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数学者が80年間未解決の代数予想を偽だと証明する

前に紹介した' "ツォルンの補題"の起源 'の前置きで群の第一同型定理を少しばかり解説しました。ところが友人共の話を統合すると、どうやら第二同型定理の方も講義時点で学生達は余り分かってないようです。群の第二同型定理(こっちの方を第一同型定理と呼ぶ人もいます。私の感触ではどちらを先に載せるかで第一、第二と呼んでいるように思います。またこっちの方が定理の意味することの重要性は高いです)というのは、Nを群Gの正規部分群、fをGからG/Nへの全射準同型、G/Nを\bar{G}と置いて、\bar{H}を\bar{G}の正規部分群とする時、H=f -1 (\bar{H})はNを含むGの正規部分群であり、G/H≅\bar{G}/\bar{H}が成立するというものです。この定理の重要性は、\bar{G}の任意の正規部分群\bar{H}に対してGの正規部分群H(但しNを含む)が一対一に対応することを意味しているところにあります。これは環を加群と見なした場合、正規部分群に相当するイデアルについても成立しますし、可換環論では重要な役割をします。ですから第二同型定理の重要性を考慮して少しばかり解説します。 証明は馬鹿みたいに簡単です。\bar{G}から\bar{G}/\bar{H}への全射準同型をgとすれば、合成写像(g◦f): G → \bar{G}/\bar{H}は全射準同型、その核は(g◦f) -1 (\bar{H})={x∊G; g(f(x))=\bar{H}}={x∊G; f(x)\bar{H}=\bar{H}}={x∊G; f(x)∊\bar{H}}=f -1 (\bar{H})=H。つまりHは(g◦f)の核なのでGの正規部分群。HがNを含むことは、Nの任意勝手な要素xに対して(g◦f)(x)=g(f(x))=g(xN)=g(N)=\bar{H}だから、x∊(g◦f) -1 (\bar{H})=f -1 (\bar{H})=Hにより明らか。これらに群の準同型定理を適用するとG/H≅\bar{G}/\bar{H}が成立する。\bar{H}の正体もすぐ分かるでしょう? \bar{H}はG/Nの正規部分群なのだからNを法とする剰余群でなければならず、しかもH=f -1 (\bar{H})を満たすのだからH/N以外にあり得ません。従って、第二同型定理

何故、英国人は'sorry'を多く言うのか?

私が前々から不思議に思っていることの一つに、何故函数論の講義で多変数もやらないのかということです。函数論の講義を受講する学生は数学専攻に限らず、他の理工系学科の学生もおそらく必須科目ですから多くの人が受講し、その素養もばらつきがあることゆえ多変数まで踏み込みにくいという事情は理解出来ますが、例えば物理学では弦理論の専門家は当たり前のように多複素変数を使用しています。もうそういう時代なんです。微積分の講義は2年目から多変数に入るようですが、一変数ごときに一年もかけずにさっさと半年くらいで終わらせて多変数に移って欲しいと思います。2年目からルベーグ積分をやればいいんです(私から言わせるとリーマン積分なんかを削れば、もっと早い時期にルベーグ積分を出来ると思いますが)。微積分ごときで多変数を教えるのに函数論では一変数に制限するのはおかしくありませんか。私から言わせると一変数の微積分と線型代数の講義期間が非常に長過ぎるように思います。線型代数なんか半年で終わるでしょう。 一変数函数論と多変数函数論は様相が全く違い、一変数では決して起きない現象が多変数では起きます(例えばハルトークスの正則拡大定理)。多変数を勉強して始めて一変数のいろいろなことが分かることも多いかと思います。いずれにせよ改善を望みます。 さて話はがらりと変わります。今回紹介する記事は全く数学とは関係ありません。何故そういう記事を紹介する気になったかと言うと、いろいろなミーディヤ媒体等で登場する帰国子女とかどうたらこうたらとか呼ばれる類の人々のいい加減さに呆れたからです。先ずおかしいのは、彼等は米国のことしか話してないか、もしくはそれ以外の国を知らずして世界ではこうだとしたり顔で話していて、 平均的知性 を持ち合わせていない殆どの日本人を洗脳しているからです。例えば街角インタヴューと称して来日している外国の方々に Why did you come to Japan? と訊くのは間違いで What brought you to Japan? と訊く方が正しいとかどうたらこうたら。私から言わせると Why did you come to Japan? は最低だが What brought you to Japan? も多少は柔らかく丁寧だけれども似たり寄ったりです。問題はそんなことではないのです。もし、私が突然そんな

