ちょっと愚かな質問から始めさせて下さい。すなわち、受賞するのは驚きでしたか?
PS(Peter Scholze): 私が受賞するはずだという噂を数年間予め聞かされて来たことを考えると、いろいろな意味で驚きではなかった。しかし、その噂によって私はプレシャを感じていたので、私が受賞すると知らされた時、安堵も感じた。

それで今、フィールズ賞受賞者であることが被る期待感に沿うプレシャを感じていない?
それを操作出来ると思う。

それでリオで注目の的、特に授賞式にいる体験はどうでしたか? ところで、これが貴方が出席した最初のICMでしたか?
いいえ、ソウルのも参加した。私達はミーディアの注目、受信するであろう電子メイルの数について警告されていた。

それほど悪かったのですか? 私はブラジルよりも韓国のミーディアの注目がずっと強かったと思いました。
授賞式でFigalliは携帯に200の電子メイルを既に受けたと私に見せた。

それは大したことではありません。ソウルでは私が思うに受賞者達は何千人の群衆の中に陥り、彼等と連絡することが非常に困難でした。Figalliは私とすぐに連絡がつきました。
彼は非常に有能だ。

私ははっきりそんな印象を受けました。ところで、貴方は既に受賞者達を知ってましたか? 私が若かった時、受賞者達の名前は私にとって既に馴染みでしたが、前世紀の終わりから受賞者達の殆どを私は知りませんでした。私は貴方を以前から知っていましたが、他の3人の名前を聞いたことがありませんでした。それは数学が非常に大きな分野になり、人々が彼等の専門に余りにも巻き込まれて概観を持てないことを反映しているのでしょうか? それとも私が老いて疎くなっているのでしょうか?
何と言ってもヴェンカテシは数論学者であり、もちろん私は彼を知っていた。Figalliも前に会ったことがあったが、私はBirkarの研究を知らなかったことを認めなければならない。はい、数学がより大きい分野になっていると思う。

貴方は早くリオを去りましたが、それは貴方が注目から逃げたいからだったのでしょうか?
実際のICMの前にリオで非常に素晴らしい会合に既に参加していた。その間に、リオそのものを見る機会を持ったし、ある時点で私は家に帰りたかった。貴方が私を見失ったことをお詫びします。

その埋め合わせを今しています。それで、この前触れの後、もっと系統立てて始めから開始しましょう。貴方の経歴について。ベルリンで貴方は育ちました?
それは正しいです。

貴方の両親は何をしているのですか?
父は物理学者であり、母はコンピュータ科学で世に出た。

それで、どのようにいつ貴方は数学を見つけたのですか? 学校で教えられる標準的な数学よりももっと興奮させる実際の数学のようなものがあることを貴方に伝えられる良き教師がいたのですか?
私には良い教師達がいたが、私も非常に数学に惹かれた。

詳しく述べていただけますか?
私が15歳か16歳頃の時、フェルマーの最終定理が証明されていたことを知り、証明が何に関するものなのか、すなわち楕円曲線、モデュラ形式等を理解しようと努めた。何も分からなかった。実際、私は行列が何であるのか知らなかったが、非常に魅力的だった。

しかし、どのように? 殆どの生徒達はこれに巡り会わないだろうし、貴方にそれを指摘したのですか?
正確に憶えてないが、それが正に私が良い教師達を持ち、数学五輪で多くの同好の生徒達と会う役割を果たした。

これは若く急成長する数学者達にとって自然だと思います。何と言っても私達は幼い年齢で数を親しみ、遊んでいただろうから。しかし、貴方は理解不足によって落胆しなかったのですか?
いいえ、とんでもない。それ全体がワクワクさせ、私に大変興味を持たせ、それ全体が意味したことを学ぼうと没頭したから...

...それは分かります。私も同様の経験があります。もっと初等的なレヴェルだけれども、ハーディのテキスト本Pure Mathematicsに出会った時でした。不思議なシンボルを持つそれらの公式全体が私には魔術のように思え、幸せへの道はそれらを理解し、馴染むことだと私は考えました。すみません、続けて下さい...
...それで、私は実際に系統立てて謎を解き明かす計画を始めた。

それで貴方はすべての中心に飛び込んだと言えるのでしょうか?
私はそう思う。

しかし、数学の他の部分、例えば微積分。ギムナジウムでそれをしなかったのですか?
未だだった。計画した時点で、微積分をやるには私が年少過ぎた。それで微積分、複素解析、代数や独学の過程の部分として密かに取り上げたすべて。

いつアビトゥーア[訳注: ドイツの大学進学資格]を取得したのですか?
19歳の時。

それは通常の年齢です。だから貴方は表面的な意味で神童ではなかった。しかし、貴方は数学五輪に参加したと私は知っています。いつ始めたのですか?
7年生(第7学年と同等)[訳注: 日本の学年で言うと中学1年生]の時にいくつかの地域の五輪で始めた。後に私は国際五輪に達することが出来た。

