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グロタンディーク: 決別の神話

今回紹介する記事は久々のグロタンディーク氏関連の記事です。
ところで、何故私がグロタンディーク氏と呼んで博士を付けないか、その理由も知らない人は明らかに一見の客なので、これ以降を読まずにお引取り願いたいと思います。
紹介する記事はEMS Newsletterの2019年12月号に掲載された"Grothendieck: The Myth of a Break"(PDF)です。原著者が言わんとすることは、グロタンディーク氏は数学コミュニティ全体と決別したのではないということです。つまり、グロタンディーク氏が決別したのは数学コミュニティの一部分だという理屈です。しかし、それを言い出せば数学コミュニティとは何か、その定義が必要になって来ます。私は数学コミュニティを分割して考えること自体が無意味だと考えます。ここで私の読後感を長々と述べたら、もうそれこそ本末転倒なので止めますが、海外の知人達に送った感想のごく一部分だけを載せておきます(全部だとかなり長文になるので)。これを載せる理由は日本語という言葉のバリヤに守られて偉そうに日本語で(原著者が読めないのに?)批評を書く卑怯者達(つまり、陰口だけは一丁前。要は日本国内向けポゥズなんです。外では全く通用してないのに、内ではさも凄いことかのように見せたがる典型的な日本人の特徴であり、私が最も忌み嫌うものです)のうちに入りたくないからです。

I have no choice but to say this: the author should've, first of all, proven that what Grothendieck called the 'great world' wasn't in the least equal to the mathematical community as a whole and then continued his story.
It's not too much to say that this article is worth reading; I was, however, never convinced of the author's say.  To put it another way, it's hard to reconcile my sense with that of the author.
Once again, I'd like to say that R&S is just a piece of farewell writing to the mathematical community and nothing else, inasmuch as there was neither Grothendieck's apology for his abuse nor his explanation for it after all.

私が送ったもっと長いものは海外の知人の一人が日本の読者の感想ということで、その人の感想に混ぜてEMS Newsletterの編集部に送られたはずです。

ここでまた話が脱線しますが、日本の素人衆は本当にいわゆるグロタンディーク素数なるものの存在を信じているのでしょうか? ネット上を見聞する限り、どうやら本気で信じているようです。とすれば、なんとお目出たい国民だと言わざるを得ません。
本当にグロタンディーク氏が講演か講義でそんな素数を言ったのであれば、議事録または講義録が残っているはずです。私が知る限り、そんな資料はありません。
もっと不思議なのは講演か講義でグロタンディーク氏からそんな話を聞いたという証言者が今まで一人も出て来てないことです。今はグロタンディーク氏もお亡くなりになり、しかも、そんな講演か講義が実際にあったならば少なくても30年以上経過しているのだから、実際に聞いたという人が出て来ても不思議ではないはずです。
"無い"ことの証明は悪魔の証明と同じくほぼ不可能ですが、"存在する"という証明は可能です。ですからグロタンディーク素数なるものが実際にあったならば、そう信じている人達が存在証明をすべきでしょう。
因みに海外の知人達はグロタンディーク素数の話を"the fabricated anecdote"と断定しています。

さて、前置きが長くなりましたが、上記の記事の私訳を以下に載せておきます。原著者の注釈は例のごとく省略しましたが、注釈へのインデクスはそのままです。なお断っておきますが、私は正直言って本文よりも注釈の方が知らなかったことも多々あり、面白かったので是非読むことをお勧めします。
そしてグロタンディーク氏の確かな伝記についてはWinfried Scharlau博士の名著Wer Ist Alexander Grothendieck?をお勧めします。しかしながら、殆どの日本人は独語はおろか英語でさえままならないと思いますので、その本の抜粋もしくは縮小版とも言える"虚空―あたかも虚空から呼出されたかのように: アレクサンドル・グロタンディークの人生 前篇"及び"グロタンディークとは何者か?"を参考して下さい。

[追記: 2023年01月15日]
グロタンディーク氏のRécoltes et Semaillesを書評対象とするPierre Schapira博士によるリヴュー“切り詰めた草稿”もあります。

グロタンディーク: 決別の神話
2019年12月 Claude Lobry(ニース・ソフィア・アンティポリス大学、仏蘭西)

アレクサンドル・グロタンディークについて普通の人に訊くと"彼は数学的天才で、40歳で気が狂い、数学を放棄し、神秘的な精神錯乱を発症した"とおそらく答えるだろう。その人がたまたま数学者なら"彼は表舞台を去る前に、左翼的行動と長くて妄想的なパンフレットの書き物で注目を集めた。そのパンフレットでコミュニティに'彼の恨み'を晴らした。これがRécoltes et semailles[訳注: 収穫と種蒔き]だ"とおそらく付け加えるだろう。
これが無知な人達の持ちがちな一般的な考えである。いろいろな専門家達がグロタンディークに関して言わなければならないことを検討しよう。例えば、科学史家Leo CorryはWriting the Ultimate Mathematical Textbook: Nicolas Bourbaki's Elements of Mathematics1[訳注: 究極の数学テキストを書く: 二コラ・ブルバキの数学原論]の中で以下のことを述べた:

しかし、メンバーの一部、特にセール、シュヴァルツ、デュドネが親しい友人で共同研究者であり続けたのにもかかわらず、あいにくグロタンディークは1958–59年あたりにグループを去った。後の1970年に、彼はI. H. É. Sが軍部から部分的に資金援助されていたことを知り、公的な科学人生を完全に辞めた。

もっと最近では、広い読者に読まれている仏蘭西の科学雑誌Pour la Science[訳注: 科学のために]がグロタンディークの死去の時にその数学者人生を特集する号を刊行した2。その号の論説の最初の数行の中で、編集長Maurice Mashaalは以下を述べている:

50年代から70年代に仏蘭西で、並外れて素晴らしい数学者が彼の同僚達を感心させた。

続いて彼の研究に言及する数行があり、それから表明の真ん中で:

彼の1970年の突然の科学的場面からの撤退からまさしく最晩年まで(それは完全に孤独だった)、彼は何万の未発表ペィジを書いた。

更に続けて、グロタンディークの伝記が数学者Winfried Scharlauによって書かれているが、彼の記事の中で3つのポイントを要約している("本質"と題されているセクシュン):

