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グロタンディーク: 決別の神話

今回紹介する記事は久々のグロタンディーク氏関連の記事です。 ところで、何故私がグロタンディーク氏と呼んで博士を付けないか、その理由も知らない人は明らかに一見の客なので、これ以降を読まずにお引取り願いたいと思います。 紹介する記事は EMS Newsletter の2019年12月号に掲載された" Grothendieck: The Myth of a Break "(PDF)です。原著者が言わんとすることは、グロタンディーク氏は数学コミュニティ全体と決別したのではないということです。つまり、グロタンディーク氏が決別したのは数学コミュニティの一部分だという理屈です。しかし、それを言い出せば数学コミュニティとは何か、その定義が必要になって来ます。私は数学コミュニティを分割して考えること自体が無意味だと考えます。ここで私の読後感を長々と述べたら、もうそれこそ本末転倒なので止めますが、海外の知人達に送った感想のごく一部分だけを載せておきます(全部だとかなり長文になるので)。これを載せる理由は日本語という言葉のバリヤに守られて偉そうに日本語で(原著者が読めないのに?)批評を書く卑怯者達(つまり、陰口だけは一丁前。要は日本国内向けポゥズなんです。外では全く通用してないのに、内ではさも凄いことかのように見せたがる典型的な日本人の特徴であり、私が最も忌み嫌うものです)のうちに入りたくないからです。 I have no choice but to say this: the author should've, first of all, proven that what Grothendieck called the 'great world' wasn't in the least equal to the mathematical community as a whole and then continued his story. It's not too much to say that this article is worth reading; I was, however, never convinced of the author's say.  To put it another way,

数論の賢人

教養課程の線型代数をちょっとでも習った人ならケイリー-ハミルトンの定理を誰でもご存知でしょう。つまり、正方行列 A の固有多項式をf( x )とすれば、f( A )=零行列であるというお馴染みのものです。今現在、大学で教鞭を執っている友人共の話によれば、今だに学生の中にはf( x )=det( A - xE )の x に A を代入してf( A )=det(零行列)=0では駄目なんですかと質問する馬鹿がいるらしいです。大昔、友人共の一人が切れて定期考査の試験にケイリー-ハミルトンの定理を証明せよという出題をしたことがありましたが、その友人に理由を訊くと、f( A )=det(零行列)=0とするような数学デリカシの無い奴をあぶり出すためだと怒ってました。講義中の板書で 0 と書くと行列 0 なのか、それともスカラ0なのか誤解され易いから行列 0 を出来るだけ"零行列"と書こうじゃないかと皆で申し合わせしたことも今では懐かしい思い出の一つになりました。 ここまで書けば、ケイリー-ハミルトンの定理を知らない人でも上記の珍解答の何が駄目なのかお分かりになっただろうと思います。つまり、零行列とスカラ0は全く別物であるということです。もう少し補足すると、 A - xE を行列係数を持つ x に関する一次多項式であるという断わりがあるのであれば、この x に A を代入することは何ら問題ありません。但し、その場合でもdet( A - xE )は何を意味するのか不明だと私は思います。つまり、 x の一次多項式の行列式って一体何なのかというわけです。だから、普通は x をスカラであると見なし、 A - xE を行列であると考えます。数学デリカシの無い奴をあぶり出すためだと怒った友人は、珍解答が全く的外れであること以上に初っ端からスカラに行列を代入するという無神経さを怒っていたのです。det( A - xE )を展開し、行列係数の x に関する多項式を算出した上で、行列係数の各々と A の積が可換であること(何故なら、 x のべき乗をくくり出す時に x をスカラと見なして行列係数の各々との積の可換を前提して算出しているからです)を確認して始めて算出した多項式の x に A を代入することが可能なのです 。 以上を読んだ学生なら二度とこんな馬鹿げた質問をしないでしょ

