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何故、英国人は'sorry'を多く言うのか?

私が前々から不思議に思っていることの一つに、何故函数論の講義で多変数もやらないのかということです。函数論の講義を受講する学生は数学専攻に限らず、他の理工系学科の学生もおそらく必須科目ですから多くの人が受講し、その素養もばらつきがあることゆえ多変数まで踏み込みにくいという事情は理解出来ますが、例えば物理学では弦理論の専門家は当たり前のように多複素変数を使用しています。もうそういう時代なんです。微積分の講義は2年目から多変数に入るようですが、一変数ごときに一年もかけずにさっさと半年くらいで終わらせて多変数に移って欲しいと思います。2年目からルベーグ積分をやればいいんです(私から言わせるとリーマン積分なんかを削れば、もっと早い時期にルベーグ積分を出来ると思いますが)。微積分ごときで多変数を教えるのに函数論では一変数に制限するのはおかしくありませんか。私から言わせると一変数の微積分と線型代数の講義期間が非常に長過ぎるように思います。線型代数なんか半年で終わるでしょう。

一変数函数論と多変数函数論は様相が全く違い、一変数では決して起きない現象が多変数では起きます(例えばハルトークスの正則拡大定理)。多変数を勉強して始めて一変数のいろいろなことが分かることも多いかと思います。いずれにせよ改善を望みます。

さて話はがらりと変わります。今回紹介する記事は全く数学とは関係ありません。何故そういう記事を紹介する気になったかと言うと、いろいろなミーディヤ媒体等で登場する帰国子女とかどうたらこうたらとか呼ばれる類の人々のいい加減さに呆れたからです。先ずおかしいのは、彼等は米国のことしか話してないか、もしくはそれ以外の国を知らずして世界ではこうだとしたり顔で話していて、平均的知性を持ち合わせていない殆どの日本人を洗脳しているからです。例えば街角インタヴューと称して来日している外国の方々にWhy did you come to Japan?と訊くのは間違いでWhat brought you to Japan?と訊く方が正しいとかどうたらこうたら。私から言わせるとWhy did you come to Japan?は最低だがWhat brought you to Japan?も多少は柔らかく丁寧だけれども似たり寄ったりです。問題はそんなことではないのです。もし、私が突然そんなこと(Why did...、What brought...のどちらでも)を訊かれたら、"There's no need to answer your question. Or rather, are you an official?"とでも言って拒否するでしょう。ここで何が重要かと言うとインタヴューする相手が答えるかどうかを先ず確認すべきなんです。つまり、YesかNoで答えられる質問を投げるべきなのに、いきなりWhy did...やWhat brought...ではどちらも言外に問答無用で答えろと言っているようなもんです。私がインタヴューする側だったら、先ず当たり前ですが、身分を明かしてから"I have some questions for you. May I ask you about them?"とか言って相手の意思を確認します。相手から了解を取れても用心深く"Could you tell me the purpose of your visit to Japan?"と相手がYesかNoで答えられる余地を残す形の質問をするでしょう。

他にも、その帰国子女とやらは海外で日本人は謝り過ぎで、絶対sorryと言っては駄目で、言うならExcuse meだとほざいていたそうです。そのおかげで旅行以外で海外を知らない若い知人が完全に洗脳されてました。その帰国子女が米国のことしか知らないなと私はすぐに思いました。そこでBBC Futureに載っていたWhy do the British say 'sorry' so much?なんです。その私訳を以下に載せておきます。

[追記: 2024年02月25日]

日本人の殆どが余りにも異口同音に“What brings you to Japan?”を使うので、私の海外知人の一人(非英語圏の国の方です)は“Planes...Am I making sense?”と答えたことがあると笑ってました。

何故、英国人は'sorry'を多く言うのか?

2016年02月25日 Linda Geddes

英国人は'sorry'を多く言うことで有名だ(彼等に責任が無い時でさえ)。しかし、ディタはこの固定観念を支えているのか? そして、よく謝ることは実際にそんなに悪いことなのか?

おそらく英国で最も乱用される言葉である。すなわち、ごく普通の英国人達が天候について謝ろうと他の誰かが彼等にぶつかって来て彼等が謝ろうと、最近の一時間または二時間にかけて少なくとも一回はうっかり謝っていることだろう。

1000人以上の英国人の最近の意識調査は平均的な人が一日に約8回'sorry'と言うことと、八人のうち一人が一日に20回まで謝っていることが分かった。

"やっていない何かについては進んで謝るイングランヅ人の心構えは注目に値し、彼等がやってしまっている事柄については謝りたがらないことと一致する"とHenry Hitchingsは巧みに題されたSorry!: The English and their Mannersの中で書いた。

  • 平均的な英国人は一日に約8回'sorry'と言う

だが、本当に英国人は他文化の人達よりも頻繁に謝るのか? そうであれば、この言葉の引きつりの理由は何なのか...そして、それは何と悪い癖なのか?