-ラシャ人[訳注: ロシア人などという馬鹿丸出しの表記を止めましょう。露西亜人だったら、これは日本語なのでいいとします]アナキストであり、独逸へ移住した者の息子、長らく無国籍のアレクサンドル・グロタンディークは独逸そして仏蘭西のいろいろな避難所で育つ。
-終戦後の時期、彼は世紀の最も偉大な数学者達のうちの一人として地位を確立する。彼の主要分野である代数幾何学において新しい先見を展開する。
-1970年に彼は突然、研究に背を向ける。急進的な環境保護に関心を持ち、隠遁な生活をするために出奔し、最低限度まで他の世界との接触すべてを制限する。

私がこの記事を書いている時に、その時代精神を信じるなら"共通見解"(つまり、グロタンディークは1970年に事実上数学コミュニティに背を向けたということ)は彼の出奔の後、数年で形成された。
しかし、少し面白いが、この先見が完全に間違っていることを分かるのは容易だ。もう少し調べよう。
ピエール・カルティエは輝かしい栄光の年月の最中とその後の両方で、同僚数学者であり友人だった。以下は2000年にUn pays dont on ne connaîtrait que le nom[訳注: 名前のみしか知らない田園]の(Grothendieck et les motifs[訳注: グロタンディークとモティーフ])3中で彼が言ったことだ:

(...)一方グロタンディークは12年間是非を問われなかったI. H. É. S上の科学的ルールの後で、1970年にすべてを捨てた。60歳になる1988年の正式な引退まで、彼は散発的に研究をし、決して無意味ではない"死後"の作品を残していくのみであろう。そのうちで3つの主要な書き物が目立つ。最初のもの、A la poursuite des champs4[訳注: 野を追跡する]は1983年に書かれ、多次元キャテグリに関する600ペィジの熟考だ。ここでは、組合せ論、幾何学、ホゥモロジ代数が壮大な計画の中にミクスされている。15年間の努力の末に、たった3つの定義が作られ、それはおそらく多次元キャテグリ(広い意味で5)と同等(または、ほぼそうなのであろう)である。良い集積理論は多くの潜在的応用(理論計算学、統計物理学等)を持っているので、その利害は単に純粋数学のみではない。
二番目のもの、Esquisse d'un programme[訳注: プログラムの概要]はCNRS[訳注: Centre National de la Recherche Scientifiqueのこと。つまり、仏蘭西国立科学研究センタ]の職申請のために1984年に書かれている。グロタンディークは塔の構築(またはレゴのゲィム)の概要を書いて、代数曲線の変形を記述した。そして最後に、La longue marche à travers la théorie de Galois[訳注: ガロア理論を通しての長い展開]は1981年に書かれ、Esquisse d'un programmeで主張された構築の部分的指示を与えている。

カルティエが証言するように、たとえグロタンディークが数学を続けていたとしても、彼がコミュニティと完全に決別したと言っておそらく人は反対するだろう。しかし、人はもう少し問合わせることで、1972年から1984年までグロタンディークがモンペリエで教授だったこと、更には1984年から1988年までCNRSの研究者だったことを学べる。1984年のテキストEsquisse d'un programmeは刊行されている。現代の研究に引用されおり、全体会議6がそれに専念した。
Récoltes et semaillesはグロタンディークによる非常に長いテキスト(約1000ペィジ)だ。それはモンペリエ大学により謄写版で印刷された(1985–86)。数学者としてのグロタンディークの人生を記述している部分的自伝である。この書き物は彼の元学生達に対する恨み晴らしに過ぎず、それが出版社が見つからない理由を説明しているというしつこい噂がある7[訳注: この部分は日本人に(専門家を除いて。以降断わりを入れません)理解されにくいと思うので補足します。この書き物は仏蘭西ではとうとう今日まで出版されませんでした。私が知る限り、当時の欧米においても正式に全部をありのまま刊行した出版社は無かったと思います。書き物に様々な問題があったので引き受ける出版社が無かったのだから当たり前です。日本語訳で出版されたものは一部に過ぎず、しかも元学生達や研究者仲間達に対するグロタンディーク氏の罵詈讒謗は割愛されています。私はインターネット上の原文(海賊版)でしか目を通したことがないのですが、日本語訳を読んだ知人が教えてくれました。そういう一種の検閲(?)を平気でやれる国(例えば、他には露西亜等)でないと出版出来ず、欧米では無理だったでしょう。当時、もし罵詈讒謗も含めてすべてを出版したならば、間違いなく欧米では訴訟騒動になり、出版社も当然訴えられたことでしょう。正当な罵詈讒謗ならともかくも、被害妄想的な罵詈讒謗は欧米のもっとも嫌うところです。原稿のコピを頼みもしないのにグロタンディーク氏から郵送で無理に送り付けられた、研究者仲間だったアティーヤ卿やグラウエルト博士等が一読して激怒したことも有名な話です。しかしながら、関係者も次第にお亡くなりなる今後はもしかして出版可能になるかも知れません。検閲について言えば訳者(私)は戦前の日本におけるヒトラの"我が闘争"の日本語版という最悪な先例を連想します。いったい何人の馬鹿を日独伊三国同盟賛成へ走らせたことでしょうか]。しかし、上記で引用したP. カルティエの論文を含むプリープリントIHES/M/00/75において数学史家Alain HerremanによるDécouvrir et transmettre[訳注: 真相を探って伝達する]を見出す。Découvrir et transmettreの結論の中で以下を読める:

彼の先輩達の影響にせよ、彼の業績と学生達によるその伝達の評判にせよ、発見の過程にせよ、Récoltes et semaillesは数学の集合的大きさと同じ水準にあり、同時に数学を概念的に詳細に練り上げる試みである。(...)

