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切り詰めた草稿

2022年01月13日にグロタンディーク氏の Récoltes et Semailles (以降 R&S と略記します)がやっと仏蘭西でGallimard社から出版されたことは皆さんも御存知でしょう。これはグロタンディーク氏がお亡くなりになり、それと前後して同時代の有力数学者等の関係者も故人となっているので遅かれ早かれ出版されるであろうことは誰もが予想していたことでした。しかし、文芸出版の老舗であるGallimard社から出版されることは少なくとも私には予想外でした。Gallimard社は R&S をノンフィクシュンではなく、あくまで創作物と見なしているのかも知れません。だから、ひょっとして訴訟沙汰になるかも知れぬ作品の出版を決断したのでしょう。 そうは言っても、関係者全員が故人になったわけではなく、例えばグロタンディーク氏が執拗に攻撃した弟子筋ではドリーニュ博士等がご健在だし、気の毒にも全く的外れの攻撃対象になった日本の柏原正樹博士もいらっしゃるし、よく出版を決断出来たなぁと感心してたら、仏蘭西の知人がそれらの人達はグロタンディーク氏よりも年下だけど遥かに大人だよと書いて来ました。勿論Gallimard社はプロの出版社ですから、用意周到に何年も前から関係者各位に根回しをしたことは間違い無いでしょうが、確かに上記の人達が大人でなければ成立しません。 さて、今回紹介する記事は Inference に掲載されたPierre Schapira博士の A Truncated Manuscript です。これは出版された R&S を書評対象とするリヴューです。Schapira博士と言えば、佐藤幹夫博士を頭とする、いわゆる佐藤学派の擁護者としても有名であり、柏原正樹博士との共著 Sheaves on Manifolds を読んだ人も多いことでしょう。  Schapira博士は出版された R&S にはグロタンディーク氏の追記と脚注の最新のものが含まれていないことを疑問視しています。仏蘭西の知人ともe-mailで議論した結果、私はそれは止むを得ないのではないかと思います。 R&S はinternet上にいろいろな海賊版が出回っており、どれが正本なのか、科学捜査でもしなければ判定出来ないくらいです。また、追記と脚注がグロタンディーク氏本...

証明支援系が一流数学へと飛躍する

昨年2022年10月以降にコロナヴァイラス対策が緩やかになり、外国人客の来日が増えました。私の欧州某国の知人も久方振りに来日することになり、私が案内兼通訳として同行することになりました。どうしても関西圏にも足を延ばしたいということで、関西在住の友人共にも協力して貰いました。関西訪問中、関西でも屈指の大手私鉄の普通列車に乗ったのですが、私達が着席した座席列の向かいの座席列が私達の座席列よりも短く、乗車扉付近に空間を大きく取っていました。何気なく書かれている日本語を見ると“大きな空間を作るように座席を配置しました”とあり、その下に英語、中国語、朝鮮語等が書かれていました。しかし、その英語を見て私は思わず座席からずり落ちそうになりました。そこには Seats were arranged to make larger spaces . となっており、いかにも機械翻訳でやっつけ仕事をしたことが窺えます。こんな簡単な文章でさえ機械翻訳に頼るなんて小中高生かと思いました。まともな大人(つまり、18歳以上)がやることではありません。隣の海外知人の顔を見るとマースク越しでも笑っているように見えました。皆さんはこの英文が何故おかしいか分かりますか? これをおかしいと思わなかったら、平均的知性が無いと言ってもいいでしょう。 先ずおかしいのは Seats が全く限定されていないことです。一般的な Seats 、もっと分りやすく言えば世界のどこでも存在する Seats が大きな空間を作るために配置されるのでしょうか? だから、せめてここでは定冠詞theをつけないとおかしいのです(定冠詞をつけず、 Seats on this train 等のように修飾限定する方法もありますが)。それに伴って larger spaces の方にも定冠詞をつける必要があるのですが、そのまま the larger spaces では見っともなく、また動作の受動態(状態の受動態ではなく)はbe動詞よりもgetを使う傾向が欧米では強く、更に時制も単なる過去形よりも現在完了の方がよく(と言うか、そもそも過去形にすること自体がおかしいのです。この車両の歴史を説明したいのなら話は別ですが、そんな必要があると思わないのが普通でしょう)、元の文を最大限生かすなら The seats have got arranged t...

