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数学者達が数学事項を互いの名前に因んで命名することを止めるべき理由

大学院前期課程もしくは修士課程の数学系の入試は大学によって多少は異なりますが、少なくとも数学と英語の試験があります。少し前に私の友人共の一人が英語の試験の担当になったことがありました。数学系の入試なので、英語と言っても難読な長文読解はありませんが、英作文は少なくとも一題は出題されます。その友人が出題した英作文の問題が以下です(問題文の英文は私が友人から内容のみ聞いて書いたものですので文責は私にあります)。

(問題) If A and B are the subsets of real numbers such that A ⊃ B, respectively, then it follows that sup A ≧ sup B. Here, we mean the least upper bound of A  by sup A and the least upper bound of B by sup B. Write its proof in English.

断っておきますが、あくまで英作文の出題であって、数学の出題ではありません。証明すべき命題も“日本の首都は東京である”並みの常識事項です。ところが、友人の話によれば英作文ということで受験生達はまるで平常心を失ったかのように書くべきことを書いてなかったそうです。もっと詳しく言うと、上記の問題文中のAが上に有界でない場合とBが空集合の場合を完全に失念した受験生が多かったそうです。ともかく、初学者のために解答例を書いておきます。

(解答例) If A isn't bounded upwards, whatever B, it follows that sup A ≧ sup B because sup A = +∞. If B is empty, whatever A, it follows that sup A ≧ sup B because sup B = -∞.

Hereafter, suppose that A is bounded upwards and B is not empty. If sup A < sup B, because of the definition of the least upper bounds, at least one element b exists in B such that sup A < b ≦ sup B. Since b is also an element of A, it's necessary that b ≦ sup A. It's a contradiction, thereby proving that sup A ≧ sup B. (完)

友人の話では平常心云々とありましたが、そんなのは日頃から英語を聞く話すは勿論のこと、英文の読み書きすらもやってないからです。今後、学部生には定期考査等の試験を英語で出題し、答案を英語で書かせてはどうかと友人に言いました。もっと本音を言うと、講義もtextもすべて英語でやれと言いたいです。日本語の数学textなんぞは全く無意味です。皆さんが将来もし欧文学術論文やtextを書く時、参考文献欄に日本語のものを列挙出来ますか? 列挙出来ないもので懸命に勉強しても長い目で見れば全く骨折り損以外の何ものでもありません。

また修士論文提出も理系文系問わず、すべての学科において(日本文学等ほぼ日本でしか研究されてない特殊な分野を除いて)外国語で書いて提出させるべきと考えます。ほぼ日本でしか読まれない言語でものをいくら書いても、世界的規模で見れば資源の無駄使いにしかなりませんし、そもそも修士という、これから学問をやって行こうとする出発時点から志しが低いようでは話になりません。

独逸の知人によれば、独逸では高校の段階で試験やreportその他の提出は英語で書くことが義務付けられているそうです。またBaltic三国の場合、自国語の本が殆ど無いため(何故なら人口が少ないために出版業が成立しないからです)、幼少の頃から英仏独露語の本を読むしかなく、自然と馴染んでいくそうです。欧州の他の小国も似たようなもんです。そういうことを聞くと日本国は実に甘い、と同時に御目出度い国だと言わざるを得ません。

さて、今回紹介する記事はWhy Mathematicians Should Stop Naming Things After Each Otherです。原著者の言わんとすることに私は賛成します。例えば、アーベル群やガロア体のように、全く数学的実体を表現しない名称を即刻止めるべきだという主張です。言っておきますが、アーベルやガロアのような先達の大偉人を辱めるつもりは全くありません。しかし、アーベル群やガロア体の代わりに、可換群(又は加群)や有限体の方がよっぽど実体を表現しています。アーベルやガロアもその方が喜ぶでしょう。ともかくも、その記事の私訳を以下に載せておきます。

[追記: 2022年06月18日]

実は英作文の出題は上記の他にも以下のような問題も出したそうです。

(問題) \sqrt{2} is irrational. Write its proof in English.

\sqrt{2}が無理数であることは中学校で証明も習っているはずなので、英語ですらすらと書けなければ、英語能力が全く駄目ということで試験官達の心証は頗る悪くなることでしょう。

(解答例) Suppose that \sqrt{2} were rational; that is, \sqrt{2} = q/p, where p and q are positive integers respectively and mutually prime. Squaring both sides and multiplying them by p2, 2p2 = q2. q2 is even, so q is even. Let q be 2k, where k is a positive integer. Substituting it for 2p2 = q2, 2p2 = 4k2. Dividing both sides by 2, p2 = 2k2. It implies that p is also even. It contradicts the assumption that p and q are mutually prime. Therefore, \sqrt{2} is irrational. (完)

数学者達が数学事項を互いの名前に因んで命名することを止めるべき理由

前世代の栄光が次世代の悩みの種になる可能性がある。

2020年09月02日 LAURA BALL

現代数学の学生なら誰もが凝縮する専門用語の井戸に溺れることがどんな感じか知っているはずだ。華々しい例として、弦理論によって有名になったCalabi-Yau多様体を取ろう。

Calabi-Yau多様体は自明的第一種Chern類を持つcompact複素Kähler多様体である。

定義が何を意味するかを推測出来るであろう前に、Kähler多様体を定義するもう一つのソースを見つける必要があるだろう:

Kähler多様体はHermitian形式が閉じているHermitian多様体である。

その後、Hermitian多様体を定義する3つ目のソースを見つける必要があるだろう:

Hermitian多様体はRiemannian多様体の複素相似である...