異なる国での謝りの頻度についての信頼出来るディタを得ることは貴方が思う以上に困難だ。"カネィディヤン人と英国人が米国人よりも多く謝るという推論は確かにあるが、それが説得性のある根拠を与えるように研究をすることは難しい"とPittsburgh大学で謝罪と容赦を研究する心理学者Karina Schumannは言う。

一つの研究方法は理論的シチュエィシュンで人々がするであろうことを彼等に訊ねることだ。例えば、1600人以上の英国人と1000人以上の米国人からなる最近のYouGov pollは、仮に彼等がくしゃみする、または彼等が誰かの間違いを正す、または誰かが彼等にぶつかるならば、10人の米国人毎に対して約15人の英国人の'sorry'があるだろうことを示した。
  • 最近の一つの世論調査が10人の米国人毎に対して約15人の英国人の'sorry'があるだろうことを見つけた
だが、調査は英国人回答者と米国人回答者の両者の間の類似性も見つけた。すなわち、どちらかの国の人々のたった4分の3以下の人しか誰かを邪魔をするためにsorryと言わないだろうことだ。そして、74%の米国人と比べて84%の英国人が会合に遅れたことで謝るだろうことだ。

悪いところは真似するな[訳注: 原文はDo as I say, not as I doです。直訳すれば"私がするようにではなく、私が言うようにやりなさい"、つまり"悪いところは真似するな"を意味する定番の超初心者向き英語イディョムです]
しかしながら、理論的シチュエィシュン内でするであろうことを誰かに訊ねることと、実生活で彼等がするであろうことを測ることは非常に異なる。最後の実例を見よう。YouGov調査において、米国人回答者の24%に比べて英国人回答者の36%が他の誰かの失敗のために謝るだろうと言った。

だが、社会人類学者Kate Foxの本Watching the Englishの中で、彼女はイングランヅの至る所の町や市内で意図的に人々にぶつかる実験を記述している。また、彼女は比較のために同じことを外国でするようにと研究者仲間を励ました。

衝突が明らかにFoxの落ち度であるのに英国人犠牲者の約80%が'sorry'と言ったことが分かった。しばしば謝りはぼそぼそ言われ、ひょっとして人々は無自覚に謝ったのかも知れないが、他の国々の旅行者達がぶつけられた時と比較して違いは歴然だった。“ただ日本人だけが英国人的sorry条件反射に匹敵する一定の何かを持っているようだった”とFoxは書いている。
  • ただ日本人だけが英国人的sorry条件反射に匹敵する一定の何かを持っているようだ―Kate Fox
語'sorry'の起源は'苦悩、悲嘆、または悲哀'を意味する古い英語'sarig'にまで遡れるが、もちろん英国人はその語をもっと気軽に使用する。そしてこの中に、言語間の文化的違いを研究することに関する、もう一つ問題がある。"私達は語'sorry'を違う方法で使う"とサザンオリゴン大学の言語学専門家であり、Sorry About That: The Language of Public Apologyの著者であるEdwin Battistellaは言う。英国人はもっとsorryを言うかも知れないが、これは必ずしも彼等が前非を悔いる心情を持つことを意味しない。

"私達は感情移入を述べるためにそれを使える。だから、私が'雨ですみません'と言うかも知れない。その種の'sorry'を英国人とカネィディヤン人の話者はもっと使うかも知れないが、彼等はそれ自体で謝ってはいないだろう。他の研究者達は社会階級を超えて交流するための'sorry'の使用のことを話してるが、その場合は自分達の特権を多少謝っている"とBattistellaは言う。

英国人社会はその構成員が他の誰かの個人的空間に乗じず、そして自分自身に注目を集めないで配慮を示すことを重んじる。すなわち、言語学者達が"ネガティヴ礼儀性"または"ネガティヴ外観"と呼ぶ特徴である。他方、米国はポジティブ礼儀性の社会であり、友情と集団の部分を感じるための願望で特徴づけられる。
  • 英国人はもっとsorryを言うかも知れないが、これは必ずしも彼等が前非を悔いる心情を持つことを意味しない―Edwin Battistella
その結果、英国人は米国人を含む外部者にとって不適当だと思えるように'sorry'を時には使っているかも知れない。見知らぬ人にいくらかの情報を求めたいから、または見知らぬ人の隣に座りたいから(そして、'sorry'を使わないことは見知らぬ人のプライヴァシの大きな侵攻となるだろうから)英国人は見知らぬ人に'sorry'と言うだろう。

