スキップしてメイン コンテンツに移動

まだラシャが主要コンフレンスを主催するかも知れぬことに数学者達は怒る

 集合・位相の講座を担当したことのある友人の話によれば、最近の学生達は変な所に拘りがあるらしいです。もっと辛辣な言い方をすれば、馬鹿みたいにどうでもいい所に拘り、先にはもっと重要なことや学習すべきことが多くあるのにもかかわらず、停滞して成績も芳しくない学生が多いということです。以下、位相の話を少しばかりしますが、位相の公理が開集合系から始まる理由については、前に紹介した"エミー・ネータ告別式におけるヘルマン・ヴァイルの弔辞"の前置きで触れましたので、ここでは繰返しません。

さて、友人は講義の一番最初に大体以下のような誰もがお馴染みの定義から始めました。

集合を要素とする集合族ℱが以下の条件を満足するならばℱを位相、ℱの要素を開集合と呼ぶ。

(1) ℱの任意の部分族に属する要素の合併はℱの要素である。

(2) ℱに属する2つの要素の共通部分はℱの要素である。

(3) ℱに属するすべての空でない要素の合併Xはℱの要素であり、Xは位相空間と呼ばれる。空集合∅もℱの要素である。

この友人が言うには、或る学生はこの(3)を定義に置いたことに甚だ御不満のようで、やたらとブルバキ、ブルバキと錦の御旗のごとく連呼してブルバキでは(3)を含めていないと言ったらしいです。友人はその学生に(3)を含めたら誰が困るのか、むしろ(3)が無いとグレィゾゥンのように変な解釈をするかも知れない学生達にはよっぽど(3)は教育的かつ明確でいいではないか、君は最小系選手権にでも出場するのかいと思いっきり嫌味を言ったようです。

確かに(3)は(1)から自明的に導き出されますが、(3)が無ければ、どこかで命題又は系として∅とXは開集合であることを別途説明しなければならないし、ブルバキのように紙面の制約も無くだらだら長々と書ける結構な御身分ならともかくも、一般的には制約があり、ほんの少しでも紙面を節約するのが普通です。いくら自明的に導き出されるとは言えども「∅とXは開集合である」という趣旨の文章よりも確実に長くなりますし、こんな下らないことに証明または説明のために紙面を浪費するよりも、簡潔に定義に含めておけば教育的にもいいと私も友人の考えに賛同します。因みに(1)から(3)を導出してみます。∅はℱの部分族でもあるから(1)より零個の要素の合併はもちろん∅だから∅はℱの要素である。そして、ℱはℱの部分族でもあるから(1)よりℱに属するすべての空でない要素の合併Xはℱの要素となります。ご覧のように「∅とXは開集合である」という趣旨の文章よりも確実に長くなっているはずです。今の場合、(1)から(3)の導出はたまたま自明的ですが、冗長性を排除して最小系を維持したいばかりに、簡単な命題さえもいろいろ複雑で奇想天外なテクニークを駆使してやっとの思いで導出するような数学分野が他にあるかも知れません。そんな苦労をするよりも誰もが自然と感じる命題なら、冗長でも定義として入れる方が健全だと私は思います。要は定義系は互いに矛盾が無い事の方が重要であり、冗長性の排除は二の次です。

しかし、私が気になったのは最小系云々よりも、ブルバキを連呼する学生の精神構造です。友人の講義にまでブルバキを錦の御旗のごとく持ち出すのは21世紀になってもブルバキを絶対視する若者がいるのでしょう。ブルバキと言えば教官が引っ込むとでも思ったのでしょうか。虎の威を借りてまで自分の意見を強固にすることを若者がやるとは嘆かわしく思います。その学生がおそらく知らないこととして、ブルバキの"Topologie Générale"もAlexandroffとHopfの有名な著書Topologieの単なる焼き直しに過ぎない(少しはブルバキ独自のもの、例えばfiltre等がありますが。因みに言うと、アンドレ・ヴェイユ博士はTopologieの愛読者ですし、小平邦彦博士はTopologieを読めば一本の論文を書けるだろうと言ったくらいの名著です)と私は考えますし、もっと言えばブルバキが成功しているのは代数方面だけであり、解析学、幾何学方面は大惨敗したと言っても過言じゃないと思います。それからブルバキは構造主義を打ち立てたとかいうたわごとを言う人がいますが、数学は大昔のGreekの時代から構造またはパァタンを研究する学問です。特に日本人は洗脳されやすいのか、又はそれくらいの民度しか無いのか分かりませんが、文系の人達を中心に構造主義という言葉を恥ずかしげも無く声高に叫ぶことが多いようです。私の言う事が信じられないなら、先程挙げたAlexandroffとHopfのTopologieを独語原書で少しでも読んでから"Topologie Générale"を見返したらいいでしょう(一体何人の日本人が実際にそうするかは甚だ心許ないですが)。そうすれば、少しは目が覚めると思いたいです。何故こんなことになったのかは、1960年代から70年代にかけての○○一刀斎一派によるブルバキ押売りも一つの要因だと私は思いますが、なんだかんだ言っても洗脳される方が悪いのです。つまり、自己の考えをしっかり持っていないことに原因があります。

