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数学の'魔術的天才'ジョン・ホートン・コンウェイ、82歳で死す

皆さんも御存知だと思いますが、ジョン・ホートン・コンウェイ博士が04月11日にコロナヴァイラスによってお亡くなりになりました。ここに謹んで哀悼の意を表します。
享年82歳ということで死因がコロナヴァイラスでなければ、私も率直に受け入れられるのでしょうが、今世界中でコロナヴァイラスにより多くの方々が苦しんでいるので、米国政府は何をしていたのかと訃報を聞いた時、一瞬腹が立ちました。おそらくヴァクシーンが製造されるまで時間を要し、今は世界各国の政府は出来るだけ死亡者を少なくすることだけの消極的対応しか出来ないのでしょう。そして、現時点では決定的治療薬も無いので、罹患者に対する積極的治療は殆どなされておらず、自然治癒を期待するしかありません。そういう状況でコンウェイ博士は世を去りました。もうこれ以上、世界の英知を失うことは人類的損失です。皆さんも緊急事態宣言下での外出の自粛を守って下さい。情けないですが、今は家に閉じこもることが最善の方法だと肝に銘じて下さい。
コンウェイ博士の訃報の記事は海外ではいろいろありましたが、その中でもよく書けているなと思ったのがニューヨークタイムズでした。日本は志村けん氏の訃報が大いに報道されましたが、コンウェイ博士の訃報は殆ど無かったように思います。
このニューヨークタイムズの記事はJohn Horton Conway, a 'Magical Genius' in Math, Dies at 82です。この記事の私訳を以下に載せておきます。

[追記: 2020年04月22日]
この記事はまさに訃報記事です。訃報記事が出てから或る程度時間を空けて追悼記事が出て来ます。Quanta Magazine誌が割と早目に追悼記事を掲載しました。その追悼記事も"ジョン・コンウェイは素手で数学問題を解いた"で紹介しております。

数学の'魔術的天才'ジョン・ホートン・コンウェイ、82歳で死す
2020年04月15日 Siobhan Roberts

英国生まれでプリンストン大学のジョン・ホートン・コンウェイがニュー・ジャージー州のニュー・ブランズウィクで土曜日に死去した。彼は82歳だった。彼の業績は非常に高級なものから軽薄的に楽しいものまで多種多様であり、それらが彼に賞をもたらし、独創的で、偶像破壊的であり、更には魔術的であるとさえも称される天才として評判をもたらした。
彼の妻ダイヤナ・コンウェイは療養所でCovid-19[訳注: ご存知だと思いますが、新型コロナヴァイラスによる症状はWHOによってCovid-19と命名されました]により彼が死んだと言った。
コンウェイ博士の果てしない好奇心が数論、ゲィム理論、符号理論、群論、結び目理論、トポロジ、確率論、代数、解析、組合せ論などに深大な寄与を創造した。真っ先に彼は自身を古典幾何学者だと考えた。
"彼の刈りとった面積は今までの誰よりもおそらく広い"と数学者Neil Sloaneは言った。Sloaneはコンウェイ博士の共同研究者であり、The On-Line Encyclopedia of Integer Sequences[訳注: オンライン整数列大辞典]の創始者だ。"私は多くの人達と研究したことがあるが、彼が最も早く問題を解き、その範囲内でトピクを追求したものだ"。二人は50編の論文の共著者であり、706ペィジの本"Sphere Packings, Lattices and Groups"[訳注: "球充填、格子、群"]を刊行した。
コンウェイ博士が言うところの"驚愕の年"、すなわち大体1969年から1970年までの間に、彼はコンウェイ群として知られるものを発見した。コンウェイ群は24次元空間に存在する数学的対称の領域における実体だ。また、彼は新しいタイプの数、"超現実数"を発見した。そして彼は計算の数学モデルの中でも最も美しいものの一つである、細胞オートメイシュンGame of Life[訳注: ライフゲィム]を発明した。それを"競技者無しで永続する"ゲィムだと彼は言った。
彼の友人でScientific Americanの長年の数学的ゲィムコラムニストであるマーティン・ガードナはGame of Lifeをコンウェイ博士の"最も有名な発案"と呼んだ。彼はGame of Lifeがインタネット上でヴァイラスに変わり、常用者達が家や職場でそれをプログラミングする時、世界のコンピュータの4分の1がそれを実演すると考えた。
"コンウェイのGame of Lifeは私の人生を変えた"とミュージシャンのBrian Enoは電子メィルの中で言った。"コンウェイ彼自身はそれをかなりつまらないと考えたと思うが、私のような非数学者にとって、それは直感に対する衝撃であり、衝撃的な啓示、すなわち非常に簡単なことから出現する非常に複雑なことを見ること"。
コンウェイ博士が最も誇りに思っているのは超現実数の発見だった。スタンフォード大学のコンピュータ科学者ドナルド・クヌースは一般大衆向け小説"Surreal Numbers: How Two Ex-Students Turned on to Pure Mathematics and Found Total Happiness."[訳注: "超現実数: どのように2人の元学生が純粋数学に目覚め、大幸福を得たか"]を書いている間に、その名前を思いついた。
ガードナ氏から"ごまかしの驚くべき偉業"と言われたが、超現実数は元々の実数(整数、分数やπのような無理数)を含む他にも、無限大と無限小の両方を受け入れ、それらの上、超え、下、中を行うものもあり、数の超連続体である。
コンウェイ博士は超現実数が実際の応用、特に宇宙と量子規模の世界の解明におそらく役立つだろうことをいつも願った。
コンウェイ博士の業績のお気に入りの一つは自由意志定理だった。この定理は彼の友人でプリンストン大学での同僚である数学者Simon Kochenと共同で10年の過程を超えて何気なく概念化され、最初2006年(後に改訂されている)に発表された。
定理を簡単に言えばこうだ: 物理学者達が実験を行っている間に自由意志を持つならば、素粒子も自由意志を有する。そして、これは人類がそもそも自由意志を持つ理由と方法を説明しているだろうとコンウェイ博士とKochen博士は思った。
"数学と物理学において2種類の天才がいる"とKochen博士はプリンストンの家から電話で、物理学者リチャード・ファインマンに関してかって言われたことを繰り返して言った。"通常の天才達がいる。彼等はあなた方や私と似ているが、ずっと優っている。私達が一生懸命に頑張れば、同じ結果を得られるかも知れない。そして、それから魔術的な天才達がいる"と彼は付け加えた。"リチャード・ファインマンは魔術的な天才だった。同じことがジョン[訳注: コンウェイ博士のファーストネィム]についても感じた。つまり、彼は魔術的な数学者だった。通常の天才と言うよりもむしろ魔術的な天才だった"。