この時点で、今やこのテキストがたんなる"OK牧場の決闘"とは全く異なることを警告したから、もっと詳細にテキストを吟味した方がよいかも知れず、グロタンディークが1970年から以降の専門家的活動を呼び起こしている多くの箇所を見るだろう:

知っての通り、私の研究所(I. H. É. S)における軍部資金の問題の結果、1970年に私は数学的"偉大なる世界"8を去った。数年の反軍部と環境保護に関する"文化革命"風のスタイルの積極的活動(あちこちで名残があるだろう)の後、私は実際に往来から姿を消し、誰も知らない田舎の大学に埋もれた。噂では私が羊の世話や井戸掘りして過ごしたらしい。実情は他の多くの過ごし方を別にして、他の皆と同様に堂々と学部で私の講義コースをやっていた(それは私の独創性のない収入源だった)。数日間、いや数週間または数ヶ月さえも数学を再び"猛スピード"9でやることがたまたま私に起きた。つまり、箱いっぱいの私の殴り書きがあり、私だけが判読出来るはずだ。
R&S, p. 7510

または:

(...)10年より以上の間11、私の友人12は変わらずに(自明なやり方で)私のために数学での主な議論相手だった。いやもっと詳しく言えば、1970年から1981年まで彼が(一つの出来事の期間を除いて)唯一の議論相手であり、私の散発的に起きる数学活動の時期の間で対話者が必要だった時、私が話したかった人だった。
R&S, p. 307

グロタンディークの出来た仕事を思い出すなら、彼の散発的な活動は確かに一人またはそれより多くの通常の数学者達の活動と同等である!
このポイントを結論するため、モンペリエで彼の学生だったYves Ladegaillerie13の証言がここにある:

科学部での教授として彼は他の人達と同じ仕事をした。つまり、注意深く、有効的かつ献身的に。彼は古いマシーンで謄写版のテキストをタイプしたが、そのテキストは気前よくすべての人に配られた(...)。1973年に彼がモンペリエに到着するやいなや、私は彼と一緒に教えたが、彼はすぐに一緒に或る研究をすることを申し入れた(...)。80年代にはモンペリエで私達は彼、Malgoire、Contou-Carrèreと小さな研究セミナを持った。

これらの証言は十分に数学世界とのグロタンディークの決別の表明が不正確であることを示している。決別があるなら、数学コミュニティ全体とではなく、その一部分、おそらく上記の引用の中の"偉大なる世界"に対してだろう。
数学コミュニティとのグロタンディークの決別のストーリは従って明らかに神話である。しかし、少なくとも最近の2つのテキストに見られるように、この神話は現在改訂されつつある14。一方、Jean-Paul Alloucheは2015年3月のNewsletter of the European Mathematical Societyにある書評(本Alexandre Grothendieck: A mathematical portrait15に関して)の中で、いわゆるグロタンディークの狂気を疑問視している:

グロタンディークの業績と人生に関して数学者達が持つ見解の中で私に思い当たるのは、彼の数学的業績に対する関心及び熱狂と、グロタンディークが持つ他の考え(軍部の資金援助、数学者達が彼等自身の中で作る耐え難い明確な格差、数学をする代わりに環境保護やその類似に従事する緊急性、等を認めるべきなのか)を(少なくとも数学者達の大部分が)拒絶している事実の両方の非常に大きな裂け目である。これらの議題に関してもグロタンディークはずっと先を進んでいた可能性があると考えるよりも、彼が"ちょっと変だった"、または"深刻なうつ状態だった"、または”精神病を疾患していた"さえ言明するのはとても簡単だ。

雑誌Pour la Science16の中のD. Nordonの"Bloc-note"[訳注: メモ帳]にも同様な反省がある:

グロタンディークが1960年代と1970年代に科学機関を批判し始めた時、一部の人達は彼の不満によって煽られたに過ぎないと言って彼の異議を信じなかった。彼はヴェイユ予想を実証出来なかったし、研究機関を罵ることで自分を慰めた。そんな心理学的説明に関する問題はそれらがいつももっともらしく、決して面白くないことだ。フラスチュレィシュンは最も共有される事項だ。私達皆が(一度ならず何回も)入手困難な葡萄を目前にしている狐17だったことがある。だから貴方達が不満のためだと非難出来る内部告発者はいないが、内部告発者が言っていることの価値について何も言ってはいない。何らかの不満を持っている始めての立案者からの議論だけが賢明であるなら、世界が始まって以降、賢明なる議論が考慮されることが無かったであろう! 議論を立案者の恨みの仮装表現だと解釈して議論を不適当とすることは、古くて効果のある不公平なプロセスの権化である。つまり、個人を信用しないことは彼の議論を論駁するよりも簡単だ。特に個人と議論に関連性があれば。

神話は特定利益の防御周辺の或る集団的結束を確保するために仮想的に展開された解釈である。私の仮説は決別の神話が1970年にグロタンディークが立ち去った数学的"偉大なる世界"により作られたということだ。それは複数の問題を提起する。

-"偉大なる世界"とは実際に何なのか?
-実際に数学的"偉大なる世界"があるなら、それが神話の実際の原因なのか?
-一集団が神話を作ったとするなら、その動機は何なのか? 高価であろうとなかろうと何の利益を守ろうとしているのか?

私はこれらの問題に対する答えを知っていると主張しているのではない。それは私の力量をはるかに超えているし、いかなる個人の力量も超えていると私は思う。能力ある数学者達、歴史家達、社会学者達を含む集団的研究だけが関連するやり方で私達に教えるであろう。私の唯一の野心は偏見を持たずにR&Sを読むことが終戦直後の時期と今日の両方の間の仏蘭西数学コミュニティの役割と進化に関する興味深い研究の径を開くであろうことを読者に納得させることである。

だいたい知られている事実の短い説明
1970年より前からグロタンディークの歴史を知っている急ぐ読者はこの段落を飛ばせる。

モンペリエ、巴里に到着、ナンシーでの学位論文
グロタンディークはモンペリエ大学で数学を勉強したが、そこでは数学に対する彼の魅力を十分に満足させないと思った。

モンペリエの科学部で彼は教授が彼に注目せずに学士を修了した(彼も教授に注目しなかった)。それから彼は数学者になるために巴里に行った18

シュヴァルツのモンペリエでの仲間への少し軽蔑的な言及は全く正当とは言えないようだ。実際、グロタンディークは"Monsieur Soula"に或る影響を受けた。"Monsieur Soula"は彼にルベーグ以降数学でやることは何もないと納得させようとした:

私の微積分教師のSoula氏は私には親切で喜ばしい人だった。だが、彼は私を納得させなかったと思う。私の中に数学は広がりと深みにおいて限りのないものであるという先入観が既にあったに違いない。
R&S, p. 34

Soula氏がグロタンディークに推薦状を与え、彼が巴里へ"上京"しアンリ・カルタンに会うこと19を手伝ったのだから、Soula氏はモンペリエ住民の短所を分かっていたとも考えられる。その上に、グロタンディークはモンペリエが彼の数学に対する渇望を満たせなかったと言うならば、それに関して全くネガティヴな思い出を持ってないとも言っている:

それでも今、その3年間を振り返るなら無駄ではなかったと実感する。私は数学者の仕事の本質は何であるか(誰も実際に教えられない)、それすら分からず孤独に学んだ。(...)
言換えると、それらの重大な年月の間、私は一人でいることを学んだ。これはアイディアと(表現されているか暗示されているかにせよ、私自身が一員だと思う大なり小なりのグループから私に来ているか、または何らか他の理由のために私が権威を付与する)コンセンサスに頼ることよりも私の知りたい事柄に関して私自身の心と対話することを意味する。
R&S, pp. 34–35

巴里でグロタンディークは"製作中の"数学の世界を発見し、ルレイのコースに従事したり、カルタンセミナに参加したりする:

翌年に私は"L'École"20[訳注: エコール・ノルマル・シュペリウール]でカルタンのコースを主催した。多様体における微分形式論についてだった。また"カルタンセミナ"の微分形式論に私はかじりつき、カルタンとセールの間の議論を目撃して驚いた。"スペクトル列"の大きな発射(ブルブルッ!)、全状況をカバーするいっぱいの矢線の線画(ダイアグラムと呼ばれる)があったりした。(...) 私はコレージュ・ド・フランスでルレイに会って、(私の記憶が正しければ)彼のコースは何を必要するのか訊いたことがあった。彼が私にした説明を何も憶えていないし、何を必要するかついても何も分からなかった(...)
R&S, p.140

グロタンディークの価値を意識して、A. ヴェイユとH. カルタンは彼を...へ送った:

(...)ナンシー、そこはその当時ちょっとブルバキ本部みたいだった。デルサルト、デュドネ、シュヴァルツ、ゴデメン(少し遅れてセールも)が共に大学で教えていた。
R&S, p. 145

彼はL. シュヴァルツの指導の下で学位論文を書き、それを1953年に擁護した。シュヴァルツが私達に語る:

それは"私の指導下"の学位論文のうちで最も美しかった。(...) この才能ある若者との共同作業は魅惑的で心を豊かにする体験だった21

1953年から1956年まで彼は外国の大学へ幾たびの旅行をした。

I. H. É. S.にて 1958–1970
I. H. É. S.は1948年に実業家Léon Motchaneによって、プリンストンの高等研究所をモデルにして創立された。ジャン・デュドネとアレクサンドル・グロタンディークがその研究所の最初の正教授だった。1960年から1969年までセミナがデュドネとグロタンディークによって運営された。それが"Séminaire de Géométrie Algébrique"であり、数学での講義ノゥトのシリーズとなった。すなわち、有名なS. G. A.だ。このセミナにイリートの若い研究者達、ほぼ独占的にE. N. S.[訳注: エコール・ノルマル・シュペリウール]出身者達が参加した。彼等はグロタンディークの毎週の発表の内容をデュドネの助けを借りて書下ろし、グロタンディークがそれを監督したものだった。セミナのリーダが自分自身で、または少なくとも一人か二人の近い同僚と一緒に教材を書かないことはかなり例外的な状況だ。代わって、グロタンディークが理論の要点を述べ、5人ほどの賢い学生達がほぼ匿名でS. G. A.を書いた。この状況はブルバキのそれと明らかに近いが、一つの大きな違いがある。ブルバキの創始者達、すなわちヴェイユ、カルタン、デルサルト、ド・ポセル、デュドネ...は有名な数学者達であり、同等の権利と義務を有する仲間達であり(たとえ一部の人が他者よりも少しばかり高いとしても)、この"リーダのいない"共同責任は若い世代(カルティエ、セール、...)に関しても続いたらしい一方で、S. G. A.に対しては数学を書下ろすのは学位論文を準備している若人達だ。その書下ろす数学は部分的に彼等のものに過ぎない。同時に1960年から1967年の間、グロタンディークはデュドネとの共同作業でElements of Algebraic Geometry(E. G. A.)を書いたが、単独で彼の名前の下でI. H. É. S.出版の8巻の形式で登場した。
1966年、グロタンディークは中央欧羅巴におけるソ連の政策に抗議し、フィールズ賞受賞のためのモスコゥ行きを拒否した。しばらくして、彼は米国に対抗してヴィエトナム支援に参加し始めた。

世界への開始
1968年の出来事の後に続いて、グロタンディークは政治的積極行動主義に従事した。彼の2つの主な参加は軍事目的のための科学研究の告発と"Survivre et vivre"[訳注: 生残りと生活]運動の創設への参加だった。"Survivre et vivre"運動は仏蘭西における最初の政治的環境保護運動だった。
1970年にI. H. É. S.がいくらかの小さな軍部資金を受け取っていたことを発見すると、彼はこの補助金はすぐに終わるのかと訊いた。彼が望んだ同僚達からの支持が無かったので、彼は辞職した。1971年にコレージュ・ド・フランスは彼を2年間任命したが、彼のコースは"La théorie de Dieudonné des groupes de Barsotti–Tate"[訳注: Barsotti–Tate群のデュドネ理論]に関するコースに加えて、題目Science and Technology in the current evolutionary crisis: are we going to continue scientific research?[訳注: 現在の進化危機における科学と技術: 我々は科学研究を続けるのか?]に関する授業を目論んでいたので継続されなかった。この機会においても、科学コミュニティからの期待される支持を受けなかった。

"偉大なる世界"とは何なのか?
R&Sからの私の最初の引用の中で、グロタンディークは数学の"偉大なる世界"からの出発について語っている。R&Sの中で"偉大なる世界"という表現が29回出現すると私は数えたが、"美しき世界"とほぼ同じ頻度だった。彼は脚注で定義を与えている:

背景に数学者達の世界には或る精神に関する考え方もあった。とりわけ、数学の、いわゆる(嘲り又は馬鹿にした音調無しで)"偉大なる世界"に。すなわち、何が"重要"又は"合法的"か、何がそうでないかを決定するために"全体の調子を決める"もの。そして、それは刊行物とかなりの程度にまで職歴を管理する。
R&S, p. 388