さて、皆さんも御存知のように、ラシャのユクレイン侵攻が2022年02月24日に発生し、International Mathematical Union[訳注: 国際数学連合。以降、IMUと略記します]は02月26日に07月に開催予定だったラシャのSaint PetersburgでのICM 2022[訳注: 国際数学者会議]を取止め、virtual online meetingにする声明を発表しました。但し、議事進行等はRussian数学協会が計画したものに従います。私は決定が余りにも遅過ぎるだろうと思いました。更に言えば、virtual online meetingとは言えども、ラシャ国内からのRussian数学者の参加を禁じ、早めに国外脱出した優秀なRussian数学者に限定すべきと考えます。勿論、私も学問に政治を持ち込みたくはありませんが、これは単なる政治的問題ではなく、人類存続の問題であり学問以前の問題だからです。こういう選別をしたくないから、ICM 2022を完全に中止して欲しかったというのが私の本心です。今回のフィーオズ賞等についてはIMUが特別に欧米のどこか安全な場所で授賞式をすればいいでしょう。

実は、英国、米国等の知人達はもっと早期にユクレイン侵攻が現実のものになるかも知れないと危惧してました。彼等が自分達の国防省の知り合いから情報を入手したのかと訊くと、そうではなく交流のあるRussian数学者達、特に若手数学者達の懸念から知ったそうです。と言うのは、Russian数学協会の上層部はICM 2022準備の指示を出すだけの木偶の坊に過ぎませんが、会場、宿泊施設、交通等の手配、各大学との連携、スポンサとの交渉等すべて若手がやっており、その交渉の中で首をかしげざるを得ないようなことが多々あったようで、時期も丁度ベラルースでのRussian軍隊の長期軍事演習が始まった頃ですから2021年12月頃でした。若手数学者達は頭脳明晰ですから一般の馬鹿Russian国民とは違い、何かを察したことは言うまでもないでしょう。そして、彼等から短期でもなんでもいいから国外へ出るための助けを依頼されることが頻繁にあったからのようです。今から思えば、Russian数学者達は密かにSOSを出していたのです(どこに検閲、盗聴、盗見があるかも知れないので電子mailであっても大ぴらには理由を書けなかったでしょうが)。こうして国外脱出出来たRussian数学者達は当然優秀なんですが、彼等も今回のICM 2022は中止すべきと言っているようです。彼等の懸念は欧米各国の数学協会も次第に知ることになるので、IMUにも当然報告が入っているはずです。だから私は遅過ぎだと言ったのです。と言うか、そもそも前回のIMU一般総会の出席者達は何を考えてラシャに賛成したのか、モスコゥの時の騒動を忘れたのか(勿論、私もいろいろな人の見聞記や大先輩方の私的回想を通じて知っているのに過ぎませんが)と言いたくなります。後出しで批判しているのではありません。ラシャが候補を名乗り出た時点で嫌な予感がしました。

今回紹介する記事は、ユクレイン侵攻によって数学者達がどう反応したかを知って貰いたいので、New Scientist誌に早くも2022年02月25日に載ったMathematicians are angry that Russia may still host a major conferenceです。その私訳を以下に載せておきます。


まだラシャが主要コンフレンスを主催するかも知れぬことに数学者達は怒る

2022年02月25日(改稿2022年02月28日) Alex Wilkins

02月28日訂正: 国際数学連合は国際数学者会議ラシャでの開催をもう行わず、替わりにvirtual online meetingとして開催する(PDF)と言っている。