貴方は再三金メダルを見事に獲得しましたね?
それは本当です。私は出来ないと思っていたし、前にそれらを獲得した人達は私よりずっと優れていると考えていた。しかし、驚いたことに私も出来た。

では、それらの見せ物に対する貴方の意見は何であり、それらはいい事なのかそうではないのか?
ラポポート[訳注: 数学者ミヒャエル・ラポポート博士のこと。ショルツ博士の師匠でした。ついでながらラポポート博士の師匠はあのピエール・ドリーニュ博士です]ほど私はネガティヴではないが、鈍感で不自然な組合せ問題によって人々が進路を見失う危険性が見られる。

しかし、貴方に自信を与えたでしょう?
そう思う。

数学五輪の問題を通常得意とする人達は技術的に力強い、または少なくとも能力的にそうなります。研究数学者として、特に適正に自立したい時、そんなスキルは貴重です、十分ではないけれども。
そうです。数学は問題解決(時間制限は言うまでもなく)以上のものであり、私を興奮させるのは大局的な理解を得ることだ。

実際の名称が意味するように、五輪は数学を運動競技の一つの形式に変えていると貴方は言ってます? 数学における競争に対する貴方の思いは何ですか? 貴方が非常に成功しているように、人は貴方が競争を生きがいにしているだろうと思うかも知れません。
先ず数学五輪について。私がそれらから得た主要なものは実際には社会的側面だった。興味を共有出来る世界中の人達と会うことは素晴らしかった...

...それは確かに私の経験でもありました。すみません、続けて下さい...
そして競争的側面について。既に言った通り、私が数学から得るものは理解することのワクワク感であり、ベストであることは必ずしも私にとって重要ではない。他方、競争の或る要素は確かに良いと思う。それが私達にベストを尽くさせる。

気を引き締めるためにと貴方は言っている?
はい、そういう表現の方がよければ。

チェスでは、全ポイントは誰がベストなのか見ることだと言う。競争の無いチェスは無意味だろう。従って、チェスでは私達の関与を必要としないアルゴリズムを通して人々を公平かつ正確に順位付け出来る。数学で同じシステムがあるなら、雇用が大いに円滑になるであろうが、数学では人々を線型的に順位付け出来る意味のある方法は存在しない。それをするには数学が余りにも大規模で多様化している。しかし、近年いろいろな指標が強調されている。すなわち、引用指標、h-指標やその他何でも。それが勿論客観的で内容に何ら関心しなくても計算出来るから官僚達は好んでいる。必要なのはグラフを書くことだけ。連結点そのものは何も意味を為さない。それが数学競争の茶番劇を作っている。
貴方が意図していることは分かる。指導的数学者として確立した時までにはそれでも多分2つのh-指標を持っていた何人かの非常優れた人々を知っている。

過去において、人々は彼等の研究それ自体で判断されたが、今や人が多すぎて無理があることを案じる。発表される数学が余りにも多すぎませんか? 結局、書かれた論文の殆どがそれらの本質的価値のためではなく、出世や発表と引用のリストの改善に必要だから発表されている。けれども、殆どの論文が審査委員によって少なくとも読まれるなら幸運です。
その問題については何ら意見を持っていない。私自身の分野において、これは深刻な問題ではないと思う。

さて、元に戻りましょう。そこで貴方は19歳で、数学で極めて進んでいました。何をしたのですか?
その時私は米国で勉強すべきかどうか悩んでいたが、どういう訳かドイツにいたかった。それでも生まれ故郷のベルリンを去りたかった。代数幾何学者のAltmannに連絡したが、彼はボンを提案し、ラポポートに言及した。

ラポポートは貴方に関してちょっと特別で、貴方の数学五輪でのパフォーマンスは彼に問題にされなかった。私が察するに貴方が山師かも知れぬと疑ったから、彼は貴方に過酷な尋問を課した。言わば不快な思いをしている体験はどうでしたか? 彼に貴方が山師ではなくもっと現実だと確信させるのに時間がかかりましたか?
特に厳しい扱いを受けた記憶は無い。しかし、ラポポートは貴方も知るように非常に真剣な人だ。

知ってます。
他に質問は?

貴方を留めておくことは嫌ですが、もう少し言わせてください。すぐに貴方は大学院生として入学した理解しています。
違う。ラポポートは私が大学数学課程を履修して通常のシステムを通過すべきと強く要求した。しかし、彼は考えるべき少数の問題を私に与えた。

彼はおそらく貴方の一般的な数学教養について関心があった。貴方は憤慨しましたか?
いいえ! 当時私が楽しくなかった唯一のことは物理の実験だった。

何歳で学位論文を終えたのですか?
24歳の時。

それは特別ではないが、その前に貴方は特別なことをやったと推測します。
悪い場所でモデュラ曲線のL-函数を計算する簡単な方法を見つけていた。少し後に、GLnに対するラングランズ対応の証明の主要ステップを簡単にするためにこれらのテクニークを使えるだろうと分かった。それに対して私はクレイのスカラシップを受けた。