エミー・ネータ告別式におけるヘルマン・ヴァイルの弔辞

一昔前に集合と位相の講義を担当した友人(この友人は集合論や数学基礎論等の専門家ではありません)が定期考査、多分夏休みの前か終了直後に行われる中間考査だと思いますが、以下の問題を出題したことがありました。 (問題) 位相空間が第2可算ならば第1可算であることを示せ。 また、位相空間が第1可算であっても第2可算であるとは限らないことを実例を挙げて、実際にそうであることを示せ。 講義に出席して真面目に勉強していたなら、少なくても問題の前半はほぼ定義そのものであるから全員が解答出来るでしょう。ただ後半は実例を知ってなければちょっと難しいのではないかと私は思ったのですが、友人の話によれば講義中に実例を挙げて説明し、更に各自実際にそうであることを確認しておくようにと言ったそうです。と言うことは前半後半関係なく、こんな初等的で基本中の基本問題を全員が解答出来るはずなのですが、結果はそうではなかったそうです。 以下に初学者のために分かりやすく解答例を書いておきます。 (解答例) 第2可算を満足する位相空間を X とする。定義により X の基本開集合系は高々可算である。 X の任意の要素 x に対して、基本開集合系の中から x を要素として含む開集合すべてを取上げて、これをℱ={ O x1 , O x2 , O x3 , ..., O xn , ...}としよう。 x の任意の近傍 U に対して、 x ∊ O ⊂ U となるような開集合 O が存在する。この O に対して、 x ∊ O xi ⊂ O となるような開集合 O xi が定義により必ずℱに存在しなければならない。すなわち、 x の任意の近傍 U はℱの要素を部分集合として含むから、ℱは x の基本近傍系であり、しかも高々可算である。 x は任意の要素だったから位相空間 X は第1可算を満足する。 第1可算を満足するが第2可算を満足しない実例として、離散位相(つまり、空間のすべての部分集合が開集合となる位相)を持つ空間 X が非可算である場合を考えよう。 X の任意の要素 x の近傍は必ず{ x }を部分集合として含み、{ x }自体が x の近傍である。すなわち、{{ x }}は x の基本近傍系であり、ただ一つの近傍{ x }だけからなる。 x は任意だったから離散位相空間 X は第1可算である。次

フィールズ賞受賞者ピーター・ショルツへのインタヴュー

今回紹介するのはピーター・ショルツ博士への最新のインタヴュー記事" Interview with Fields Medalist Peter Scholze "(PDF)です。これは EMS Newsletter の6月号に掲載されました。しかし、残念なことにせっかくのインタヴュー記事なのにもかかわらず、インタヴューワの質が低いため、私がこれまでに読んだインタヴュー記事の中でも最低の品質です。通常、インタヴューワの任務はインタヴュイーに出来るだけ語らせることなんですが、今回の記事はインタヴューワの質問する文章の長さがインタヴュイーの回答する文章よりも圧倒的に長いという非常に特異なものです。私も初めて見ました。 またインタヴューワであるUlf Persson博士の質問の大半が自己主張の集まりで、インタヴューではなく、対談か討論と勘違いしているのではなかろうかと思ったくらいです。私と同じ感想を海外の知人達も持ったようで非常に不評です。そして、前述の私の感想は一読者として EMS Newsletter 編集部に伝達しました。海外の知人達も同様の感想を送ったようです。 ショルツ博士はボン大学教授であるのみならず、あの若さでマックス・プランク数学研究所の所長も併任しており、非常に多忙です。それなのに結果的にお粗末なことになったものに時間を割かなければならなかったショルツ博士の心痛を思うと気の毒でなりません。 前置きはこれくらいにして、その私訳を以下に載せておきます。なおショルツ博士のインタヴュー記事は前にも" 2012年当時のピーター・ショルツへのインタヴュー "を紹介しました。これも読んでいただければ幸いです。 [追記: 2019年12月12日] ピーター・ショルツ博士の記事については他にも" 数論の賢人 "があります。 [追記: 2023年01月06日] ペータ・ショルツェ博士が証明に対して実に真摯なことが分かるものとして“ 証明支援系が一流数学へと飛躍する ”があります。 フィールズ賞受賞者ピーター・ショルツへのインタヴュー 2019年06月 Ulf Persson(チャルマース工科大学 スウェーデン ヨーテボリ)、 EMS Newsletter 編集委員 UP (Ulf Persson)

志村五郎博士著"The Map of My Life"のAppendixより"あの予想"