Elias M. Stein (1931–2018)

Elias Menachem Stein博士が2018年12月23日に逝去されたことは解析畑の人なら誰でも御存知でしょう。日本でもStein博士の著書にお世話になった人は随分多いと聞いています。私も御多分に洩れず、Stein博士の著書 The Princeton Lectures in Analysis (Rami Shakarchi博士との共著)のうち、フーリエ解析の巻に本当にお世話になりました。私がこのフーリエ解析本を読むきっかけは\bar{∂}-方程式に関連してました。つまり、もう少し偏微分方程式論に正面から向き合う必要があったからです。偏微分方程式論の専門家ならフーリエ解析など朝飯前に使いこなすのでしょうが、私はそこまでの熟練度に達してなかったので、数理物理学の友人に相談すると The Princeton Lectures in Analysis のフーリエ解析の巻を読めと言われたからでした。 さて、今回紹介する記事は Notices of the AMS の2021年04月号に掲載された追悼記事 Elias M. Stein (1931–2018) (PDF)から私の独断と偏見で抜粋しました。何故かと言うと19人の数学者と2人の御遺族からの寄稿があり、全部を紹介するには余りにも多いからです。先ず、Lillian B. Pierce博士執筆のStein博士の経歴は前文に相当しますから外せません。次に、Stein博士との思い出を語っている部分からSteven G. Krantz博士、Terence Tao博士、Charles Fefferman博士のものを選びました。理由は私がKrantz博士の著書 Function Theory of Several Complex Variables に大変お世話になったことと、かなり昔にKrantz博士の記事" 証明の不滅 "を紹介したことがあったからです。それから、Terence Tao博士、Charles Fefferman博士のお二人は超天才または超早熟で有名で、皆さんも御存知の通り二人ともフィールズ賞受賞者ですので外せません。Tao博士の早熟ぶりは皆さんも知っていると思いますので端折りますが、Fefferman博士の博士の早熟ぶりを少しばかり書きます。 Fefferman博士は14歳でメアリラ

Haruzo Hidaによる志村五郎の思い出

前に紹介した" ツォルンの補題の使い方 "の前置きに登場した友人は学生達に環のイデアルを始めて教えた直後の次の講義の頭で必ず何らかの小テストを行いますが、そのような時に出す問題の一つが以下です。 (問題) a、bを0でない整数とする。gがa、bの最大公約数である必要十分条件は、a、b、gが生成する単項イデアルを各々(a)、(b)、(g)とする時、(a)+(b)=(g)であることを示せ。 友人はこの小テストをイデアルの初歩を理解しているかどうかのリトマス試験紙かのように思っているようです。しかし、私から言わせると、解答出来ない受講者がいるとは信じられないくらいの初歩的基本問題です。高校の数学教科書で言うならば、本文の合間に入っているような理解しているかどうかの問いみたいなもので、章末にあるような練習問題や演習問題ではありません。代数構造、または代数系の講座を履修する学生は数学専攻とは限りませんが、少なくとも理工系学部でしょう。解答出来なかった受講者には是非とも文系学部等へ転部することをお勧めしたいくらい初歩的です。何故なら、イデアルの初歩以前に最大公約数、約数、倍数等の算数の意味さえも理解してないように思うからです。それに、次くらいから本格的に可換体論等の話が始まるであろうから、これくらいの初歩問題を解答出来ないようでは完全に落伍して惨めな思いをするだけでしょう。ともかくも初学者のために解答例を分かりやすく書いておきます。 (解答例) gがa、bの最大公約数ならばaとbを割切るので(a)+(b)⊂(g)は明らか。(a)+(b)に属する正の整数で最小のものをcとする。(a)+(b)に属する任意の整数をdとすると、d=qc+r、0≦r<cとなるような整数q、rが存在する。r=d-qcだからr∊(a)+(b)。この時0<r<cならばcの仮定に反するのでr=0。すなわちcは(a)+(b)に属する任意の整数を割切る。cは(a)+(b)に属したから、或る適当な整数 x 、 y が存在してa x +b y =cと書ける。a x もb y もgの倍数だからcはgの倍数でありg≦c。cはaもbも割切るからa、bの公約数でありc≦g。よってc=g。すなわち(a)+(b)∍g。これは(a)+(b)⊃(g)を意味し、先程の(a)+(b)⊂(g)と併せて(a)+(b)=(g