ラシャのユクレイン侵攻の結果、数学者達は世界最大の数学コンフレンスを中止すべきだと要求している。

国際数学者会議(ICM)は、よく数学の"ノゥベォ賞"と言われる、その分野最高の栄誉フィーオズ賞を実施する。4年ごとに開催し、現行ではラシャのSt Petersburgで07月に行われる予定だ。

ユクレイン全面侵攻の前、02月20日付で書かれた共同レタの中で、100を超える招待講演者達と世界中の数学協会は行事総括者、すなわち国際数学連合(IMU)に中止もしくは延期すべきと要求している。

"ICMは多くの数学者達の出席を阻む潜在的戦争の状況で開催されてはならず、数学コミュニティを団結させるよりも分断するかも知れない"とレタは言う。

IMUは02月24日に声明(PDF)を発表し、"状況を見きわめている"が決定には至っていないと言った。その回答は数学コミュニティの中に怒りを引起している。

今回のラシャの侵攻のずっと前に、クリミヤ半島におけるラシャの軍事行動のためボイコッを組織立てたユクレイニヤン数学者達のグループはIMUの沈黙は何の助けにもならないと言う。

そのグループによれば、軍事拡大の前にもっと早くにICMを中止すればラシャに或る伝言を送れたであろう。"ICMは政治に何の影響も与えられないが、この惨状を抑制するために我々は少しでも努力し続けている。もしRussian政権がこれらの伝言をもっと早くに受取っていたなら、今日この侵攻は起きてないかも知れない"とグループに属するOhio State UniversityのAndrey Gogolyevは言う。

そのグループは今週までの国際的コミュニティからの反応不足は失望だと言った。"共同レタの中で非常に有名な数学者達の名前を見るだろうが、彼等の支援の不足は以前には問題だった。現在、誰もがそのことを語れるし、誰もがボイコッを支持したがる。しかし、大きな落差があり、私達はこれが非常に悲しい"とゥオーソーにあるPolish Academy of SciencesのMasha Vlasenkoは言う。

多くの数学者達にとって、IMUがコンフレンスは進行しないと宣言する前の時間の問題に過ぎないように見える。米国、英国、仏蘭西、スゥィーヅン、デンマーク、リシュエィニヤの数学協会すべてがコンフレンスは延期すべきと要求している。

"国際交流は数学研究の発展と健全に本質的である。ICMはこれらの関係を支援し祝う唯一の機会を与えるが、現在の状況の下ではない。AMSはSt. Petersburgでの会合に代表団を派遣する積りは無い。我々はIMUに2022年のラシャにおけるICMを開催しないように強く促している"とAmerican Mathematical Society (AMS)総裁のRuth Charneyは02月22日付の声明で言った。

ICM及びIMUはコメンツ要求に応じなかった。

コメント

このブログの人気の投稿

ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する

今回紹介するのは abc 予想の証明に関する最近の動向を伝えている記事です。 これを選んだ理由は素人衆が知ったかぶりに勝手なことを書いているのをネット上で散見するからです。ここで言う素人衆は日本のメディアはもちろんのこと、馬鹿サイエンスライターも当然含みます。昨年末(2017年12月16日)に某新聞が誤報に近いことを報道したことも記憶に新しいでしょう。そんな情報に振り回されないために今回の記事です。 今回の記事は正確かつ公平だと私は思いました。私の友人共の何人かは、この方面の専門家だから門外漢の私はいろいろなことを教えてもらいました。その上での感想です。 その方面の専門家でなくても数学の研究者なら望月論文は無理でもレポートは読めるはずなので、もっと詳しく知りたい人はレポートを読んで下さい。 前置きはこれくらいにして、紹介する記事は" Titans of Mathematics Clash Over Epic Proof of ABC Conjecture "です。その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] ここに至るまでの経緯については" 数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明 "を読んで下さい。その記事は2015年12月にオックスフォードで行われた望月論文に関する初めての国際的ワークショップより前の話が書かれています。 このワークショップはいろいろ評価が分かれるけれども、私が聞く限り、大失敗だと言う人が多いです。実際、私の海外の知人の一人がワークショップに参加しており、ボロクソに言ってました。 このワークショップを境に、海外特に米国では望月論文を理解しようとする熱意が急速に薄れたように感じますし、ショルツ、スティックス両博士の異議申し立てが出るまで実質何の音沙汰もない状態でした。 [追記: 2018年10月23日] 私の友人共に指摘されたのですが、この記事の私訳を読む人の殆どが日本の全くのド素人なんだから、たとえ原文に記載されていなくても誤解を生じさせないように訳者が万全を期するべきだと言われました。 記事に出て来る Publications of the Research Institute for Mathematical Sciences (略してPRIMS)

