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Elias M. Stein (1931–2018)

Elias Menachem Stein博士が2018年12月23日に逝去されたことは解析畑の人なら誰でも御存知でしょう。日本でもStein博士の著書にお世話になった人は随分多いと聞いています。私も御多分に洩れず、Stein博士の著書The Princeton Lectures in Analysis(Rami Shakarchi博士との共著)のうち、フーリエ解析の巻に本当にお世話になりました。私がこのフーリエ解析本を読むきっかけは\bar{∂}-方程式に関連してました。つまり、もう少し偏微分方程式論に正面から向き合う必要があったからです。偏微分方程式論の専門家ならフーリエ解析など朝飯前に使いこなすのでしょうが、私はそこまでの熟練度に達してなかったので、数理物理学の友人に相談するとThe Princeton Lectures in Analysisのフーリエ解析の巻を読めと言われたからでした。

さて、今回紹介する記事はNotices of the AMSの2021年04月号に掲載された追悼記事Elias M. Stein (1931–2018)(PDF)から私の独断と偏見で抜粋しました。何故かと言うと19人の数学者と2人の御遺族からの寄稿があり、全部を紹介するには余りにも多いからです。先ず、Lillian B. Pierce博士執筆のStein博士の経歴は前文に相当しますから外せません。次に、Stein博士との思い出を語っている部分からSteven G. Krantz博士、Terence Tao博士、Charles Fefferman博士のものを選びました。理由は私がKrantz博士の著書Function Theory of Several Complex Variablesに大変お世話になったことと、かなり昔にKrantz博士の記事"証明の不滅"を紹介したことがあったからです。それから、Terence Tao博士、Charles Fefferman博士のお二人は超天才または超早熟で有名で、皆さんも御存知の通り二人ともフィールズ賞受賞者ですので外せません。Tao博士の早熟ぶりは皆さんも知っていると思いますので端折りますが、Fefferman博士の博士の早熟ぶりを少しばかり書きます。

Fefferman博士は14歳でメアリランヅ大学に入学し、15歳で初めての論文を独逸語で書き、17歳で数学と物理学の学士となり大学を卒業しました。20歳でプリンストン大学から博士号を取得し、何と22歳でシカーゴゥ大学の正教授となり、そして29歳でフィールズ賞を受賞しました。驚くべき早熟ぶりです。これを聞くと何らかの日本の天才児だと時々日本のミーディヤだけが騒いでいるのが滑稽に思えて来ます。つまり、規模またはレヴォゥの違いを日本は理解してないのです。

ともかくも、選別した追悼記事の私訳を以下に載せておきます。なお、参考文献欄は省いています。

Elias M. Stein (1931–2018)

2021年04月 Lillian B. Pierce

 Elias M. Stein (1931–2018)は解析学の分野に計り知れない影響を与えた。彼の開発した今や不可欠であるツーォゥは主要理論を拡張、明確化し、今日研究を活気づけし続けている問題の新しいクラースを導入した。更に、良き師かつ解説者としての彼の際立ったスキォゥは数十人の博士取得学生、何百人の数学的子孫、何千人の義理堅い読者を後世に残した。

Elias Menachem Steinはベゥヂャムのェアンッワープ[訳注: 日本の馬鹿表記ではベルギーのアントワープ]で1931年01月13日に生まれた。彼の両親Elkan SteinとChana Goldmanは両者ともポゥリシュ市民だが、1940年の独逸の侵略の後、子供達とベゥヂャムから逃亡した。九歳のEliasは靴の底の中のダィモンズ(ダィモンヅ商人であるElkanはそれらをそこへ隠した)と共に旅をした。

家族は1941年の春に米国へ到着し、ヌゥーヨーㇰ市に住まいを構えた。SteinはStuyvesant High Schoolに通い、数学ティームの主将を務め、1949年に卒業した。その次にシカーゴゥ大学に通い、1951年に学士、1953年に修士を取得し、1955年にAntoni Zygmundの指導を受け、Linear operators on Lp spacesと題された学位論文で博士号を取得した。その次にSteinは1958年にシカーゴゥ大学で助教授職(シカーゴゥ大学では迅速に昇進した)に就く前、2年間MITで専任講師だった。IAS[訳注: 高等研究所のこと。念のため]の1962–1963年の一年後、Steinは正教授としてプリンストン大学の数学部門に参加した。1975年から2012年まで彼はプリンストン大学で数学のAlbert Dod教授職だった。2012年、彼はプリンストンで大衆向けコースを教え続けていたけれども、名誉職に変わった。Steinはマントゥ細胞リンパ腫に関連する合併症が原因で2018年12月23日に87歳で亡くなった。

