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Haruzo Hidaによる志村五郎の思い出

前に紹介した"ツォルンの補題の使い方"の前置きに登場した友人は学生達に環のイデアルを始めて教えた直後の次の講義の頭で必ず何らかの小テストを行いますが、そのような時に出す問題の一つが以下です。

(問題) a、bを0でない整数とする。gがa、bの最大公約数である必要十分条件は、a、b、gが生成する単項イデアルを各々(a)、(b)、(g)とする時、(a)+(b)=(g)であることを示せ。

友人はこの小テストをイデアルの初歩を理解しているかどうかのリトマス試験紙かのように思っているようです。しかし、私から言わせると、解答出来ない受講者がいるとは信じられないくらいの初歩的基本問題です。高校の数学教科書で言うならば、本文の合間に入っているような理解しているかどうかの問いみたいなもので、章末にあるような練習問題や演習問題ではありません。代数構造、または代数系の講座を履修する学生は数学専攻とは限りませんが、少なくとも理工系学部でしょう。解答出来なかった受講者には是非とも文系学部等へ転部することをお勧めしたいくらい初歩的です。何故なら、イデアルの初歩以前に最大公約数、約数、倍数等の算数の意味さえも理解してないように思うからです。それに、次くらいから本格的に可換体論等の話が始まるであろうから、これくらいの初歩問題を解答出来ないようでは完全に落伍して惨めな思いをするだけでしょう。ともかくも初学者のために解答例を分かりやすく書いておきます。

(解答例) gがa、bの最大公約数ならばaとbを割切るので(a)+(b)⊂(g)は明らか。(a)+(b)に属する正の整数で最小のものをcとする。(a)+(b)に属する任意の整数をdとすると、d=qc+r、0≦r<cとなるような整数q、rが存在する。r=d-qcだからr∊(a)+(b)。この時0<r<cならばcの仮定に反するのでr=0。すなわちcは(a)+(b)に属する任意の整数を割切る。cは(a)+(b)に属したから、或る適当な整数xyが存在してax+by=cと書ける。axもbyもgの倍数だからcはgの倍数でありg≦c。cはaもbも割切るからa、bの公約数でありc≦g。よってc=g。すなわち(a)+(b)∍g。これは(a)+(b)⊃(g)を意味し、先程の(a)+(b)⊂(g)と併せて(a)+(b)=(g)となる。逆に(a)+(b)=(g)と仮定する。gがa、bの公約数であることは明らか。a、bの最大公約数をfとすればg≦f。或る適当な整数xyが存在してax+by=gと書ける。axもbyもfの倍数だからgはfの倍数。つまりf≦gなのでf=gでなければならない。以上で議題は証明された(完)。

因みに言うと、これは高校数学でまだ初等整数論の初歩(主として合同式)が教えられていた時代に数学の授業を受けたことがある人なら誰もが知っている命題"gがa、bの最大公約数である必要十分条件は、或る整数xyが存在してax+by=gとなることである"のイデアル版です。

さて、話は変わります。前回、Don Blasius博士による志村五郎博士の追悼記事を紹介しましたが、7人の数学者達による追悼記事をすべて読んで、志村博士が本格的に帰国せず、米国で逝去されたことは博士ご自身、そしてご家族にとってもよかったのではないかと思いました。志村博士は長野県の某所に別荘を持っており、まだお元気な頃までは避暑を兼ねて度々一時帰国されてましたので、日本と縁を切ったのではなく、米国での生活の方が圧倒的に長いのだから米国が安住の地であり、そこからあの世へ飛び立たれたということでしょう。それに対して文句があるなら、戦前、戦中、そして終戦直後まで日本国は青少年期の志村博士に何かいいことを一つでもしたでしょうかと言いたいくらいです。志村博士のような世界的数学者が日本に戻らなくてよかったと私が思うのは、議論を呼ぶかも知れないけれども、例えば故小平邦彦博士が日本に戻って本当に幸せだったのかと疑問に感じることも一因です。

それから、海外の知人の一人が志村博士逝去を知った時、私に書いて来た文の一節に、

Most Japanese are lions at home but mice abroad. Never was the late Prof. Goro Shimura such.  