IMU Fields賞 2022 Maryna Viazovska インタヴュー

 前々から思っていたことですが、日本のアマゾンの洋書リヴューを何故か日本語で書く人がいることを私はずっと変だと思っていました。一体誰に読んで貰おうと想定しているのでしょうか。日本のアマゾンで洋書を注文して読むのは日本人だけだと思っているとすれば相当にお目出たいと言わざるを得ません。日本在住の外国の方を何人か知ってますが、彼等の日本語能力は一般的に日常会話では支障無いのですが、読み書きが余り出来ません。全部ひらがな、もしくはカタカナの文章なんて普通はあり得ませんから、どうしても読解に制約があるのです。彼等も日本のアマゾンで洋書を注文しますが、リヴューを読みたくても殆ど日本語なので参考にならないのです。但し、断っておきますが、発音するだけなら日本語ほどやさしい言語は世界にありません。何故なら、純粋な子音が存在しないからです。あ行以外は子音ではないのかと思っている馬鹿は以降を読まずにお引取り下さい。発音がやさしいから来日早々でも結構話せる人が多いのです。結局難しいのは日本語会話ではなく、読み書きの方なんです。特に手で漢字を書くことは外国の方には至難の業らしいです。ですから、洋書リヴューはその洋書の言語で書くべきであり、そうすることで日本語という特殊な言語の防波堤に隠れて好き勝手なことを喚いている卑怯者達と後ろ指を指されないことにも繋がります(と言うか、そもそも大学までも含めて少なくとも約10年間も英語を勉強したはずなのに、聞く話すは勿論のこと、読み書きすら出来ないのはおかしいと私の海外の知人達は言ってます)。そして、もしかして原著者がたまたま日本のアマゾンの洋書リヴューを見る可能性も皆無ではないでしょう。そんなことがあればリヴューワとして本望だと思います。 さて、今回紹介する記事は前回(“ 欠乏、そして戦争と平和の時代に一人のユクレイニヤンが数学に魔力を見つける ”)に続いてMaryna Viazovska博士のもので、“ IMU Fields Medal 2022 Maryna Viazovska Interview ”(PDF)です。このインタヴュー記事を読んで私が思ったことは二点あります。一点はViazovska博士はご自分の研究分野を幾何学だと自負していることです。これは意外でした。彼女の研究分野は数論、もっと正確に言えば解析的数論だと私なんぞは思ってまし...

欠乏、そして戦争と平和の時代に一人のユクレイニヤンが数学に魔力を見つける

 数学に少しでも関心があるなら、ICM 2022においてMaryna Viazovska博士がFields賞を受賞したことは御存知でしょう。博士は女性で史上二番目の受賞者であり、ユクレイニヤンですから、日頃は下らない番組しか流さない日本のミーディヤもニューズ番組で少しばかり彼女のことを報じていたようです。ただ気になったのは、私の周辺の素人衆の中には賞選考の過程で政治的思惑があったのですかと訊く馬鹿がいました。その人は数学のことなぞ全く知らないので、おそらく日本の馬鹿ミーディヤの受売りでしょう(政治家とミーディヤは国民の民度を忠実に反映していることをお忘れなく)。Fields賞の公式発表はICMの開始の日に行われますが、受賞の内示はもっと早い時期にあります。今回で言えば、Viazovska博士はラシャのユクレイン侵攻が始まった02月24日よりもかなり前に内示を受けたはずです(私が聞いた範囲では大体01月中旬くらいには連絡が行きます)。だから政治的思惑云々は全くの的外れです。そして、そんなことよりもViazovska博士の業績の圧巻性がFields賞受賞となったことを知って欲しいので、今回紹介する記事はQuanta誌に掲載された In Times of Scarcity, War and Peace, a Ukrainian Finds the Magic in Math です。その私訳を以下に載せておきます。最後に、 Glory to Ukraine! I always stand by you. [追記: 2022年07月21日] Maryna Viazovska博士については“ IMU Fields賞 2022 Maryna Viazovska インタヴュー ”も参照して下さい。 [追記: 2023年05月16日] Maryna Viazovska博士については他にも “数学問題は親密なものだ” があります。 欠乏、そして戦争と平和の時代に一人のユクレイニヤンが数学に魔力を見つける 2022年07月05日  Thomas Lin ,  Erica Klarreich 母国が戦争で苦境に陥りながらも、球充填数論学者のMaryna Viazovskaは86年のFields賞の歴史の中で2番目の女性受賞者になる。 Maryna Viazovs...

数学者達が数学事項を互いの名前に因んで命名することを止めるべき理由

大学院前期課程もしくは修士課程の数学系の入試は大学によって多少は異なりますが、少なくとも数学と英語の試験があります。少し前に私の友人共の一人が英語の試験の担当になったことがありました。数学系の入試なので、英語と言っても難読な長文読解はありませんが、英作文は少なくとも一題は出題されます。その友人が出題した英作文の問題が以下です(問題文の英文は私が友人から内容のみ聞いて書いたものですので文責は私にあります)。 (問題) If A and B are the subsets of real numbers such that A ⊃ B, respectively, then it follows that sup A ≧ sup B. Here, we mean the least upper bound of A  by sup A and the least upper bound of B by sup B. Write its proof in English. 断っておきますが、あくまで英作文の出題であって、数学の出題ではありません。証明すべき命題も“日本の首都は東京である”並みの常識事項です。ところが、友人の話によれば英作文ということで受験生達はまるで平常心を失ったかのように書くべきことを書いてなかったそうです。もっと詳しく言うと、上記の問題文中のAが上に有界でない場合とBが空集合の場合を完全に失念した受験生が多かったそうです。ともかく、初学者のために解答例を書いておきます。 (解答例) If A isn't bounded upwards, whatever B, it follows that sup A ≧ sup B because sup A = +∞. If B is empty, whatever A, it follows that sup A ≧ sup B because sup B = -∞. Hereafter, suppose that A is bounded upwards and B is not empty. If sup A < sup B, because of the definition of the least upper bounds, at least one element b exists in B...