世界で最初に"有理数体上の楕円曲線はモデュラである"と提唱したのは志村五郎博士ただ一人であることはずっと前に紹介した" 谷山豊と彼の生涯 個人的回想 "、" 志村-谷山予想の或る由来 "で度々言って来ました。 今回紹介するのは志村博士の The Map of My Life のAppendixから"That Conjecture"を紹介します。これを読めば志村博士がいわゆる"谷山の問題"をどうとらえているか分かると思います。志村博士は数学者ですから、日本人によくありがちなセンチメンタルで幼稚な感情を持ち込むことなく冷酷に論評しています。 その私訳を以下に載せておきます。当たり前ですが原文へのリンクはありません。原文に興味がある人は The Map of My Life を購入しましょう。 [追記: 2019年05月04日] つい先ほど、志村博士が3日に米国で死去されたというニューズを知りました。 ここに謹んで哀悼の意を表します。 [追記: 2019年06月06日] 志村博士の The Map of My Life についてはこれまでにも、' 志村五郎博士著"The Map of My Life"より抜粋 '、' 志村五郎博士"The Map of My Life"の書評 '、' 志村五郎博士著"The Map of My Life"より重要資料の手紙三編 'と取り上げて来ました。 あの予想 2008年 志村五郎 タイトルは有理数体上のすべての楕円曲線がモデュラ函数で一意化され得るという私の予想を指している。私はこれを1964年の9月にJ.-P. Serre及びA. Weilに話した。この出来事は多くの研究者達によく記録され知られている。その命題は約30奇数年後に証明されたから今や定理である。他方、谷山豊は1955年に問題という形で命題を作ったが、それは私の予想に或る関係を持つ。私を除き、どの数学者も彼が言ったことと私が言ったこととの差を正確に理解しなかったも同然ということが私の印象だ。従って、この節において私はこれらの諸点を詳しく説明

数学教育について

聞くところによれば、関数型プログラミング言語の流行とともに数学の圏論がブームだそうで。圏の概念が他の数学の分野を全く知らない人でも意味が分かるのか疑問を持っています。その理由は後で述べます。 私の手許に故Serge Lang博士の名著"Algebra"があります。この本は理由があって、何と大昔の1974年の初版第6刷です。非常に貧しい学生だった私に恩師が2冊持っているからと言って1冊を下さり、私の生涯の宝物です。 仮に数学を代数学、幾何学、解析学という全く意味が無い区分けをしたとします。意味が無いと言うのは、例えば多様体論なんかはどの分野にも入るからです。そうであっても無理に区分けしたとしましょう。この3分野のうちでも、代数学(厳密に言えば抽象代数学です)が、勉強するだけなら(あくまで勉強するだけですよ、研究となれば別の話です)数学的予備知識も数学的センス(故小平邦彦博士の言うところの"数覚"、位相群で有名だった故George W. Mackey博士の言うところの"数学的成熟度"、まぁ簡単に言えば数学的才能ですね)も全く必要としません。必要なのは論理を追うための忍耐力と言えます。ですから、理解出来るか否かは別にして、代数構造を"言葉"として吸収することは誰にでも出来ます。数学のどの分野を専攻してもLang博士の"Algebra"程度の知識は"言葉"として知っていなければ話にならないのです。数学での代数学は、私達が日本語や英語等でコミュニケーションするのと同じく、数学の言語なのです。 Lang博士の"Algebra"には、第1章群論の第7節に早くも"圏と関手"が登場します(ページで言えば25ページ目です)。ついでながら、この圏、関手という日本語は全く元の英語が想像出来ないので、以降カテゴリ、ファンクタと書きます。 ところで、Lang博士はブルバキにも入っていた人ですから、こういう抽象度が高い概念を重要視しているかと思いきや、決してそうではないのですね。元々カテゴリ、ファンクタ(ファンクタの方が重要な概念でして、カテゴリはファンクタが扱う対象物です)は、ホモロジー代数の一部として提案された概念です。ホモ