しかし、ここに表現"(嘲り又は馬鹿にした音調無しで)偉大なる世界"を使用していると彼が明記するのであれば、私はそれについて考えるべきことは無い一方で、殆どの部分において彼の意図は少なくとも皮肉的である。それが"偉大なる世界"によって私の個人的に意味することを指定しようとする理由だが、これが正にグロタンディークの意図したことだと主張してはいない。
数学的知識の進歩を促進することは人々のコミュニティによって導かれる複雑な共同事業である。任意の大きさの任意の人間コミュニティと同様に、数学コミュニティは規制のテキストと伝統の中に書かれている運営規則を持つ。任意のコミュニティと同様に、運営責任者を持つ。すなわち、研究所の所長、C. N. U.22[訳注: Conseil national des universitésのこと。仏蘭西大学評議会]の会員、アカデミの会員、科学協会の指導者達等。彼等は与えられた権力を行使することで研究機関運営をベストにする責任を有する。彼等は指導者達であるが、必ずしも私が言うところの"偉大なる世界"の部分ではない。
"偉大なる世界"はどこか他に探し求められるべきだと私は信じる。"定着した知識"の伝達に加えて、数学コミュニティの使命は任意の科学コミュニティと比べて、集積された結果の大部分の中で何が正確に"定着した知識"となる天職を持つのか識別することだ。この本質的な使命は、ソ連で見られるルイセンコ主義、または米国で見られる反進化論のように政治権力や国家によって引き受けさせられるはずがない。西洋流のディモクラシにおいて、"ピヤ判断"と知られているものに託された。"ピヤ判断"は2つの極めて重大な機会に実施される。
一番目の機会は、よく知られているように、数学ジャーナルに提出された論文を査読するプロセスと、二番目の機会は人々がアカデミクなポジシュンに採用される時で、そこでは統制と教育資格のバランスの問題が科学的優秀さと競合する可能性がある。理論上において各ピヤの声は同等であるが、主要な数学者達の声がより小さな人達の声よりも重んじられることは当然である。
何人かの数学者達又は数学者達のグループの持つ見解が彼等の優秀さを帯びて高度なので、彼等は彼等の数学的先見が何が何でも勝るに違いないと考えることがたまたま起きる。それはたんなる協調組合主義の考え方よりもずっと強く、統制を守り、友人達を"適合"させようと努力する。反対意見への極端な不寛容に近い、ずっと不穏な考え方だ。彼等が数学であるべき(ブルバキが言うような"La mathématique")と考えるものを防御し、"真の教義"を広め、アルナウド・ダンジョワがブルバキについて言う23ような真の十字軍戦士のように振舞う使命感を彼等は思っている。

私は貴方達の絶対主義、数学の教義を手中にしているという貴方達の確信、ブルバキ聖典に対する邪教徒を絶滅させるための剣を描く貴方達の機械的身振りを心配する。[...] 私達の多くが貴方達を横暴、気まぐれ、セクト的だと判断する。

私が"偉大なる世界"又は"美しき世界"と呼ぶのは、これらの数学者達(彼等はしばしば非常に高名だが、全員が必ずしもそうではない。そして、確かに特大の自尊心を有する)のことである。だから私の"偉大なる世界"はAlain Herremanが言うところの(グロタンディークの言葉で)"小宇宙"ではない。この"小宇宙"は約20人の同僚達又は学生達(彼等は数学と本職の関係を持って来ている。たとえ何人かは数学の一部分であっても)から成る。既に言ったように私もここで、私の"偉大なる/美しき世界"が実際にグロタンディークの意味することであると実証しようと努めないが、R&Sのいくつかの引用箇所を読むために、この概念を少し漠然と簡単に使用する。

1970年より以前: グロタンディークは"偉大なる世界"にいる...
"偉大なる世界"という私の概念において、個人に属性があると私が考えるいくぶん熱狂的振舞いは、グロタンディークがそのメンバであるか否かを敏速に決定するほど可能ではない。そして私はそれをしない。彼が数学の防衛という名分の下で悪いケィスを喜んで揉み消したのかどうか私は知らないし、私が知っていることは1970年より前は彼の全人生が数学、彼自身の数学に捧げられたことだけだ。それはまともな選択肢である。しかし、I. H. É. S.での彼の特権的地位が彼を"偉大なる世界"に非常に近づけ、その態度をいくぶん意識的に採らせたことは議論の余地が無い。R&Sの中で彼はこの振舞いを厳しく批判しているし、それを今(1983年以降)は有害であると考えている。ここで興味あることは、この批判(多くの自己批判を含んでいる)がたんなる低俗な"恨み晴らし"に過ぎないという口実で洗い流されるはずがないということだ。だから彼は詳細に彼の"軽蔑"としての態度のいくつかを説明している。それを彼は追想して厳しく判断している:

その当時の私自身に戻ると弟子24が実に非生産的なら、彼に他のことをやるようにとアドヴァイスして、彼との共同研究を止める理由がそれだということを言わなかったが、彼をぞんざいに扱ったのではなかった。この権威ある先輩が"誰も"迷惑せずに軽蔑することが当たり前かのような程度にまで私も"数学に強い"と自分自身を認定していた。
R&S, p. 146

人に対する敬意と数学的創造の過程における尊重の重要性に関する、この問題はR&Sの中で大きな場所を占めているが、これは私が解決したいポイントではない25"偉大なる世界"のモラル姿勢に関する必然的に主観的になる認識より以上に、もっと客観的に感知出来る伝統がある。その実例が以下だ:


1960年又は1961年まで私はVerdierに可能な学位論文の研究としてホゥモロジ代数の新しい基礎の展開を提案した。(...) 基礎に関する彼の研究は申し分なく継続し、1963年に導来及び三角キャテグリにおける"State 0"に関して日の目を見、I. H. É. S.によって謄写版で印刷された。(...)
まだこれからの基礎研究の初期である、この50-ペィジのテキストが学位論文27を形成するとは思いもよらなかったので、その論証26[訳注: Verdierの学位審査]が1963年ではなく1967年に行われるなら、勿論何の問題も起きなかった。同じ理由のため、1967年6月14日の学位論文論証において(C. シュヴァレー、R. ゴデメン、私自身から成る審査員達の面前で。私が議長をした)は、この研究を学位論文として発表することは問題外だった。審査員に提出された17ペィジ(+参考文献表)のテキストは進行中の大規模研究への序論として発表された。(...)
R&S, p. 352

私達は、その当時に"thèse de doctorat d'état"[訳注: 学位論文]のため要求した"第2論文"論証の伝統から遠く離れている。"第2論文"論証は学位候補者の専門から離れた研究の口頭発表から成っていた! グロタンディークは以下のように認識している:

J.-L. Verdierがこの17-ペィジのテキスト(いくつかのアイディアの概略を書いてあり、そのアイディアのすべてが彼のものとは限らないことも認めている)を基にして科学の博士号を授けられるなら、審査員と彼自身との間で明らかに友好的な契約があった。すなわち、この研究(その華々しい序論を彼は発表した)を完成させ、利用可能にすることを彼は世間に確約した。
R&S, p. 352