ジョン・ホートン・コンウェイは英国のリヴァプールで1937年12月26日に生まれ、Cyril とAgnes(Boyce)コンウェイの第三子であり、唯一の息子だった。彼の父親は独学して14歳で学校を卒業し、抜群の記憶力と共にトランプ競技者になった。後に彼はLiverpool Institute High School for Boysの化学実験室の技師となり、生徒達のために実験のお膳立てをした。生徒達の中にジョージ・ハリスンとポール・マッカートニがいた。

コンウェイ博士の母親は特にディケンズの熱心な愛読者で11歳から働いた。家族の伝承によれば、彼女は息子が4歳で2のべき乗を諳んじることを自慢したと言う。1956年、18歳で家を出てケィンブリジ大学に入学し、そこで博士号を得た。彼の指導教官である数論学者ハロルド・ダヴェンポートはコンウェイ博士に学位を授けるための解くべき問題を与えた時に"彼はもう一つ他の問題の素晴らしい解答を提出したものだ"とかって言った。
学生の時、コンウェイ博士は怠惰であること、ゲィムに興じること、何もしないことの定評ある生涯の偏愛を養った。彼の言うところの"オタク的楽しみ"によって容易に彼は錯乱するであろう。彼はガードナ氏の特別の計らいでかってフレクサゴンに嵌った。ガードナ氏はフレクサゴンを"真っ直ぐな又は曲がった紙の細長い一片から折りたたまれているので多角形はそれが曲げられる時の形状の変化に関する非常に美しい性質を持っている"と表現した。
コンウェイ博士は水力コンピュータを作ったが、それをWinnie(Water Initiated Nonchalantly Numerical Integrating Engine)と呼んだ。彼はW.W. Rouse Ballの古典的著作"Mathematical Recreations and Essays"のH. S. M. Coxeter版を読んで注釈をつけたが、Coxeterは長文の手紙を書いた。それは、これら二人の古典幾何学者の生涯の友情の始まりだった。
ケィンブリジ大学に講師として採用され、コンウェイ博士は彼の底抜け騒ぎ(彼のだらしない格好は言うまでもなく)で評判を得た。対称と正多面体について講義した時、彼はカブを小道具として持ち込み、それを一度に一片に切り分け、例えば20の三角形を表面に持つ20面体を作り、講義を進めながら切れ端を食べているかも知れない。"彼は学部で断然に最もカリズマ的講師だった"とケィンブリジ大学での同僚Peter Swinnerton-Dyerはかって言った。
コンウェイ博士はおびただしい数のゲィムを創案した。例えばPhutball(Philosopher's Footballの短縮形。それは碁の碁盤じまに少し似ている)のように。そして、それらをElwyn Berlekamp、Richard Guyとの共著で本"Winning Ways for Your Mathematical Plays"に集めた。
すべてのゲィムが大学院生達から成る忠実な支援者によってサポートされた。その大学院生達の中にSimon Nortonがいた。Nortonと共同でコンウェイ博士はモンスチュラス・ムーンシャイン予想を発表した。モンスチュラス・ムーンシャイン予想は196,883次元に存在する理解しにくい対称群を調べることだ。コンウェイ博士の博士課程学生のリチャード・ボーチャーズがこの予想を証明し、1998年に権威あるフィールズ賞を受賞した。
ケィンブリジ大学でコンウェイ博士は教授になった他にも、彼の母校であるゴンヴィル・アンド・キーズ・コリジの補助フェロゥになるまで出世した。1981年には王立協会の会員に名を連ねた。
1985年に4人の共著者と共に"The ATLAS of Finite Groups"を刊行した。この本は群論における最も重要な本の一つである。
同年、彼はプリンストンでの講演のため招待されたが、続いて職を申し込まれた。1987年、応用とコンピュータ数学のジョン・フォン・ノイマン職の地位に就任した。雇用宣言の中で、プリンストン大学長はコンウェイ博士のことを"今世紀の最も卓越した数学者達の一人である"と宣告した。
プリンストンでコンウェイ博士は茶目っ気のある魅惑的な雰囲気と共にニューズミーディアの注意を引いた。ニューヨークタイムズのリポータに彼の頭の活気について問われた時、"殆どの場合、何も思い浮かばない。頻繁にアイディアを持てるはずがないだけだ"と答えた。
彼は1992年に米国芸術科学アカデミの会員になった。新入会員である数学者Robert MacPhersonは式典でコンウェイ博士がグリーンのランニングパンツで登場して栄誉を受けたことを思い出した。