マイケル・アティーヤ卿への最近のインタヴュー

先ずいきなりですが、John L. Kelleyの有名な本 General Topology の序文の一番先頭の段落を以下に抜粋します。 "This book is a systematic exposition of the part of general topology which has proven useful in several branches of mathematics. It is especially intended as background for modern analysis, and I have, with difficulty, been prevented by my friends from labeling it: What Every Young Analyst Should Know." 私は学生時代にこの General Topology を熟読して位相空間を学んだものでした。私のみならず友人共も皆そうでした。英文も非常に易しく(と言うか、数学書の欧文はどれも一般的に易しいのです。しかし、数学エッセイとなると話は別です)、数学的内容はともかくも、はっきり言えば中学生でも読めます(とは言っても数学書でよく出て来る"so that"と"such that"の違いや iff くらいは教えてあげないと駄目でしょうが)。しかし、この本すら和訳本がかってあったと友人共の一人から聞いて非常に驚きました。そして、その友人はその和訳本を持って来て私に「初っ端の序文の最初の段落で誤訳がある有名な本だ」と言って笑いながら私に見せてくれました。その和訳本の序文の最初の段落(上記の英文に対応します)を以下に抜粋します。 「本書は、数学の幾多の分野において重要性を認められた位相空間論の系統的な記述である。特に近代解析学への背景となるべく意図されたものである。私の友人達も解析学の若い研究者の誰もが知るべきことを示そうという私の意図を妨げ得なかった。」 英文と和訳を見比べておかしいと思わなかった人ははっきり言って英語力零と言っても過言じゃありません。英文で言えば2番目の文章の2番目の文節が和訳と正反対の内容だと気が付きませんか? 先ず"with difficu

Winfried Scharlau著アレクサンドル・グロタンディークとは何者か? 第一部 混乱よりプロゥログ: ブロンズ胸像

前に紹介した" 虚空―あたかも虚空から呼出されたかのように: アレクサンドル・グロタンディークの人生 前篇 "、" グロタンディークとは何者か? "、” アレクサンドル・グロタンディーク―名前でのみ知られる田園 "の前置き及び追記で度々Winfried Scharlau博士の労作 Who Is Alexander Grothendieck?  Anarchy, Mathematics, Spirituality, Solitude について触れて来ました。この本は元々の独語版と英語版のみです。その理由は” アレクサンドル・グロタンディーク―名前でのみ知られる田園 "の前置き及び追記で散々述べましたのでここでは繰り返しません。 この本は4部(第二部と第四部は未だ執筆中です)に分かれていますが、少なくとも第一部のAnarchyを読む限り、Scharlau博士はグロタンディーク氏に感情移入することなく多くの貴重な資料から事実だけを淡々と積み重ねて、いわば叙事詩のような感触を受けました。しかし、一箇所だけ素晴らしく叙情的な逸話があります。それが初っ端のプロゥログです。この逸話に出て来る青年がグロタンディーク氏であるという決定的証拠はありませんが、状況的に氏以外には考えられません。 そのプロゥログの私訳を以下に載せておきます。なお原文へのリンクは当たり前ですがありません。これを読んで皆さんも原書を購入する切っ掛けになれば幸いです。 [追記: 2019年12月28日] グロタンディーク氏の数学コミュニティとの決別に関して論じたものとして" グロタンディーク: 決別の神話 "があります。 Winfried Scharlau著アレクサンドル・グロタンディークとは何者か? 第一部 混乱よりプロゥログ: ブロンズ胸像 1949年パリス[訳注: パリという馬鹿丸出しのカタカナ表記を止めましょう]。 Rue des Fontaines du Temple [訳注: フォンテーヌ・デゥ・タンプル通り]は市の3番目の行政区であるマレ地区にある短く狭い通りだ。ここに婦人向け毛皮ジャキツとコゥツの製造者のJacquesとLaila R.のアテリエィ且つお店がある。彼等は田舎の小さな村で戦争の恐怖を生き