Elias Steinは彼の59年間の妻であるEllyより先立った。彼等の息子Jeremyはハーヴァヅ大学のMoise Y. Safra教授職にあり、経済学部長だ。彼等の娘Karenは建築評論家であり、プリンツカ賞審査会の元委員だ。

彼の長いカリィヤ[訳注: careerの発音はKorea(韓国)と全く同じ発音です。日本の馬鹿表記ではキャリア。この馬鹿表記ではcarrier(運送業者)になってしまいます。恥ずかしくないのでしょうか]の過程を通して、Elias Steinは今日の調和解析で広く使用される多くの力強いツーォゥ(少数の例として、Steinの補完定理、Steinの極大原理、Cotlar-Steinの補題)を開発した。その上、Steinは広範囲に渡る分野(フーリエ解析、複素函数論、偏微分方程式、実解析、幾何学、数論)の間の相互作用に対する並外れた直観を持っていた。Steinがウルフ賞を受賞した時、表彰の言葉が彼の研究におけるそんな連結の役割を強調した[3]。すなわち、"Elias M. Steinは非常に広い意味で理解されている数理解析において根本的な貢献をして来ている。彼は(G. WeissとC. Feffermanと一緒に)多実変数でのハーディ空間を開発した。特に、これはハーディ空間と、もっと早期にF. JohnとL. Nirenbergにより導入されたBMO[訳注: bounded mean oscillationの略。つまり、有界平均振動]空間の両者の間の双対性の役割の際立たせた。リー群の表現論においては、SteinはR. Kunzeと共に発見した、いわゆるKunze-Stein現象(調和解析及び、半単純リー群の或る非ユニタリ表現に関して今や古典である)を発見した。またSteinは多複素変数の\bar{∂}-問題に深大な貢献をした。彼は、特異積分、ラドン変換、ユークリィディヤン空間の低次元多様体における積分によって得られる極大作用素の役割を認識することで古典解析を形成して来た、多次元ユークリィディヤンフーリエ解析の創始者の一人である"。

Steinは新分野を開く質問を訊ねた。例えば、フーリエ変換と曲率に関する彼の質問は、制限問題を取り囲む広くて魅力的な分野における研究を活気付けし続けている。彼は多項式的Carleson作用素の研究を開始した。そして、調和解析と数論の交叉にある離散作用素に関する彼の晩年の研究は、解析学の若い分野を普及させた。

Steinの広大な研究計画の全体像は回想録[2]の中で見つかる。

2011年プリンストン大学はイヴェンッ"解析学と応用―Elias M. Steinの記念コンフレンス"でSteinの80歳の誕生日を敬った。ぎっしり詰まった研究講演予定表の上に、このコンフレンスは指導共同研究本を書くことと題されたディスカシュンを呼び物とした。これらの3つの分野の各々においてSteinは傑出していた。

Steinは多作のアヅヴァイザであり、フィールズ賞受賞者のCharles FeffermanとTerence Taoを含む、少なくとも52人の博士号取得学生を指導した。The Mathematics Genealogy Projectは約550人の子孫弟子を表にしている。2012年Steinの名誉職への移動の時、プリンストン大学の同僚達は"Eliの研究者、共同研究者、先生、解説者として合計された影響力は他に匹敵するものがない。彼の講義は完全な明晰さ、要点への集中、非の打ち所がないセンスによって特徴づけられる。学生達、共同研究者達との彼の相互作用において、数学的発見のために不可欠な楽観主義の強いセンスを彼はやっとのことで伝えることが出来た。彼は多くの人の一生に主要な影響を与えて来ている"と述べた。

プリンストンでの学部コースの専任講師としてもSteinは愛された。これは2001年にPrinceton University’s Award for Distinguished Teachingを表彰され、86歳になるまで熱烈歓迎状態にある学部コースを教え続けた。

Steinの著書目録は15の本と研究書を含んで234の発行から成る。彼は60人を超える共同研究者達と研究したが、彼等の多くがこの追悼に思い出を寄稿している。

"Stein学派"は共同研究者達と直弟子達を遥かに超えて、彼の本を書棚に大切している世界中の数学者達へ拡張している。彼の本は調和解析における基本的トピクスの明晰かつ非常に多種多様な取り扱いのため高く評価された。これらは(1984年にLeroy P. Steele Prizeを取った)Singular Integrals and Differentiability Properties of Functions (1970年)、(Guido Weissと共著の)Fourier Analysis on Euclidean Spaces (1971年)、代表作Harmonic Analysis: Real Variable Methods, Orthogonality, and Oscillatory Integralsを含む。これらの、調和解析の分野の生き々々とした説明はSteinが分野発展において果たした中心的役割によって活気づけられた。Harmonic Analysisの序文で彼が書いたように、"...私はこの本がいくぶん自伝的であることを否定出来ない。つまり、話の語り部として、問題解決の直接的知識を持っていることにより私が最もよく知る問題を語ることを選んでしまっている"。とうとう70歳代の彼はRami Shakarchiと共著で(フーリエ解析、複素解析、実解析、函数解析についての名高い4つの本のシリーズ)The Princeton Lectures in Analysisを書いた。