数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明

前回紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "はもちろん一般大衆向けの記事です。数論、数論幾何学、IUTT(宇宙際タイヒミュラー理論)のいずれかの専門家なら、そんな記事を読まなくても、そこまでに至る経緯は十分に承知しています(何故なら自分達の飯の種を左右する問題だから)。その方面の専門家でなくても数学研究者なら数学コミュニティ又は数学界を通して大概の経緯を聞き及んでいます。 私の身辺(私の友人共はすべて何らかの形で数学研究に携わっているので、それらを除きます)でその記事を読んだ感想は"そんなに拗れるのは不思議だ。もっと経緯を知りたい"というのが多かったです。その身辺の彼/彼女等はもちろん素人衆ですので、望月新一博士の名前も報道でしか聞いたことがないし、数学で何故これほどまでもつれるのか不思議でならないそうです。彼/彼女等は至って真面目です(何故こういう事を書くかと言うと、素人衆と言っても千差万別で、中にはネット上で国家高揚か日本民族高揚のために望月博士のことを書いているとしか思えない不逞の輩がいるからです)。そこで、それらの真面目な人達のために今回紹介するのは2015年10月の Nature 誌に載っていた" The biggest mystery in mathematics: Shinichi Mochizuki and the impenetrable proof "です。 何故これを選んだかと言うとエンターテイメント性があり、素人衆でも面白く読めるだろうと思ったからです。但し断っておきますが、いろいろな数学者の証言を繋ぎ合わせて望月博士の心情を勝手に推測するのははっきり言って妄想であり、さすがエンターテイメント性を重視して堕落した Nature 誌だけのことはあると私は思いました(あのSTAP論文を掲載したことも記憶に新しいでしょう)。 その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] この記事は2015年12月に行われたオックスフォードでのワークショップより前の話です。このワークショップは望月論文に関する初めての国際的な会合で、この記事でもこのワークショップにかなりの期待を寄せているところで終わっています。 しかし、いろいろ評価が分かれ

谷山豊と彼の生涯 個人的回想

数学に少しでも関心のある人なら、フェルマーの最終予想が、これを含む一般的な志村予想を証明することによって解決されたことは御存知でしょう。この志村予想は、かって無知と誤解によって谷山-志村予想と呼ばれていました。外国では更に輪をかけて(と言うよりもアンドレ・ヴェイユの威光によって)谷山-志村-ヴェイユ予想と呼ばれていました。ヴェイユがこの予想に何ら関係しないことは、故サージ・ラング博士によって実証されました。それでも、谷山-志村予想もしくは谷山予想と呼ぶ人がまだ散見されます(散見と言いましたが、日本人ではかなり多いです。国民性に依存するのかどうか知りませんが)。私は数論を専攻したことがなく、ずぶの素人ですが、志村博士が書かれた記事や自伝"The Map of My Life"を読み、何故志村予想なのか納得しました。ここで込入った話を書くことは不可能なので、分り易く言えば、故谷山氏は何ら予想の内容にタッチしていないと言ってもいいかと思います。勿論、その周辺は谷山氏の研究分野でしたから周辺にはタッチしていたでしょうが、志村博士は全く独立にきちんと予想を定式化しました。ですが、谷山氏と志村博士はいわゆる盟友関係であり、また谷山氏の不幸な亡くなり方を悼む日本人的感情(つまり、センチメンタル)から日本人は谷山-志村予想と頑なに呼んでいるのだと私は理解しています。ですが、これは数学なのであり、事実を直視しなければいけないと思います。また、最終的に志村予想は証明されたのですから、何とかの定理と呼ぶべき時期だと思います。この"何とか"に何を冠するかはいろいろ意見があるようですのでこれ以上は触れないでおきます。 さて、志村博士の"The Map of My Life"の第4章、18節に"18. Why I Wrote That Article"があります。ページ数で言えば145ページ目です。タイトルが示している"あの記事"とは、志村博士が英国の専門誌 Bulletin of the London Mathematical Society に発表した" Yutaka Taniyama and his time, very personal recollections "