Don Blasiusによる志村五郎の思い出

志村五郎博士が2019年05月03日にお亡くなりになって早二年を迎えようとしています。私が志村博士の逝去を聞いたのは' 志村五郎博士著"The Map of My Life"のAppendixより"あの予想" 'を載せた直後ですが、日米の時間差を考慮するとほぼ同時間だったようです。その奇遇さには驚きました。 そして約一年後に Notices of the AMS が2020年05月に追悼記事 Memories of Goro Shimura (PDF)を掲載しました。これはDon Blasius博士を始めとする7人の数学者達が寄稿したものです。読まれた方もいらっしゃるかと思います。今回紹介するのはどれにしょうかと正直迷いました。7人の数学者達の寄稿すべてを紹介すると分量が多いので、ここは思い切って、志村博士の直弟子であり、7人の寄稿の中で一番長く、しかもいろいろな逸話も書いているDon Blasius博士の寄稿を選びました。この記事の中で私が部外者ながらも強く同意したのは、志村博士は書き方においてミニマリストだということです。つまり、余計なものを足さないし、かと言って余計には引かないことです。これは簡単なようで難しいことです。私が志村博士の英文を好むのはこれだったんだと納得しました。 いずれにせよ、その私訳を以下に載せておきます。なお、参考文献欄は例のごとく省いています。 [追記: 2021年04月01日] Memories of Goro Shimura (PDF)については他にも肥田晴三博士による追悼記事も追加しました。" Haruzo Hidaによる志村五郎の思い出 "を参照して下さい。 志村五郎の思い出 20世紀の後半の数論に大きな影響を与えた数学者、志村五郎は1930年02月23日に日本で誕生した。60年に及ぶ経歴に渡って、彼は新しい方針の研究を活気づけ、その分野の発展に中心的役割を果たす変革的発見を何度もした。志村は東京大学で学位を受け、東京大学と大阪大学で職位を占めた。彼は1964年から1999年に退職するまでプリンストン大学で教授だった。数多くの本と論文を著わし、1970年にGuggenheim Fellowship、1977年にCole Prize in Number Th

ツォルンの補題の使い方

私の友人共の一人が代数構造の講義を受け持った時に学生から訊ねられたことがある愚かな質問の一つが単位イデアルが素イデアルからも極大イデアルからも除外されている理由でした。そんなことはちょっと考えれば分かりそうなもんだがなぁと友人は嘆いてました。そこで、これに関して少しばかり解説しておきます。 可換環 R の単位イデアルと言うのは R そのもののことです。念のため素イデアルの定義を述べると、 R のイデアル I (≠ R )は、任意のa、b∊ R に対してab∊ I なら、a∊ I またはb∊ I が成立する時、素イデアルです。もし、 I ≠ R の条件を無視するなら R も確かに素イデアルです。ですが、そもそも可換環 R の話をしているのだから、前述の素イデアルの定義にそのまま当てはめると"任意のa、b∊ R に対してab∊ R なら、a∊ R またはb∊ R が成立する"は当たり前の話であり、何も言ってないようなものです。それでも R を素イデアルと見なすことに問題はなく、せいぜい素イデアルに関するいろいろな命題を述べる時にいちいち"単位イデアル R を除く"とかの但し書きが増えるだけでしょう。感染症対策みたいに最初の水際で遮断するか、後で症例が見つかるたびに隔離するかの違いだけです(どちらが面倒なのかは明らかで、水際で遮断出来るのがいいに決まってます)。 極大イデアルに関しても同様ですが、もっと深刻です。単位イデアルを極大イデアルと見なすと、いわゆる零環を体として認めるのかという話になります。単位要素を持つ可換環 R のイデアル I を法とする剰余環 R / I が体になる必要十分条件は I が極大イデアルであることは皆さんも御存知でしょう。ここで I = R なら R / R ={ R }となり、{ R }は零環{0}と同型なので、体の一般的定義の条件のうちの一つ、"体は零要素と異なる要素を持つ"ことに反します。そもそも、この条件は零環を体として認めたくないから体の定義に入っているのです。 以上で単位イデアルが素イデアルからも極大イデアルからも除外されている理由が分かったでしょう。二度とこんな下らない質問をしないことです。 さて話は変わって、今回紹介する記事はウィリヤム・ティモシ・ガゥワーズ卿のwe