Steinは1961年にSloan Fellowに選ばれ、ICM[訳注: 知らない人はいないとは思いますが、International Congress of Mathematiciansの略。念のため]で講演するために3回招待された(1962年は招待講演者、1970年と1980年は全体講演者)。彼は1976-1977年と1984-1985年の両方でGuggenheim Fellowであり、1989年にvon Humboldt Awardを受賞した。Steinは1962–1963年、1976–1977年、1984–1985年にIASのメンバだった。

解析学分野における彼の大きな影響を讃えて、Steinはスウィーディシュ王立科学アカァデミからSchock Prize(1993年)、イズレィゥにあるWolf Foundationから数学部門のWolf Prize(1999年)、AMSからLeroy P. Steele Lifetime Achievement Award(2002年)、Stefan Bergman Prize of the AMS(2005年)、National Medal of Science(2002年)を受賞した。

SteinはNational Academy of Sciences(1974年)、American Academy of Arts and Sciences(1982年)の会員であり、AMSの正フェロゥ(2013年)だった。彼は北京大学(1988年)、シカーゴゥ大学(1992年)から名誉博士号を授けられた。

Steinはプリンストン大学で1968–1971年と1985–1987年の2回数学部門長を務めた。彼は40年近くプリンストン大学出版でAnnals of Mathematics Studies本のシリーズの編集長でもあった。Stein逝去時に数学のHughes-Rogers職にあり、数学部門長だったDavid Gabaiは"とても多い異なる尺度によってElias Steinは実に信じられないくらい並外れた数学者だった。数学研究者としては信じられないくらい影響のある研究をした。彼は並外れた指導教官であり、彼の博士号取得学生達の多くが数学で並外れた指導者になって来ている。学部教官としては学生達に非常に人気があった。そして一市民としては長年の間数学部門のすべての側面においても不可欠な人物だった"と述べた。

Steinは良き問題における彼の歓喜、彼の高潔さ、彼の永遠続く楽観のために記憶されるだろう。Leroy P. Steele Lifetime Achievement Awardへの答辞の中で彼が書いたように、"この企ての最終目的から私達は遠くにいて、多くの興奮させる見事な定理がまだ私達の発見を待ち構えていることを確信出来る"。


Steven G. Krantz

Eli Steinは私の先生、助言者、友人だった。彼は私に多くの良き数学を教えたが、数学についての考え方と数学者の役目の果たし方も教えた。プリンストンの数学大学院プロゥグラムがとても成功している理由の一部分は全教員が学生達にとって模範だからだ。Steinはその役割を見事に満たした。

私が最初にEli Steinに会った時、彼は私を昼飯に連れ出し、私が学位論文でやろうとしていることを話すために私達は座った。彼は私に何に興味があるのかと訊き、"球体に対する乗数問題です"と答えた。それは難し過ぎると彼はすぐに言って、他の3つの問題を私に与えた。それらの他の3つの問題は丁度難しいことが分かった。それらの一つ(曲線に沿ってのヒルベルト変換)は結局Nagel、Riviere、Waingerによって解決された。もう一つ(Lipschitz曲線上のコーシー積分)はCalderónによって解決された。3番目は群表現と関係があり、私は余り分からなかった。

或る時点で私は落胆してSteinのところに行き、これらの3つの問題のどれに関しても前進出来ず、何をすべきか分からないと彼に言った。彼は気前よく書類用戸棚の中へ手を伸ばし、彼自身で研究しようと計画している問題を私に与えた。それが私にとってまさに的確な問題であることが分かり(私はそのことをすぐに分かった)、非常に速く解いた。

私のみが学生ではなく、Steinが伝説的数学者だったのに、私達が一緒に研究する時、あたかも私達が対等であるかのようだった。私達は黒板を挟んで立ち、一人が勝つまで一緒に議論した。それは素晴らしく形成力があり、私を現在あるような数学者にした。これらの会合の一つの終わりに彼が私に家に帰って、或る凸状定理を証明しようとしなさいと言った時を私はまだ憶えている。私はそれについて考え、提示されている凸状定理は偽だと認識した。しかし、それが私を正しい方向に考えさせ、結局私が必要とする結果を得て、問題を解決することになった。今日まで、これが解決する方法だとSteinが予め知っていたのかどうか私は分からない。