"私達の度が過ぎ、しばしば不適当であり、時には純然たる誤解を招く、この語の使用はその価値を下げ、私達の流儀に不慣れな外国人達にとっては事柄を非常に混乱させ困難にしている"とFoxは言う。更に彼女は"しょっちゅうsorryを言うことはそんなに悪いことではないと私は思う。ネガティヴ礼儀性の文化の背景においては筋さえも通っている...そんな手当たり次第の乱費をあちこちに撒き散らかすために国家が選ぶだろう数ある語の中で、確かに'sorry'は最悪の語ではない"と付け加えて言う。

'sorry'を言うことに他にも恩恵があるかも知れない―例えば信頼を促進させるような。面白いことに人々は自分がしてしまった過失ではないのに、それに対して謝っている(いやそれどころか彼等の制御を超えている環境に対しても)時でさえも、それは真実である。

一つの研究において、Harvard Business SchoolのAlison Wood Brooksと彼女の共同研究者は、米国で雨の日の電車の駅において65人の見知らぬ人に近づき、電話を貸して貰えないかと頼むために男性俳優を採用した。半分のケィスにおいて見知らぬ人は男性俳優の要望の前の"雨ですみません"を重視した。男性俳優がこれをした時、見知らぬ人の47%が彼に携帯電話を貸した(彼がただ単に電話を貸して欲しいと頼んだ時はたったの9%だったことと比べて)。更なる実験は問題なのは天候についての謝罪だった(PDF)のであって、話始めの丁寧さではなかったことを裏付けた。
  • 'sorry'を言うことの恩恵は信頼の促進を含む―人々が彼等の制御を超えている環境に対して謝っている時でさえも
"'雨ですみません'と言うことで、不必要な謝り人は残念な環境を認め、実験対象者の視点を取り、ネガティヴ環境に対する共感を述べている―彼等の制御を超えているのに”とWood Brooksは言う。

もちろん英国人が謝罪的であることで知られている唯一の集団ではない。女性達もそうであろうと考えられている。

この固定観念が綿密な調査に耐えるかどうかを検査するために、Schumannは12日間日記を詳細につけ続ける大学生達のグループを採用した。大学生達は謝りが当然だと思った場面や人が謝りを受けるかどうか、出くわしたすべてのシチュエィシュンを全部並べた。彼女は女性達が男性達よりも'sorry'をよく言うことを見つけたが、女性達は謝りを必要だと思った時(女性達が犠牲者である時と加害者である時の両方)の罪をもっと報告していた。このことを考慮に入れる時、男性達と女性達は同等に彼等の罪を謝るらしいことを示した。"男性達が謝りたくないのではない。ただ彼等は謝りが必要である罪にあまり出くわしていないだけだ"とSchumannは言う。

弱さのサイン?
さて誰かに本当に謝らなければならないと分かっている時の環境はどうなのか? 恥を忍び、謝ることがいいのか、それとも(伝説的米国俳優John Wayneが言うように)謝ることは弱さのサインなのか?

"謝ることが被害者側への感情移入の苦心としてよりも、法的責任の承認として働くだろうことを人々は心配している"とWood Brooksは言う。しかし、"効果的な謝りは受取側の感情を解決する。すなわち、人々は問題の核心を試していない。良い謝りは裏目に出ることはなく、全く謝らないことよりも、ずっと信頼を増すだろう"と彼女は付け加えて言う。

謝り方について言えば、Battistellaは次のような助言をする。"謝り方の正しい方法は貴方の母が貴方に教えたやり方である"。例えば、貴方が兄弟姉妹に石を投げたとしよう。"母は貴方に兄弟姉妹の目をまともに見に行かせ、'石を投げてごめんなさい。もう二度としません'と言わせた。貴方のやったことが間違いであることを指摘し、貴方自身が後悔していることをどうにか見せて、将来において何が異なるかも知れないかを指し示すことが大切だ"とBattistellaは言う。

一体何回謝りを繰り返さなければならないのかは住んでいる場所によって一様でないかも知れない。Wood BrooksとHarvardの博士課程学生であるGrant Donnellyは、小さな罪に対しては最適な数字がたった一つの"I’m sorry"であることを暗に示す予備的ディタを集めている。

"罪が大きければ、二回謝ることが感情移入と後悔を伝え、信頼と愛を回復させる魔術の数字らしい"とWood Brooksは言う。

もちろん貴方が英国人なら二回繰り返す必要があるかも知れない。"たった一つの'sorry'は謝りとして見なされない。謝りを繰返し、それを多くの形容詞で飾らなければならない"とFoxは言う。

ついでに雨のことも謝ります[訳注: 原文はApologise for the rain while you’re at it, too.です。これも定番の超初心者向き英語イディョムです。while you’re at itが意味することは"貴方がそれに取りかかる間に"ですが、結局は”ついでに"を意味します]

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