そして、途方に暮れる。すべての数学事項が発見者の名前に因んで命名される時、何ヶ月かの棒暗記が無いと議論の概要の足跡を追うことすら不可能になり得る。Ackerman島の"Ackerman"が下町ウィチタにおける砂州のことを知らせるのに役立つ以上のことを発見者の名前は風景がどんなものかについて何も伝えない。有名数学者が極端に狭い好みを持ったような(皆が知っているように、砂地の基層上でしか住めず、カァンザス州を離れなかったAckermanのような人のように)一発屋的状況を除いて、彼等の名前は何ら記憶増進を与えない。おぼろげに連想されるものが何であれ、特に発見が有名でも狭くもない時、薄れて行く性質を持っていたのかも知れず、読者は数世代取り除かれる。

“pair of pants” やHairy Ball定理のように、いくつかの素晴らしい名称は最初の明快な使用が無くても飛び跳ねて出て来る。

固有名詞の営巣は部外者とってのみならず、一つの分野からもう一つの分野への道筋を読もうと努めている現役数学者達にとっても高度数学を不可解にさせることに助力している。尊敬すべきBill Thurstonは生涯の終わりまでThurston定理を造った倒錯行為について文句を言ったことで知られた。Thurston定理は、多項式がThurston障害を持たなければThurston写像はそれらの多項式とThurston-同値であると述べている。どの分野にも技術用語があるが、それらの用語が記述的であるならより記憶しやすい。医学または法律において、以下のように、剥ぎ取るべき何層もの階層と命名慣習を同様に使うなら、どれほど学習曲線が険しいかを想像するがよい:

Thurston腫瘍はThurstonism1型の患者の骨の中における良好Thurston成長物である。

Thurston殺人行為はThurston猪突猛進の所見を必要とし、Thurston-級重罪である。

古代Greek人達はこれに関してもっと上手だった。Euclidは多くの他の人達によってなされた発見に頼っていたけれども、彼のElementsは共通する記述的名称でいっぱいである。同じ長さの二つの辺を持つ三角形のようなものに対する用語を必要とするなら、彼はそれをGreek語で“isosceles”、文字通り“equal-legged”と呼ぶ。すべて異なる長さの辺を持つ三角形は“scalene”または“unequal”である。私達皆が学校で習う、Pythagorasに因む定理をEuclidはもっと平明に述べることを好んでPythagorasの定理とすら名付けていない。古代Greeceでは、少しでも帰属が必要なら学生達は彼等の研究の帰属を彼等自身よりも先生達に付けることが礼儀とされた。だから、Platoが彼自身の考察をSocratesの功績としたことと同様に、Wolfram MathWorldにおいてPythagorasのものとしている8つ又はそれ以上のオブジェクッは彼の学生達のものである可能性が高い。

リネイスンス期の後に手が付けられぬ状態になったようだ。Pierre Fermatの名前は彼の最終定理と小定理にあるだけではなく、点、素数、擬素数、多項式、円錐曲線、螺旋、光学の原理、素因数分解法においても名前がある。19世紀末に活躍したHenri Poincaréは彼に因んで名付けられた少なくとも21の数学実体がある。Bernhard Riemannは82くらいの数を持っているかも知れないと私は思う。

1900年以降、数学論文における共著者の平均数は上昇して来ている。世界の現役数学者の数も上昇し、時または空間において離れて、独立する再発見の確率を高めている。これらの2つの傾向は、Albert-Brauer-Hasse-Noether定理やGrothendieck-Hirzebruch-Riemann-Roch定理のように、3重や更に4重のハイフンを付ける状況への扉を開いて来ている。

医学で同じ命名慣習を使用するならどれほど学習曲線が険しいかを想像せよ。

Vladimir Voevodskyが勝利し、現代数学がコンピュータ証明に依存するようになれば、名称は更に長くなるかも知れない。他分野での共有科学技術の大型共同研究を通して発表される論文は今や何千人の著者を持つが、一つの定理が千のハイフンを持てない。6人の共同発見者(Hoste, Ocneanu, Millet, Freyd, Lickorish, Yetter)に因んで命名されたHOMFLY多項式、時にはPrzytyckiとTraczykに対しても功績を認めるためにHOMFLYPT多項式とさえも呼ばれるように、名前の最初の文字を使うならばもっと多くの人を詰込めるであろう。