彼の最初の2つの結婚(Eileen Howe及びLarissa Queen)は離婚に終わった。
彼の妻に加えて、彼の最初の結婚からの4人の娘達Annie,、Ellie、Susie ConwayとRosie Wayman、二番目の結婚からの二人の息子達OliverとAlex、コンウェイ夫人との息子Gareth、そして3人の孫達と6人のひ孫達が遺族だ。

プリンストンで学生達に数学を専攻するよう説得するための一年間コースを殆どいつも彼は頼まれた。そして、彼は"Brick Wallの見つめ方"[訳注: Brick Wallはレンガ塀の意味ですが、プリンストン大学へ行ったことのある人なら御存知のようにレンガ塀が有名で現地では固有名詞になっています。と同時にここではBrick Wallを越えがたい壁や障壁の意味も暗喩的に含めています]とタイトルされたキャンパスツワ[訳注: ツアーなどのような馬鹿丸出しの表記を止めましょう。念のために注意すると発音記号は/tʊə/または/tʊr/(米語)ですので/ʊ/と/ə/(/r/でも同様)の間にリエィズンの影響で/w/が自然挿入されます]のような課外内容を提供した。
彼は夏(つまり、第一期研究時間)を数学キャンパスでの教育に譲った。彼のトークは"ジョン・コンウェイ時間 NTBA"(Not to Be Announced)として漠然と宣伝されていた事実にもかかわらず、彼はスターアチュラクシュンだった。学生達からの求めに応じたトピクを取り、事前準備無しの即席で講義をしたものだった。
数学は楽しくなければならないとコンウェイ博士は信じた。"私達が教えている数学が余りにも真面目過ぎると彼はよく思った"と数学者であり、キャナダ/米国数学キャンプ(高校生達のための国際夏期プログラム)の元執行監督のMira Bernsteinは言った。"彼等に馬鹿数学を教えない方がいいとも彼は言った。彼にとって楽しさは深かった。しかし、彼はお茶目が必ず、必ずそこにあると確かめたかった"。
コンウェイ博士は3重のバイパス外科手術、自殺未遂、そして何度かの脳卒中を経て、困難に屈せず楽しさを見出そうとした。時には彼は虹の科学または任意の与えられた日の曜日を計算するための彼の最後の審判ルールに関して聞く用意がある聴衆を楽しませたものだ。
そして、Phutballのゲィムはますます増えたが、コンウェイ博士はそれをあまり得意としなかった。時には、すべてが負けと思われた時(奇跡的に勝つかも知れないけれども、彼が殆ど確実に打ち負かされた時)、マーク・トウェインの言葉を借り、"私の死の報道は誇張されている!"と言って相手をたしなめたものだった。

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