1973年にBob Fefferman[訳注: あのCharles Fefferman博士の弟君]と私はHp空間についてのコースを教えて欲しいとSteinに頼んだ。彼は喜んで同意し、彼の造ったコースは素晴らしかった。勿論、それは彼にとって非常に大きな骨折りだったが、上品で優雅に仕事をこなした。そのコースの私のノーッはまだ価値がある。

Elias M. Steinは私自身とっても他の多くの人達にとっても偉大で励みになる人だった。記述するには余りにも無数なくらいに彼がいなくて寂しいと思うだろう。


Terence Tao

Eliは驚異的に効果的な助言者だった。私の大学院での勉強を通して、彼が受け持った院生は5人を下らなかった思う。私自身のような学生達と彼が会っている時、扉の外側に列が並ぶことはしばしばだった(The Mathematics Genealogy ProjectがEliの52人の学生達を表にしているが、どちらかと言えばこれは過小評価だ)。私の毎週のEliとの会合は次に述べるように進む傾向があった。つまり、私の現行の研究問題を解くために一週間以上やった多くの異なる事柄(余り成功してない)すべてを報告したものだ。Eliは辛抱強く私が話すすべてを注意を集中して聞き、その次に彼は書類戸棚に行き、私に渡すためのプリープリンッを探り出して"この論文の著者達は類似の問題に出くわし、手法Xを使って解いたと思う"と言ったものだ。その次に私は部屋に戻り、プリープリンッを読んだものだが、確かに彼等は類似なものに直面していたから私は当面の妨げを解決するために、彼等の技法を度々そこに採用出来た(次週の間に更なる妨げにあいにく出くわすことになるが、それは研究が進む傾向の有様であり、特に院生とっては)。他にもいろいろある中で、これらの会合は私が一週間全体で達成出来たものよりも、数分でもっと問題の主要な進展を造ることが出来たことにより数学的経験の価値を私に強く感じさせた(有名な技師Charles Steinmetzがチョークでマークを付けることで壊れた一つの機械類を修理するという有名な話がある。Eliとの会合はしばしばそれと同じ感触があった)。

Eliの講義はいつも明快さの傑作だった。一時間かけて、定理を設定し、それを動機付け、戦略を説明し、それを完璧に実行したものだ。私自身がクラースを教えて20年の後でさえ、各時間の終わりに数学的プレズンティシュンの自然な締めくくりに何とかして必ず辿り着ける(講義中に少なくとも少し中途で一時の間に合わせを造る必要無しに)彼の秘密を理解していない。彼の講義(そして彼の多くの本)の明快かつ自己完結している性質は私が大学院での研究を調和解析に特化した大きな理由だった(大学院での研究の後で長年、解析的数論のような他の関心事に結局回帰することになったものだけれども)。

Eliとの時期を振り返ると、彼は並外れて忍耐強く、毎週会わなければならない生意気で世間知らずのティーネィヂャを理解していたことを私は今実感する。私自身のカリィヤにおいて主要な転機は私の面接試験の後に来た。面接試験は私の過信と準備不足(特に専門の調和解析)のため殆ど失敗した。試験の後、彼は私と一緒に腰掛け、出来る限り穏やかで如才なく、君の出来栄えに失望した、君は数学知識を真剣に固めなければならないと私に言った。このことがまさに私が聴くべきことだと分かった。私の助言者を再度失望させないためにきちんと勉強する気になった。

調和解析の分野での私達の非常に多くの人が何らかの形でEliとつながっていた。その分野は家長達の一人であるEliと共に非常な大家族のような感じを私に与える。彼がいなくて実に寂しくなる。


Charles Fefferman

Eliを讃えて一般論を要約することよりも、私はむしろ少数の逸話を思い出すことにしたい。その一つはAMSのBulletin[1]から採っている。

私の最初の逸話のためのお膳立てをさせて欲しい。

1967年、Eliはパァリス大学での研究休暇からプリンストンに戻った。後に彼の素晴らしい本Singular Integrals and Differentiability Properties of Functionsの中に登場するトピクスに関して、彼は人を奮起させる大学院コースを講義した。私は2年目の院生の時(解析学に興味を持っていたが、その点以外では何の方向性を持ってなかった)、そのコースを取った。Eliのコースは私にとって啓示だった。トピクスは簡潔かつ優雅で根本的だった。説明は完璧で忘れられない。