そしてボンの外へ貴方の名声が拡がったと推測します。
多分そうでしょう。

今貴方は人々と共同研究してますか、もしくは貴方のレヴェルでない誰かと有益に共同研究をすることは実際には不可能なのでしょうか? ガウスが数学で他の誰かと共同で研究していると考えることは困難です(物理については私達が知っているように違った)。
もちろん私はしている。仲間達と私のアイディアを共有することが好きだ。

数学は非常に社交的学問です。
確かに。

それで、貴方に対するモラル的質問を構築させてほしい。Aが成立すれば、例えばリーマン仮説が成り立つことを貴方が発見したとしましょう。貴方は沈黙し、誰かがAを証明するまで待ち、建築物の最後の煉瓦を入れる人が通常主なクレディトを得るので、その時に介入しますか?
これは私の興味を引かない或る不自然な推論的質問のように思える。

よく分かりました。貴方の指導者であるラポポートとの共同研究はどうですか? 彼の側では主に提案に関していたのか、もしくは貴方が詳細に従事した所ですか?
一般的提案に関するものだった。

だから貴方はこの点で自立している。ところで貴方はたくさん読みますか? そして、そうなら始めから終わりまで系統立てて読むのか、それとも肝心の部分を探しながら走り読みするのですか?
私はたくさん読む。いくつかの本は始めから終わりまで読む。特に新しい分野の基礎を習おうと努力している時だ。だが、そうではなく私が気をつけている情報を探すため論文を走り読みすることがよくある。

貴方は非常に数学に集中しているように思います。他に関心を持っていますか? 数年前ボンのカフェテリアで誇らし気にラポポートが初めて私に貴方を指し示した時、貴方はギプスをはめていた。貴方はスキーヤですか?
ああ、違います、これは全く馬鹿げたアクシデントで、何ら競技活動と関係が無かった。他にも、スキーをするなら私はクロスカンチュリをする。数学に私の思考は非常に集中している。

針路を変えましょう。数学で貴方のしていることは主に好みの範囲であり、貴方の好みは早期に形成されました。貴方が不快だと思う数学の部分がありますか?
[長い沈黙]ええと、私が他よりもずっと好きな数学の部分が確かにあり、証明のスタイルかも知れない。

たとえ論理的に完璧でもそれは大局的理解を許さないが、貴方に影響を及ぼすから?
証明はアイディアに基づくべきであり、使用される方法はどうにかしてアイディアと両立すべきだ。

証明は自然で包括的構造の部分であるべきだと主張したグロタンディークを思い出させます。彼は手品とアドホックな侵入を憎んだ。証明は単に形式的な立証ではなく、教訓的で説明でなければならない。
それは言うまでもない。

貴方のお母さんはコンピュータ科学で世に出たと貴方は言いました。貴方はプログラミングをしますか? これは昨今数学を得意とする子供達にとって当然なものですが、私が子供の時には入手可能ではなかった。貴方がプログラミングするのなら、どのようにプログラミングと数学を比較しますか?
15歳で数学と出会う前に私はプログラミングをした。コンピュータゲイムを設計さえもした。だが、それは全く子供じみていたし、数学に捕らわれた時にプログラミングを辞め、それを再び取り上げることはなかった。私のプログラミング経験は子供のそれであり、数学経験は成熟したプロの大人のものだから、何らかの比較を出来ない。

私は個人的にクロスワードに興味が無いけれども、プログラミングはクロスワードと同類のくつろぎだろう。結局成功するだろうことを必ず知っており、コンピュータに頻繁に介入し試行錯誤出来る(数学では不可能なやり方)のだから、数学でのように行き詰ることは決してない。しかし、如何に多くの間違いを拵えているかも発見する。数学論文についても同じだろうか? もちろん殆どが修正可能だろうが、結果に面白みが無く、誰も結果に注意を払わない(著者ですら注意を払ってないかも!)のだから、誰も発見しないだろう深刻な誤りがあるかも知れない。だが、もちろん誰かが重要な仮説を証明したと主張するのなら、証明は情け容赦のない審査を受け、深刻なギャップが発見される場合が少なくない。いくつかの場合ではアプロゥチの全崩壊となる。これもおまけに高く評価されている数学者達に関してだ。
まぁ、それは多少真実だが、私はまだ数学文献に非常に信頼を置いている。きっと私がよく知っている部分おいて。ところで、どれくらいの時間を貴方は必要とするのですか? 私は次の講義を失いたくない。

心配ご無用。貴方はすぐに後れを取り戻すでしょう。そして、このようなインタヴューはいらいらさせるための質問の予定リストに基づかない。全質問のように、すべての回答が先立って考えられなかった新しい質問を連想させるという意味で開かれている。
それは非常に良いかも知れないが、この時点で私は開かれているよりも閉ざされている方が好きだ。

その場合、もはや貴方を留めておきたくない。時間を割いて下さって本当に有難うございました。

Ulf PerssonはEMS Newsletterの編集委員。彼の電話とCV[訳注: Curriculum Vitaeのこと。つまり、履歴書]はNewsletterの先の既刊号で見つけられる。

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