とありました。全く同感です。

Don Blasius博士による追悼記事を紹介したのだから、もういいかとは思ったのですが、志村博士と他の日本人数学者の交流逸話が書かれている記事も紹介した方がいいと再考し、今回は肥田晴三博士による追悼記事を紹介します。その私訳を以下に載せておきます。

志村五郎の思い出

2020年05月 肥田晴三

1970年代の半ば、私は京都大学で高学年の学部生で、数学を勉強し始めたばかりだった。少し前に京都で、どういうわけか土井教授と出会い、私の一友人が熱狂的な数学中毒者なので、大学レヴォゥ以上の数学本を読み始めていた。この日、土井の示唆に従い、東京教育大学での志村教授の講義に出席しようと決めた。朝に新幹線に乗り、講義の約一時間前に東京に着いた。講義で、彼はCM[訳注: complex multiplication、つまり虚数乗法のこと]アーベル多様体とそれらのモデュライ体について話した。私は既に彼の赤本[訳注: Introduction to the Arithmetic Theory of Automorphic Functionsのこと]と彼が谷山と共著した本の英語版を読んでいたから、内容がよく分かった。私の遅い始まりのため、出来る限り速く多くの数学本を病的に読んでいた。解析学、代数的及び解析的数論、ヴェイユとグロタンディーク両者の観点を含む代数幾何学の良い素養を自分に与えることを相当にやった。私の人生の、この時点より前は随分読んだが、楽しむためだった。志村が愛した中国古典を含め、読書は私の生活習慣だった。

講義の後、博士課程の学生達は講演者達に質問するために小さな部屋へ招かれた。好奇心から私も部屋の中へ歩んだ。志村は滅多にないカリズマを持ってたから、最初誰も思い切って彼に質問しなかった。私はこれを失礼だと思えたから、CMアーベル多様体に関して上手くポゥズされた質問を始めた。これは上手く行き、彼は私の目を覗き見しながら、私を初心者として礼儀正しく扱い、CM保型形式の周期の研究の重要性を強調して回答した。その次にぎこちない沈黙があり、土井が受け取った志村のプリープリンッ([15])の中で私が見たモデュライ体に関する結果と関係すると思われたので、与えられたCMアーベル多様体の極小定義体について、いくぶん不正確な質問をした。いったん私が質問を述べると(土井が私に新しい結果を見ることを許可したと断わりながら)、彼は興奮し、君は事柄について質問出来るだろうが、他の誰かから新しい結果への"推論"または"方法"を得ようと努めることは道徳的に健全ではないと言って私にぶっきらぼうに回答した。君は君自身で考えるべきであり、方法を見つけるべきだ。彼の最後の言葉は"君自身の数学をやりなさい”だった。

私は大阪-京都での伝統的商業階級の家系から来ている。私の家系は幕府時代から明治復古を通して銀行業を営むことに成功した。日本では、早くも17世紀に"米交換"(欧羅巴の株交換に似ていた)があった。勘定役人達による交換で売買される"米株"(米手形)があり、米価は(各藩主によって税として集められるものを含めて)交換で自然に決定された。銀行業(両替と呼ばれる。文字通り"貨幣交換")は三百年または四百年間繁栄した。日本は将軍の武士達(信念を貫き、中国古典に学識がある)の連合と天皇の貴族達(隠れた意味を持つ理解しにくい詩歌をよく楽しむ)によって統治されていたのに、当時の経済は非公式な資本主義だった。これが、他のエィジユン諸国が植民地である時代において日本が非常に速く自身を現代化出来た理由の一つだ。銀行業にいる人々にとって、統治する武士階級の深い理解はビジネスのために根本的である。だから、そんな家庭のどちらかの性の子供達の殆どは、人々の現行の考えを察知する方法を彼等に訓練するための、一種の家庭教師または子守または乳母がいた(表の個性は友好的に交流出来ると同時に、裏の個性は、しばしば当たり障りのないように思える質問を投げることによって、相手の意図を探り当てられるための訓練を私は言っている)。私はこの少し統合失調症的なアプロゥチの典型を学んでいた。従って、志村が私の質問に回答した時、私は冷静だったが、内心では彼の興奮によって十分に楽しんだ(私は彼と上手く付き合う方法を探していたから)。私は以後、根拠の無い意見で彼と楽しむことを避け、代わりに上手くポゥズされ推測的かも知れない質問をすることに的を絞り、必ずしも数学ではない、新しいアィディヤを彼に示すことにした。これが彼の信念の通った個性と付き合う私の方法のはずだと心中に刻んだ。