識別の危機

昨年紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "の元記事はもちろん大衆向けのオンライン科学ジャーナル Quanta Magazine に掲載されたものですが、著者はErica Klarreich女史です。彼女はサイエンスライタではあるけれども、歴とした数学者です。しかも、幾何的トポロジで彼女の名前を冠した定理を持つくらいの立派な方です。何故こういうことを書くかと言うと、IUTを支持するイヴァン・フェセンコ博士がKlarreich女史をいかにも素人呼ばわりした非常に下らないドキュメントを書いたからです。大学にポストを持っていなければ全員が素人なんですかと問いたいくらいです。これでは世界からIUT自体が白眼視されるのも無理からぬことだと思いました(本当のところは全く違う理由からなんですが、話せば切りが無いので止めておきます)。 さて、今回紹介するのはディヴィド・マイケル・ロバース博士が書いた記事" A Crisis of Identification "です。ロバース博士と言えばショルツ、スティクス両博士のリポートが公開された直後からキャテグリ論の専門家として非常に冷静な分析をされていたことに私は感心してましたから直ぐに記事を読みました。一つの不満を除いて非常によく書けていると思います。" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "も勿論読み応えのある立派な記事でしたが、どちらかと言うとドキュメンタリ風の記事でしたし、読者層が一般大衆であることを考慮してあまり数学を前面に出していませんでした。ロバース博士の記事はもう完全に数学を前面に出しています。 前述した一つの不満はグロタンディーク氏のことにスペィスを割いて結構触れていることです。今のABC予想の置かれている状況とはあまり関係がないと私は思いました。やはり大衆受けを狙ったのかと感じました。まぁ、日本でも素人には何故かグロタンディーク氏は大人気ですから(捏造されたエピソゥド、つまりグロタンディーク素数がどうたらこうたらに踊らされて?)、それはそれで良いのかも知れませんが。 前置きはこれくらいにして、この記事の私訳を以下に載せておきます。なお著者の注釈欄を省いていますが、注釈へのインデクスはそのままです。 [追

数学教育について

聞くところによれば、関数型プログラミング言語の流行とともに数学の圏論がブームだそうで。圏の概念が他の数学の分野を全く知らない人でも意味が分かるのか疑問を持っています。その理由は後で述べます。 私の手許に故Serge Lang博士の名著"Algebra"があります。この本は理由があって、何と大昔の1974年の初版第6刷です。非常に貧しい学生だった私に恩師が2冊持っているからと言って1冊を下さり、私の生涯の宝物です。 仮に数学を代数学、幾何学、解析学という全く意味が無い区分けをしたとします。意味が無いと言うのは、例えば多様体論なんかはどの分野にも入るからです。そうであっても無理に区分けしたとしましょう。この3分野のうちでも、代数学(厳密に言えば抽象代数学です)が、勉強するだけなら(あくまで勉強するだけですよ、研究となれば別の話です)数学的予備知識も数学的センス(故小平邦彦博士の言うところの"数覚"、位相群で有名だった故George W. Mackey博士の言うところの"数学的成熟度"、まぁ簡単に言えば数学的才能ですね)も全く必要としません。必要なのは論理を追うための忍耐力と言えます。ですから、理解出来るか否かは別にして、代数構造を"言葉"として吸収することは誰にでも出来ます。数学のどの分野を専攻してもLang博士の"Algebra"程度の知識は"言葉"として知っていなければ話にならないのです。数学での代数学は、私達が日本語や英語等でコミュニケーションするのと同じく、数学の言語なのです。 Lang博士の"Algebra"には、第1章群論の第7節に早くも"圏と関手"が登場します(ページで言えば25ページ目です)。ついでながら、この圏、関手という日本語は全く元の英語が想像出来ないので、以降カテゴリ、ファンクタと書きます。 ところで、Lang博士はブルバキにも入っていた人ですから、こういう抽象度が高い概念を重要視しているかと思いきや、決してそうではないのですね。元々カテゴリ、ファンクタ(ファンクタの方が重要な概念でして、カテゴリはファンクタが扱う対象物です)は、ホモロジー代数の一部として提案された概念です。ホモ