このグロタンディークの証言が元学生に対する彼の"恨み"の文脈で語られていることは事実の客観性を減じない。その事実はE. N. S.における研究所長としてのH. カルタンの後継者に関係するので重要である。Verdierがその当時において高品質な数学者であったということは、おそらくその分野(私は知らない)の専門家達にとって疑いないことであるが、規則、伝統を見直し、彼が最小限の草案研究で逃げることを了解するに値する十分な理由だったのか? R&Sの著者グロタンディーク、従って決別後のグロタンディークは実際に、この時の彼の軽薄さを示していると考えている:

私はJ.-L. Verdierの学位論文指導者及び審査議長として、まだ全く完成してなかった研究に対して彼に博士号を授与してしまった(C. シュヴァレー、R. ゴデメンと共に。両者は私がした保証を信じた)私の愚かさについて全責任を受ける。(...) この責任に対し、続く2年間(数学舞台からの私の決別の前)にVerdierが実際に契約を果たしたことを確実にしなかったことも付け加えるべきだ。
R&S, p. 353

グロタンディークは確かに責任があるが、シュヴァレーやゴデメン、もっと一般的に言えばS. G. A.の小宇宙よりも少ないと私は思う。S. G. A.の小宇宙はこれ以上問題にしないでいる。彼はS. G. A.の活動と数学を同一視して数学だけのために生きていたから、彼はこの恥辱の伝統の申し訳が立った。つまり、彼の異色な経歴のため、伝統をあまり分かってなかった。

...そして他の側にいる: 1970以降
R&Sの大部分がグロタンディークが言うところの"偉大なる世界"の複数メンバが同業組合に属さない数学者の研究を最初は無視し、そして2度目にはそれを略奪したということで非難する"ケィス"に専念している。グロタンディークのこの証言には理解すべき興味深い事柄が確かにあるが、関係する数学と断言された事実の真実を非常によく理解していることを前提としており、全く私のケィスではない。これはグロタンディークが最も個人攻撃に没頭している部分であり、その根本は鋭い専門家達によってきちんと認識され得る。私はそれについて語るつもりはない。他方で、以下に続く証言はモンペリエでの"普通の数学者"としての研究に関係し、説明を要しない。
"偉大なる世界"を去るという決心をした事実にもかかわらず、グロタンディークはまだ数学をやり続けるつもりである。モンペリエにいる間、彼は数人の若い数学者達に興味を持ち、普通の数学者の人生を経験する。詳しく述べる前に、これらの事例は、例えば若い数学者達の研究に彼が是認を与えることはもはや研究の評判に"偉大なる世界"(彼はもはやその一員ではないのだから)による効果が無いことを彼が分かる事例である。
問題の研究は彼自身の一連の研究に関係するので(当然、それらの研究の価値について彼の証言に関係するからだ)、彼はそれらの拒絶を"埋葬"の企てにあると言い、それのいけにえだと感じている。だが、もう一つ別の読み方があり、グロタンディークに集中せず、簡単により事実に基づく。それをここで試すことが出来る。

刊行における困難
1970年代、Olivier Leroyは能力でグロタンディークに印象付けたモンペリエ出身の若者だった:

彼はちょっとのダイヤグラム、ちょっとのトポロジとトポスしか知らない、多分20歳の若い男性だったが、多くの無限離散群を処理したと私は思う...正直言えば3回無駄だったが、それでもその後で彼は空所すべてをともかく埋めることが出来、しかも、その分野に関して15年間馴染んでいることを基にした古いヴェテランたる私が2時間又は3時間猛スピードで彼に話す骨折り無しで、彼は"感じる"ことが出来た。私はそのようなことを見たことがない、もしくはせいぜいドリーニュについてだけ、そしておそらくカルティエについても。カルティエもその点においてそんな若さで極めて異常だった。
R&S, p 406

O. Leroyは彼の研究のいくらかをノゥトの形でC. R. A. S.28[訳注: Comptes Rendus de l'Académie des Sciencesのこと。つまり科学アカデミ報告]に書いた。そのノゥトは却下された。グロタンディークはこの却下について意見を持っている:

私の往年の友人且つ仲間の一人が最近穏やかに私に、時が経つにつれ我々が気付いている、数学出力の計り知れない増大のため、好むと好まざるとにかかわらず"我々"は刊行のために書かれ提出された論文を厳選し、ほんの小さな部分しか刊行せざるを得ないと説明した。まるで彼自身もこの避けられない宿命の犠牲者であるかのように、誠実で寂しげな表情でそれを言った。どの論文が刊行され、どれがそうでないかを決定する"仏蘭西での6人又は7人"のメンバ(そう不幸であるが、それは事実だ!)でもあると彼が言った時も同じ表情をした(...)
R&S, p. 187

この引用箇所の中でグロタンディークは"偉大なる世界"のメンバの一人のかなり明らかな描写を提供している。彼はこの人物に再び来る:

一か月か二か月後に、この同僚が数年前に"報告"[訳注: 科学アカデミ報告]に或るノゥトの発表を拒否したことを私は知った。その議題と同様に著者(約7年か8年前、私が彼に提案したもの)も私にとって大切だった。(...)
私は彼が素晴らしい仕事(thèse de 3e cycle[訳注: 修士論文]と称される)をした思う。私はこの若い研究者のボス(彼と同様に素晴らしい才能を持っている)に会ったことがなかった(歓迎ぶりから判断して、彼が才能を数学に使用することを続けるのかどうか私は分からない...)が、私に何らかの接触無しに彼は研究を完成させた。だが、展開された議題の起源は疑わしいはずがないことも事実だ。彼は大きな困難に見舞われたかわいそうな人であり、おそらく何も疑わなかった! この同僚は洗練化された物腰で少なくともそれがあると言ったが、私は彼から少しも期待しなかったので"誠にすまないが、貴方は分かっている..."。非常にやる気のある、出発したばかりの研究者による研究の2年間対3ペィジの"報告"コスト。いくらの公金を要するのだろうか?
R&S, pp. 188–189

そして、しばらくしてから、この研究が認知されることに苦闘していることを知る。彼はその時、面白いが完全に想像化された査読者の振舞いの記述をしている:

"報告"に提出された同じノゥトの草稿が"仏蘭西での6人又は7人..."の一人ではあるが、もう別の人へ提出される光栄を受けたが、彼はこれらの数学が"彼を楽しめさせなかった"(本文のまま!)から草稿を著者の"ボス"へ返却した。そのボスは反発心を覚えたが用心深く、彼自身がかなり不安定な地位にいたので、何か不愉快なことを言うよりも何も言わないことを好んだ。この同僚且つ元弟子とそのことを議論する機会があった。彼はノゥトを注意深く読む努力をし、それを考え(多くの記憶を呼び戻していたに違いない)、いくつかの命題が利用者のためにもっと助かるやり方で表現されることに気づいた。しかし、彼は貴重な時間を割いて問題の人にコメントを投稿さえしてくれなかった。有名な男の15分の時間対無名な若い研究者による2年間の研究! 数学は彼をノゥトで研究された状況を再開する(様々な幾何学的関連の豊かなタスピチュリを私自身と同様に彼自身の中においても生成することに失敗するはずがない)機会を掴むために十分楽しませた。そして数学は彼を与えられていた記述を彼の経験と方法があれば何の苦労もなく同化し、いくつかの拙劣又は欠陥を見つけるために十分楽しませた。彼は時間を無駄にしなかった。或る数学的状況に関する彼の知識は最初の一歩を踏んだ研究者による誠実な研究の2年間のおかげで浄化し豊かになった。達人なら確実に数日内で(実証のない大まかなアウトラインを)出来る研究だ。このことを知れば、我々は何者なのかということを思い出す。原因は無名氏による2年間の研究がごみ箱に相応しいと判断されることだ...
R&S, p. 188

以下のケィスにおいては、グロタンディークの学生に言及しているので、もっと個人的に関与している:

Yves Ladegaillerieは1974年に私と研究を始めた。(...) そして、彼に研究が"傾いた"日までに彼はだいたい分かった。いつ、どうしてかは私は知らない。(...) Yvesが分かった瞬間から一年間学位論文をやり、それから半年に結果、執筆、すべてをやった。その上に製本した。私と一緒に書かれた殆どの学位論文よりも分厚くなく(だが、11部の論文と同じように内容が濃い)、素晴らしい論文だった。論証は1976年の5月に行われた。学位論文は今日まだ刊行されてない。(...) 中心の結果は最終的に9年又は10年後に要点にまで縮小されて、Topology(しっ! 私はこの尊敬に値するジャーナルの編集委員会の中に共犯者を知っている)の短い記事の中に登場するだろう。
R&S, pp. 399–400

私の世代の普通の数学者で"偉大なる世界"と付き合ったことがない人はこの証言に驚かないし、喜んで読むだろう。いくぶん"水を撒いたスプリンクラ"である。グロタンディークが"偉大なる世界"のグルーだった時、彼の見解は神の言葉として懇請されたが、今や彼はもはや認められてないのだから、可愛らしい小さな"ノゥト"さえ作れない!
一般的に認められているように、特に権力を持つ強大な封建制の組の部分の人でなかったなら、刊行は必ずしも容易ではなかった。しかし、当時では盲従的な忠誠を超えて、アカデミにノゥトを載せることが可能ではなかったという印象を私は与えたくない。私に少し個人的な証言をさせてほしい。1980年代の始め、私が所属した数学の小さな学校が異議を唱えられ、何かを発表することが困難だった。私はR. トムと連絡を取った。問題の学校のアイディアに対する彼の敵意を私は知っていたが、彼の人の話を聞く能力の質の良さを認識していた。私の指示で若い同僚が彼にノゥトを"報告"に紹介してほしいと頼んだが、彼は紹介した。びっくりして、私の学校の見解を彼が納得してくれて喜ばしいと私は彼に話した。"全然..."と彼は私に答える。
-"しかし、貴方はノゥトを送らなかったではないか! その時は確かに? 私は分からない"。
-"非常に簡単だけれども。Mr. Xは全く優秀な数学者だと私には思える。彼は私を納得させなかった。それは事実だが、私以外の他の人達が納得しているようだ。何の権利で、関連しているかも知れない、それらのアイディアをコミュニティから私が剝奪するのか?"。
これはグロタンディークの"往年の仲間"の想像上のスタイルとは異なる。

プロの事例
Contou-Carrèreは非伝統的な経歴を持つ数学者だ。外国博士号の取得者として彼はペルピニャン大学29での教授職の唯一の候補者であり、地方の数学者達に支持されている。"Comité Consultatif des Universités”[訳注: 大学諮問委員会](C. C. U.)は提案を却下する。

Contou-Carrèreの立候補期間が"Comité Consultatif des Universités"によって認めがたいと採決され、ファィルが返されたという事実は残る。私を面食らわせたことは、正式な説明が無い時に(国家委員会が決定した)CCUの議長も、どの委員も個人的にContou-Carrère彼自身へ、又は少なくともペルピニャン数学研究所所長のどちらかへ、この投票の意味に関する数語の説明を与えるために書くことの最小限の配慮を持たなかったことだ。そのことは、申し込まれていたポストを立派に満たせる唯一の候補者の否認であるとともに、ペルピニャンの同僚達の選択の痛烈な否認として見なされるのみであろう。
R&S, p. 400

C. C. U.によって示された侮りは"偉大なる世界"の精神を示している。もちろんC. C. U.はそのケィスの要旨に関して正しかったのかも知れないが、否認に対する理由を説明しないことは全く受け入れ難い。最後に、グロタンディークが標準的なランクの数学者に落とされて自尊心を傷つけられた最後の出来事を示させてほしい。
1983年に組織的存在が無く、メンバも分からない"Commission des Thèses de Mathématiques des Universités Parisiennes"[訳注: 巴里地区の各大学数学学位論文委員会]というものがあった。数学委員会は巴里地区にある大学で実施する論証のためには承認を受けなければならないことに賛成した。この委員会の異様さの一つはその決定を動機付けしなかったことだ30
1983年、グロタンディークはContou-Carrèreの学位論文を論証させたかった。

[グロタンディークはVerdier自身の論証に言及している]J.-L. Verdierが1983年12月のContou-Carrère学位論文審査会の一部であるべきだという私の提案を拒否したことはなおさら注目すべきだ。Contou-Carrère学位論文審査はJ. Giraudと私自身が研究指揮官の役割を引き受け、学位論文が完全に書かれており、それでもJ. Giraudによって慎重に読まれたと評価したが、審査会は"Commission des Thèses de Mathématiques des Universités Parisiennes"への照会無しでは十分な重大性の保証を申し出ようとはしなかった。
R&S, p. 353