それか、又は数学者達が不朽の名声を得ることを見送り、代わりとして良識があり語義的に解析可能な名称を持つ新しいオブジェクッを導入出来るだろう。

現代の模範として、最近COVID-19のために亡くなったJohn Horton Conwayに先ず目を向けよう。彼の多くの素晴らしい名称は、最大突発性単純群(1030個以上の要素を持つ)に対するMonsterだけではなく、その群のモデュラ函数との全く予想外の連結に対するMonstrous Moonshineも含む。もっと最近では、トポロジにおけるJosh Greeneのchangemaker vectorsを私は楽しみにしている。changemaker vectorsの成分は、あたかも現金を持っていて正確に交換しているかのように、合計額より以下の任意の整数に収めることが出来る。David WolpertとBill Macreadyは機械学習でよく引用されるNo Free Lunch Theoremsを証明した。それは、一つの領域における最適化アルゴリズムの改良はもう一つの領域の最悪な性能の損失となるはずだと考える(Wolpertは名称の選択をDavid Hausslerの功績としているけれども)。確かに、“Wolpert-Macready-Haussler Theorems”だったであろうよりもずっと良い名称であると私達は賛成する。

勿論、功績又は責めを負うことは新しい結果を提起する個人ばかりではなく、その結果に対する集団的反応と共に存在するはずである。気の毒なRiemannは彼自身に因んでRiemann多様体と命名したのではなかった。そのような名称は新しいアィディアに反応する二次的学識のうねりの中で出現し、出現する名称は必ずしも悪くはない。3つの穴を内に持つ球体に対する用語“pair of pants”(私は1978年のBourbaki Seminarよりも更に進めて追跡出来ていない)やHairy Ball Theorem(偶数次元の球体においてベクタ場は零点を持たねばならないので、任意の毛状の玉突き球は逆毛を持たなければならない[その痕跡は1976年のMorris Hirsch著Differential Topologyで固まっている])のように、最初の明確な使用が無く散漫な合意だけれども、いくつかの素晴らしい名称は飛び跳ねて出て来る。しかし、一般的に数学者達は創造者達(創造者達がConwayのように行動し、彼等自身のオブジェクッに記述的名称を与えようと何回も一致協力しなければ)に因んで新しい数学事項を命名することが誠実だと思うらしい。

ここ10年、代数幾何学の分野は“Scholze spaces”ではなく“perfectoid spaces”(ペーター・ショルツェが講義や論文でそれらをそのように呼び続けたので)により活発化した。ConwayやWolpertのように、彼は研究の中身だけではなく題名にも記述的名称を入れた。それは役立つようだ。対照的に、Shing-Tung Yauは自伝の中でCalabi-Yau多様体は彼がその存在を証明した(Eugenio Calabiはその約20年前に予想を立てていた)8年後に他の人達によってその名前を与えられたと言う。CalabiとYauは誰よりも口を挟み、何か他を提案する資格があったであろうが、Yauが言うように彼等二人共が学術出版と大衆文化を通して彼等の名前が拡散するのを見ることに誇りと幸福を感じた。

私達が今持っているものは創造者達に命名権利を暗黙的に与えるシステムである。別の何かにするために動かなければ、初期設定で貢献者の名前を命名するシステムだ。

数学者達自身の精神的負担が増大し、彼等自身の研究が更に不明瞭になる時に、何故彼等は、この礼儀を申し出て受領することを続けるのか?

私の想像出来る最悪の答えはラァティン語から聖書を翻訳させることを拒否するためにPope Gregory VIIが言ったものである: “...それがすべての人にとって明確に理解出来るなら、期せずして少しも尊敬されなくなり、冒涜に従属することになろう。もしくは、凡庸な学習により誤って理解され、間違いに導くことになろう”。現代数学における暗記中心な命名方法は素人衆を締め出す結果を持つのかも知れないが、数学協会の祭司達が意図的にやっていないことを希望しなければならない。

もっと共感する答えは、結果を生み出すために数学者達が努力する長く孤独な時間に対する褒美として彼等自身より長生きする彼等の名前を見る栄光を欲しがっていることであろう。法律又は医学では、研究は実践的な対象であり、しばしば金額が付加される。この訴えをエゴだと見なすならば、純粋数学の研究を持続するために発見の喜びだけに私達は頼れるだろうか?

それが無くても、研究文化がより幸せになることを私は希望する。フィーオズ賞とミレニヤム賞の受賞を拒否するためにGrisha Perelmanが言った説得力のある理由の一つが100ペィヂィの証明の創造者として一人の人間を指名する不公平さだった。100ペィヂィの証明は必ず、数十年以上に渡る研究で作られた多くの人達の大発見の縫合を象徴している。

現代数学の命名方法を変えることは動機力における変化を意味するかも知れないが、その変化が何人かの人達を落胆させるなら、他の人達を歓迎するだろう。

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