彼の講義の後すぐに、数学を手広く読む道楽を止め、内容が本当に必要だと思う本に的を絞った。これは私の時間を自由にし、1978年に発表されて私の最初の論文となった研究論文を書き始めた。1976年3月にRIMSで高木記念コンフレンスがあり、そこで私はあまり内容の無い軽い会話を志村とした(彼は私をよく憶えていたけれど)。ヒルベルトモデュラ多様体の中間次数ヤコビヤンにおけるCMシータ級数によって生成される複素トーラスの虚数乗法を造るアィディヤの種を持っていたけれども、今回彼を楽しませるものを造れなかったことを私は恥ずかしく思った。コンフレンスの後の一年で私はこの計画を終えた。土井はコンフレンスの後すぐにマクス・プランク数学研究所に向かい、1976年4月私は京都大学大学院に入った。たった2年後に札幌で次に土井に会うこととなったが、私は一人だった。幸いにも今回、プリンストンで志村と学位のための研究をした後で吉田敬之が京都に戻り、彼はヒルベルトモデュラ多様体を良く知っていた。いやそれどころか、この問題に取組んでいた間、吉田だけと喋っていた。準備が出来た時、私は結果をプリンストンの志村に書き送り、驚いたことにこれが彼を魅了した。確かに、この研究は少なくとも基礎完全実数体が奇数次数なら、ヒルベルトモデュラCMシータ級数の高次元周期がどういうわけかCM楕円曲線の周期と関連することを示唆した。ここで私はCM周期関係は当時の志村の研究の主要トピクだったことを言及しなければならない。私はこの予想を知っていたが、そのことを手紙の中にも発表された論文の中にも明確に書かなかった。いずれにせよ、土井の手助けで私は北海道大学で職を得た。土井は独逸への旅行の後、北海道大学に移っていた。北海道での私の次の計画として、モデュラ曲線の場合に対する志村の研究を拡張して、私は志村曲線のヤコビヤンのCMファクタを分類した。私は志村の補助もあり、このようにして高等研究所へ一年の訪問を申し込まれた。

私は1979年の8月にプリンストンへ到着し、すぐに志村に電話をかけた。彼は私と私の妻を家に招待した。ディナで彼は私達に楽しい質問をした。何故大阪人は一人っ子を言うのに複数形お子達を使うのか? 日本語は系統だった複数形を持ってないけれども、"達"の部分は複数形のしるしだ。商業の家庭にとって複数の子供達を持つことは一人を持つことよりも望ましく、従って話し手は礼儀作法により外見上で友好を示していると私は回答した。彼は全く納得せず、京都の貴族階級で見られる慣例から2つの反例を私に示した。これが彼の会話において典型的だった。彼は完全に予期されない質問をよく思い立ち、誰かの回答が的外れなら、彼が話すのが好きな、しばしば涙ぐましい話の種としてそれを使用した。私の回答は間違っているかも知れないが、悪くもない(少なくともどちらも証明出来ない)。この会話の後、彼は私を晴三さんと呼び始め、私に彼を五郎さんと呼ぶように言ったが、私達の会話の中で私は決してしなかった(彼は喜ばないが、私はいつも先生と呼んだ)。ディナで、私はFine Hallでお茶時間に会いに来るように言われた(すなわち、毎木曜日の午後03時)。

木曜日に先生に話すための新しい何かをでっち上げることで毎週私はずっと忙しかった。それをしなかったら、彼の短い話を聞くしんどい時間を持ったであろう。それらと付き合うために、私の会話技術すべてを必要とした。おそらく彼は私から最大限を取り出すために意図的にやっていた。私は最初の一年にかなり成功した。3つの論文を書き、後でInventionesに発表された。これらによって、2年目をIAS[訳注: 高等研究所のこと。念のため]で過ごす延長を獲得したと私は思う。モデュラ形式のp-進変形と、岩澤理論のGL(2)-版のような何かを造るためのHecke代数の使用に関して推測的アィディヤを持っていたけれども、2年目の年は難しかった。それらは当時不鮮明な考えだったし、私達の会話において一度または二度しか役に立たなかった。大した進歩が無いトピクスの繰り返しは先生との会話として役立つ戦略ではなかった。だが、誰かに雇われる芸人なら、上演する度に呼び物を造らなければならない! こうして私は会合を複数回飛ばさざるを得なかった。幸いにも、志村が発明した級数(私は志村級数と呼ぶ)も同様に、直交及びユニタリEisenstein級数のq-展開を計算するために偏フーリエ変換の使用を私は結局思い付いた。その次に私はお茶に行った。彼が私に投げた最初の言葉は"君が死んでいると思った"だった。"歌舞伎(日本のオペラ)の登場人物'与三郎とお富'のように、誰かの生存はお釈迦様でさえも分からないでしょう"と返答した。これは彼を楽しませた。私は回復し、この計算のための場所を25年後に見つけることとなった。すなわち、Siegelシータ級数の場合において、反円分主要予想を扱っているDocumenta MathのCoates巻の私の論文の中で。

それらはきつかったが、IASでの私にとって幸せな日々だった。志村は私が潜在的に持つ数学全てを私から絞ることが出来た。当時のノゥッから使える結果の良い蓄えを私はまだ持っている。彼は私にたくさんの数学を教えなかったが、本や他の誰かが書いた論文からではなく、私自身の頭脳から役立つ何かを取り出す方法に私を導いた。私の成長のために彼の普通でない骨折りに私は感謝する。彼の存在にさらばと言おう。その存在は私にとってとても気難しく、やりがいがあり、楽しかった。さようなら[訳注: 原文ではSayou-nara!です](文字通り、"人々があちらの方へ行ってしまえば、私達は別れる")。

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