R&Sにおいてグロタンディークは主に1970年以降の彼の新しい状況の原因をモーレィズ[訳注: 社会的習慣]の退化にあると考えている。彼は同時代の人々と彼の弟子達(彼等は堕落を楽しんでいるだろう)の中に欠けている、すべての種類の道徳美徳を先輩達(ヴェイユ、カルタン、デュドネ、ルレイ...)のせいにしている。もっとはっきり言えば、60年代から70年代にかけて、グロタンディークにとって主に変わって来ていることは数学世界よりも、むしろその世界における彼の地位である。しかし、この世界の進化は排除されない。ともかくもう一度言う。彼の証言は注目に値する。

神話から誰が得をするのか?
これらの証言を考慮して、仏蘭西の数学コミュニティにおいて"ピヤ判断"の実施にいくつかの深刻な欠点の存在に注意せざるを得ない。グロタンディークの証言は暴露ではなく、モンペリエ大学により謄写版印刷された250部のコピのグロタンディークの流布の時に、この種の深刻な機能不全に関する他の証言があった。しかし、それらの著者達(しばしば控えめな数学者達)の個性はそれらがあまり注目されないことを意味した。"偉大なる世界"は、それらの著者達のいわゆる凡庸を強調することによって、それらに疑問を投げかけるための良い根拠を持っていた。だが、グロタンディークに関しては、この種の議論はもはや十分ではなかった。
だから"偉大なる世界"は決別の神話を創案した。グロタンディークの妥協しない個性は見事に作戦に適していた。彼の"偉大なる世界"との決別はコミュニティ全体からの撤退と混同され、数学者達の集団的研究に関する彼の妥協しない分析は"恨み晴らし"と混同され、特殊な死生観の表現は"不可思議な精神錯乱"と混同された。
全体としてのコミュニティがグロタンディークの戦闘的挑発に賛成しないことをよく知る"偉大なる世界"は間違いなく余りにも多すぎる疑問は訊かれないと考えている。つまり、時間が休止するだろう。
コミュニティがグロタンディークの戦闘的挑発に賛成しないとは、例えば:

-ニース会議において、数学者L. S. ポントリャーギンに彼の研究の潜在的軍事使用について異議申し立てすることは高く評価されない。
-人はコレージュ・ド・フランスでの席を68世代[訳注: 1968年に起きた反権力闘争に参加した世代のことを指します]における左派チュリビューンに変えない。

さて、たった今記述したばかりの"偉大なる世界"(そして、もはやこの形で存在しない)を高潔にやじることを思いとどまろう。"偉大なる世界"から距離を置くことが確かに流行になって来ており、"偉大なる世界"を軽蔑することさえも。例えば、後知恵に"ブルバキの誤り"という批判を通して。ブルバキは数理物理学、確率論の重要性を認識出来ず、コンピュータ計算の重要性を予見出来なかった。現在の数学コミュニティにとって、最も著名なメンバ達のうちの一人の証言を考慮に入れることを拒むことは同じ不幸な誤りだろう。1950年と1980年の間にコミュニティが異常に急激な増大をしたことを思い出さなければならない。私の記憶が正しければ、私がグルノーブルで勉強していた時の1960年の科学部で数学教師は約15人いた。1970年に私がそこを離れた時に約150人がいた。戦争前、しばしば第二学校[訳注: 小学校と大学の間の学校]を通過した後に、エコール・ノルマル・シュペリウールに入った、殆どいない元学生達が研究に行ったものだった。
状況は終戦後すぐには変わらなかったが、それから突如60年代の間に事は加速した。数学者という職業の"大衆化"の成り行きについて懸念することが普通だった。"偉大なる世界"の個人の傲慢さは確かに正しい答えではなかったが、この背景で分析されなければならない。
高い社会的地位を持つ、この"偉大なる世界"がI. H. É. S.を作ったものでもあることを忘れてはならない。年間数百万[訳注: 金額単位は明記されてませんが、おそらくユーロでしょう]の予算を持つ、この小さな研究所は存在する半世紀の間にフィールズ賞受賞者を11人も収蔵した。絶対何も無いことはない! 特にブルバキが"見落とした"分野が今まさに説明されているのだから。そして、私のI. H. É. S.への言及が考察するには余りにもイリート主義過ぎると思うならば、CIRM[訳注: Centre International de Rencontres Mathématiquesのこと。数学会合国際センタ]を考えよ。広いコミュニティの世話をする、この完全に民主的な機関はイリート主義者の中でも最もイリート主義である人のエナジのおかげである。その人とはジャン・デュドネだ。
"偉大なる世界"の役割は、封建主義世界と資本主義世界の間の変遷における一つの時代という背景できちんと認識されるべきだ。終戦直後の時期から1970年代までにおいて仏蘭西の数学界は封建主義世界の中でのように機能した。封建主義世界では合法性が家系から来る。20年後、明らかに資本主義世界に変わった。資本主義世界では合法性が人が作れるお金から来る。この変遷は古い世界での対立、純粋数学での対立、応用数学とコンピュータ科学の新しい世界とともに起こった。ブルバキ帝国の衰退は研究を組織立てる新しい方法を提案する新しい優勢の発展を予測した。現在の大物達を支える大きなピラミド状の組織はもはや存在しなかったが、単独の活動的な科学個性によって活気づけられた小さな競争ティームが存在した。他にもいろいろある中で例えば、INRIA31[訳注: Institut National de la Recherche en Informatique et Automatiqueのこと。仏蘭西国立情報学自動制御研究所]とジャック=ルイ・リオン(コンピュータ科学に関係する数学の隆盛における象徴的人物)はテクノサイエンスの中へ数学における新しい発展モデルを見事に提案した。導入された新しい原動力では、"偉大なる世界"による支配が"評価"のそれに代わり、優れた数学者達の傲慢はまさしく優れた"管理者"のそれに代わって来ている。その非難すべき行き過ぎにもかかわらず"偉大なる世界"の抵抗が際限の無い商業主義(私達がガリレオ以降に知っているように科学の死に導くだろう)から私達を少しも守って来てない(一時的?)かどうか誰が知ろう? 1970年代の潮目時点での仏蘭西の数学コミュニティにおける権力構造の進展に関する研究がまだ余りにも少なすぎる。現在の状況になったメカニズムに関する良好な知識は明らかに将来をより良く理解するために本質的であり、批判的だが正直な気持ちでR&Sを読むことが助けになる可能性がある。私はこの論文を単純に或る使命を喚起させる望みで書いた。
保護されているとグロタンディークが思った"偉大なる世界"が今や存在しないのだから、彼の科学との決別は神話である。

謝辞
(略)[訳注: 面白くもないので略しました]

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