私が見て来た小平邦彦

先日の日誌に、故Serge Lang博士の"Complex Analysis"を入院先に持ち込んだ話を書きましたが、函数論は私の専攻分野(の中に含まれる)でしたから読むのに時間はかかりませんので、同時に持込んだのは、これまた名著と言われる、故David Bohm博士の"Quantum Theory"です。私が最初に量子力学を勉強したのは、故P.A.M Dirac博士の"The Principles of Quantum Mechanics"でしたが、読んだ人なら御存知の通り、物理実験の話は一切出て来ません。せいぜい、第一章の重ね合わせの原理のところで、光の偏光、すなわち光子の振舞いについて少し触れているだけです。それはそれで、私のような数学科の人間には助かるのです。と言いますのは、実験を長々と説明されても、そうかと思うだけで実感出来ないからです。実験器具なぞ、高校以来触ったこともなければ、見たこともない人間には苦痛以外の何物でもありません。喩え話として、熱があっても体温計を見たことも測ったこともない人に、熱があるのは約37度以上だと説明しても、おそらくは常に体温計を見ない限り、何度くらいで熱があるのかすぐに忘れるでしょう。ですから、前期量子論の話はいつも黒体の中の輻射実験から始まるのですが、私から言わせると苦痛なのです。ですが、もういいかげんな歳になり、前期量子論を知らずに人生を終えてもいいのか自問したら、まだ気力がある時点で勉強しておきたいと思って、David Bohm博士の本を持ち込みました。前期量子論を詳しく記述した和書では、故朝永振一郎博士の"量子力学Ⅰ"が名著ですが、ここまで本格的にやるのは、ベッドに寝転がって読むのに腕力もいるので敬遠しました。以上を纏めると、私は物理専攻の人にはDirac博士の本を勧めません。と言うより、物理専攻だからこそ先に読むべきではなく、Bohm博士又は朝永博士の本を先に読むべきだと思います。逆に言えば、物理専攻でない人(実験が好きで、実験的意味をすぐに把握出来る人を除く)、特に数学畑の人にはDirac博士の本を勧めます。因みに、Bohm博士の本を読むのに必要な予備知識としては、基礎的な数学(特に微積分)と教養課程の一般物理(高校物理でも可能かも。但し

ガーチュルーデュ・コクスと統計設計

いくら基礎数学(あえて純粋数学とは言ってません。この言葉はおかしいので廃止して基礎数学を私は推薦します)しか勉強したことがない人でもGertrude Cox[/gˈɚːtruːd kˈɔks/。以降ガーチュルーデュ・コクスとカタカナ表記します]博士の名前くらいは聞いたことがあると思います。私や私の友人共よりも年配の先輩がたにはコクラン-コクスですよと言えば直ぐに分かって下さいます。コクラン-コクスというのはコクス博士がコクラン博士との共著で出版した、あの名著 Experimental Designs を指します。今でこそ類書がたくさんあるようですが、私達の世代でもまだコクラン-コクスがバイブル的存在で真っ先に勧められました。私は学部時代に数学科の講座で数理統計学も履修したことがあるのですが、コクラン-コクスまでは時間的余裕が無く読んでませんでした。しかし、院生になってから環境アセスメントの関係で全く畑違いの私までが統計調査要員の一人として駈り出され、無理矢理コクラン-コクスを読まされた思い出があります。その調査団の指揮官を始め先任者は皆真剣そのものでした。と言うのは調査団は或る役所の肝煎りで結成されたからです。そのおかげで統計のド素人の私はコクラン-コクスでしごかれました。その懐かしいコクラン-コクスも今私の手元にも書棚にも残念ながらありません。幾たびかの引っ越しの際に古本屋さんに引き取って貰ったからです。 さて今回紹介するのはコクス博士のことを書いた記事" Gertrude M. Cox and Statistical Design "(PDF)です。これは今年のAMS Notices 3月号に掲載されたものですが、私は写真を見るなり思わず懐かしいと叫んでいました。実際、この写真は私がかって所持していたコクラン-コクスにも同様の構図のものが裏表紙かどこかのペィジで使用されていた記憶があるからです。 この記事を読んで思ったのですが、" 我々が数学を職業として選ぶのではなく、数学が我々を選ぶ: ユーリ・マニンへのインタビュー "のユーリ・マニン博士の言葉を借りれば、コクス博士が統計学を職業として選んだのではなく、統計学が彼女を選んだということがまさにぴったりだと感じました。だって彼女は24歳まで孤児院の寮母さんだったんですよ。