まだラシャが主要コンフレンスを主催するかも知れぬことに数学者達は怒る

 集合・位相の講座を担当したことのある友人の話によれば、最近の学生達は変な所に拘りがあるらしいです。もっと辛辣な言い方をすれば、馬鹿みたいにどうでもいい所に拘り、先にはもっと重要なことや学習すべきことが多くあるのにもかかわらず、停滞して成績も芳しくない学生が多いということです。以下、位相の話を少しばかりしますが、位相の公理が開集合系から始まる理由については、前に紹介した" エミー・ネータ告別式におけるヘルマン・ヴァイルの弔辞 "の前置きで触れましたので、ここでは繰返しません。 さて、友人は講義の一番最初に大体以下のような誰もがお馴染みの定義から始めました。 集合を要素とする集合族ℱが以下の条件を満足するならばℱを位相、ℱの要素を開集合と呼ぶ。 (1) ℱの任意の部分族に属する要素の合併はℱの要素である。 (2) ℱに属する2つの要素の共通部分はℱの要素である。 (3) ℱに属するすべての空でない要素の合併 X はℱの要素であり、 X は位相空間と呼ばれる。空集合∅もℱの要素である。 この友人が言うには、或る学生はこの(3)を定義に置いたことに甚だ御不満のようで、やたらとブルバキ、ブルバキと錦の御旗のごとく連呼してブルバキでは(3)を含めていないと言ったらしいです。友人はその学生に(3)を含めたら誰が困るのか、むしろ(3)が無いとグレィゾゥンのように変な解釈をするかも知れない学生達にはよっぽど(3)は教育的かつ明確でいいではないか、君は最小系選手権にでも出場するのかいと思いっきり嫌味を言ったようです。 確かに(3)は(1)から自明的に導き出されますが、(3)が無ければ、どこかで命題又は系として∅と X は開集合であることを別途説明しなければならないし、ブルバキのように紙面の制約も無くだらだら長々と書ける結構な御身分ならともかくも、一般的には制約があり、ほんの少しでも紙面を節約するのが普通です。いくら自明的に導き出されるとは言えども「∅と X は開集合である」という趣旨の文章よりも確実に長くなりますし、こんな下らないことに証明または説明のために紙面を浪費するよりも、簡潔に定義に含めておけば教育的にもいいと私も友人の考えに賛同します。因みに(1)から(3)を導出してみます。∅はℱの部分族でもあるから(1)より零個の要素の合併はもちろん∅だから∅はℱの要...

数学者が80年間未解決の代数予想を偽だと証明する

前に紹介した' "ツォルンの補題"の起源 'の前置きで群の第一同型定理を少しばかり解説しました。ところが友人共の話を統合すると、どうやら第二同型定理の方も講義時点で学生達は余り分かってないようです。群の第二同型定理(こっちの方を第一同型定理と呼ぶ人もいます。私の感触ではどちらを先に載せるかで第一、第二と呼んでいるように思います。またこっちの方が定理の意味することの重要性は高いです)というのは、Nを群Gの正規部分群、fをGからG/Nへの全射準同型、G/Nを\bar{G}と置いて、\bar{H}を\bar{G}の正規部分群とする時、H=f -1 (\bar{H})はNを含むGの正規部分群であり、G/H≅\bar{G}/\bar{H}が成立するというものです。この定理の重要性は、\bar{G}の任意の正規部分群\bar{H}に対してGの正規部分群H(但しNを含む)が一対一に対応することを意味しているところにあります。これは環を加群と見なした場合、正規部分群に相当するイデアルについても成立しますし、可換環論では重要な役割をします。ですから第二同型定理の重要性を考慮して少しばかり解説します。 証明は馬鹿みたいに簡単です。\bar{G}から\bar{G}/\bar{H}への全射準同型をgとすれば、合成写像(g◦f): G → \bar{G}/\bar{H}は全射準同型、その核は(g◦f) -1 (\bar{H})={x∊G; g(f(x))=\bar{H}}={x∊G; f(x)\bar{H}=\bar{H}}={x∊G; f(x)∊\bar{H}}=f -1 (\bar{H})=H。つまりHは(g◦f)の核なのでGの正規部分群。HがNを含むことは、Nの任意勝手な要素xに対して(g◦f)(x)=g(f(x))=g(xN)=g(N)=\bar{H}だから、x∊(g◦f) -1 (\bar{H})=f -1 (\bar{H})=Hにより明らか。これらに群の準同型定理を適用するとG/H≅\bar{G}/\bar{H}が成立する。\bar{H}の正体もすぐ分かるでしょう? \bar{H}はG/Nの正規部分群なのだからNを法とする剰余群でなければならず、しかもH=f -1 (\bar{H})を満たすのだからH/N以外にあり得ません。従って、第二同型定理...