私はEliに学位論文の助言者になって欲しいと頼んだ。彼は面白い未解決問題の外見上無数の彼のコレクシュンから私に3つの問題を与えたが、私は今まで順調に来ている。

ここでの啓示的箇所は私が今まで会った他の数学者の様式と違う様式でEliが講義したことである。多くの一流研究者達は明快で美しい講義をするが、Eliはそれを上回った。各々のEli講義は最初の数分をかけて問題を提示することで始まった。その次にEliは如何に問題がより大きな全体構図に適合するか、そしてまさに正しい観方から問題を考える方法の説明に殆ど講義時間全部を割いた。最後の数分は完全な証明を与えた。45分超の時間をかけての準備のおかげで証明は完全に明らかだった。講義の後、ほんの1時間前に聴衆達はどのように問題が攻撃されるか分かってなかったであろうことを実感するのに大いに苦心したであろう。

私の最初の逸話は1970年の春に設定されている。ヴィーェッナァム戦争は拡大し、プリンストン大学構内から学生抗議が勃発した。怒れる学部生達はプリンストンの数学部門が憎き国防総省から財政的支援を受けていることを発見した。彼等は釈明を要求した。

ほぼ同時期にプリンストンの国防分析研究所が学生デモ隊に取り囲まれたこと、及び数ヶ月後にはウィスコンシン大学の数学研究センタが爆破されることになることをどうか頭に入れて欲しい。

Eliは当時プリンストンの数学部門長を務めており、当時の新しいFine Hallの共同部屋の中で部門予算に関する公式講義を行った。彼は学期1969–1970年のための数学部門予算の完全かつ正直かつ冷静な説明を示した。彼はDOD[訳注: 知らない人はいないと思いますが、Department of Defenseの略。念のため]資金援助は軍事応用に拘束されていないと明言した。

Fine Hallで更なる事件が無かったのだから、学生達は納得したに違いない。私は予算に関するEliの講義を極め付きのEli講義だと認めたから、その講義は特別に喜ばれたと聞いた。Eliは問題を全体構図に置き、適切にそれを観る方法を説明することに殆ど時間全部を使った。詳細は最後の数分でぴたり当てはまり、数学部門予算は皆にとって明らかになった。

Eliが数学を説明するのを聞く特権を持ったことのある誰の顔にも、これらの所見が笑顔をもたらすことを私は望む。

私の次の話のために数年早送りする。Eliと私はHp空間に関する論文を研究していた。私はシカーゴゥ大学からプリンストンへ訪問し、Eliの家に宿泊した。私達が考えに没頭している間、Eliの11歳の息子Jeremyが近づき、"お父さん、僕はマァリゥワーナを吸えるの?"と訊いた。Eliは無頓着に"君がもっと歳を取る時"と答え、Lusin面積積分の謎を熟考することに戻った。

現在、Jeremyはハーヴァヅ大学経済学部長であり、以前は連邦準備制度理事会を務めていた。彼の父親の助言が何の効果があったのか私は知らない。

同じ訪問の間、Eliと私は調和解析のために特殊な不等式を必要とした。EliがHardy’s Collected Worksの中でその結果を読んだことを憶えていた。私達はFine Libraryの中を覗いたが、本は借り出されていた。私は内心"詰んだ"と思ったが、Eliが"心配無用。HardyとLittlewoodが証明出来たならば、私達も出来る!"と私に言った。私達はEliの事務室に戻り、一時間後証明を得た。

楽観は定理証明の難しい企てに対する必要条件であり、Eliは私や他の多くの人に楽観を教えた。

私の最後の話は約20年前に起こった。数学の勉強を止めようと(そんなに賢くないと思っているので)真剣に考えているプリンストンの有望な学部生と会う機会があった。彼女がEliから解析学の最初のコースを取っていたことを私は知ったので、私がEliに訊くことを彼女に提案した。つまり、この学生は数学者として成功するほど十分に賢いのか? Eliの判定に私の絶大なる信頼を置いていることを学生に確信させた。

私がEliに急ぎの電話を入れている間、学生は私の事務室の外で座っていた。彼の答えは紛れもない"ュイエス!"だった。

残りは歴史だ。その学生は数学に留まり、プリンストンの首席として卒業し、そして調和解析と数論の両者の境界で重要な研究を続けた。長年の間、Eliは彼女の助言者であり、親しい友人だった。

その有望だった学部生はLillian Pierceだった。彼女はNoticesのこの記事の執筆責任者である。

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