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IMU Fields賞 2022 Maryna Viazovska インタヴュー

 前々から思っていたことですが、日本のアマゾンの洋書リヴューを何故か日本語で書く人がいることを私はずっと変だと思っていました。一体誰に読んで貰おうと想定しているのでしょうか。日本のアマゾンで洋書を注文して読むのは日本人だけだと思っているとすれば相当にお目出たいと言わざるを得ません。日本在住の外国の方を何人か知ってますが、彼等の日本語能力は一般的に日常会話では支障無いのですが、読み書きが余り出来ません。全部ひらがな、もしくはカタカナの文章なんて普通はあり得ませんから、どうしても読解に制約があるのです。彼等も日本のアマゾンで洋書を注文しますが、リヴューを読みたくても殆ど日本語なので参考にならないのです。但し、断っておきますが、発音するだけなら日本語ほどやさしい言語は世界にありません。何故なら、純粋な子音が存在しないからです。あ行以外は子音ではないのかと思っている馬鹿は以降を読まずにお引取り下さい。発音がやさしいから来日早々でも結構話せる人が多いのです。結局難しいのは日本語会話ではなく、読み書きの方なんです。特に手で漢字を書くことは外国の方には至難の業らしいです。ですから、洋書リヴューはその洋書の言語で書くべきであり、そうすることで日本語という特殊な言語の防波堤に隠れて好き勝手なことを喚いている卑怯者達と後ろ指を指されないことにも繋がります(と言うか、そもそも大学までも含めて少なくとも約10年間も英語を勉強したはずなのに、聞く話すは勿論のこと、読み書きすら出来ないのはおかしいと私の海外の知人達は言ってます)。そして、もしかして原著者がたまたま日本のアマゾンの洋書リヴューを見る可能性も皆無ではないでしょう。そんなことがあればリヴューワとして本望だと思います。 さて、今回紹介する記事は前回(“ 欠乏、そして戦争と平和の時代に一人のユクレイニヤンが数学に魔力を見つける ”)に続いてMaryna Viazovska博士のもので、“ IMU Fields Medal 2022 Maryna Viazovska Interview ”(PDF)です。このインタヴュー記事を読んで私が思ったことは二点あります。一点はViazovska博士はご自分の研究分野を幾何学だと自負していることです。これは意外でした。彼女の研究分野は数論、もっと正確に言えば解析的数論だと私なんぞは思ってました。もう

欠乏、そして戦争と平和の時代に一人のユクレイニヤンが数学に魔力を見つける

 数学に少しでも関心があるなら、ICM 2022においてMaryna Viazovska博士がFields賞を受賞したことは御存知でしょう。博士は女性で史上二番目の受賞者であり、ユクレイニヤンですから、日頃は下らない番組しか流さない日本のミーディヤもニューズ番組で少しばかり彼女のことを報じていたようです。ただ気になったのは、私の周辺の素人衆の中には賞選考の過程で政治的思惑があったのですかと訊く馬鹿がいました。その人は数学のことなぞ全く知らないので、おそらく日本の馬鹿ミーディヤの受売りでしょう(政治家とミーディヤは国民の民度を忠実に反映していることをお忘れなく)。Fields賞の公式発表はICMの開始の日に行われますが、受賞の内示はもっと早い時期にあります。今回で言えば、Viazovska博士はラシャのユクレイン侵攻が始まった02月24日よりもかなり前に内示を受けたはずです(私が聞いた範囲では大体01月中旬くらいには連絡が行きます)。だから政治的思惑云々は全くの的外れです。そして、そんなことよりもViazovska博士の業績の圧巻性がFields賞受賞となったことを知って欲しいので、今回紹介する記事はQuanta誌に掲載された In Times of Scarcity, War and Peace, a Ukrainian Finds the Magic in Math です。その私訳を以下に載せておきます。最後に、 Glory to Ukraine! I always stand by you. [追記: 2022年07月21日] Maryna Viazovska博士については“ IMU Fields賞 2022 Maryna Viazovska インタヴュー ”も参照して下さい。 [追記: 2023年05月16日] Maryna Viazovska博士については他にも “数学問題は親密なものだ” があります。 欠乏、そして戦争と平和の時代に一人のユクレイニヤンが数学に魔力を見つける 2022年07月05日  Thomas Lin ,  Erica Klarreich 母国が戦争で苦境に陥りながらも、球充填数論学者のMaryna Viazovskaは86年のFields賞の歴史の中で2番目の女性受賞者になる。 Maryna ViazovskaがFields賞(数学者

数学者達が数学事項を互いの名前に因んで命名することを止めるべき理由

大学院前期課程もしくは修士課程の数学系の入試は大学によって多少は異なりますが、少なくとも数学と英語の試験があります。少し前に私の友人共の一人が英語の試験の担当になったことがありました。数学系の入試なので、英語と言っても難読な長文読解はありませんが、英作文は少なくとも一題は出題されます。その友人が出題した英作文の問題が以下です(問題文の英文は私が友人から内容のみ聞いて書いたものですので文責は私にあります)。 (問題) If A and B are the subsets of real numbers such that A ⊃ B, respectively, then it follows that sup A ≧ sup B. Here, we mean the least upper bound of A  by sup A and the least upper bound of B by sup B. Write its proof in English. 断っておきますが、あくまで英作文の出題であって、数学の出題ではありません。証明すべき命題も“日本の首都は東京である”並みの常識事項です。ところが、友人の話によれば英作文ということで受験生達はまるで平常心を失ったかのように書くべきことを書いてなかったそうです。もっと詳しく言うと、上記の問題文中のAが上に有界でない場合とBが空集合の場合を完全に失念した受験生が多かったそうです。ともかく、初学者のために解答例を書いておきます。 (解答例) If A isn't bounded upwards, whatever B, it follows that sup A ≧ sup B because sup A = +∞. If B is empty, whatever A, it follows that sup A ≧ sup B because sup B = -∞. Hereafter, suppose that A is bounded upwards and B is not empty. If sup A < sup B, because of the definition of the least upper bounds, at least one element b exists in B

まだラシャが主要コンフレンスを主催するかも知れぬことに数学者達は怒る

 集合・位相の講座を担当したことのある友人の話によれば、最近の学生達は変な所に拘りがあるらしいです。もっと辛辣な言い方をすれば、馬鹿みたいにどうでもいい所に拘り、先にはもっと重要なことや学習すべきことが多くあるのにもかかわらず、停滞して成績も芳しくない学生が多いということです。以下、位相の話を少しばかりしますが、位相の公理が開集合系から始まる理由については、前に紹介した" エミー・ネータ告別式におけるヘルマン・ヴァイルの弔辞 "の前置きで触れましたので、ここでは繰返しません。 さて、友人は講義の一番最初に大体以下のような誰もがお馴染みの定義から始めました。 集合を要素とする集合族ℱが以下の条件を満足するならばℱを位相、ℱの要素を開集合と呼ぶ。 (1) ℱの任意の部分族に属する要素の合併はℱの要素である。 (2) ℱに属する2つの要素の共通部分はℱの要素である。 (3) ℱに属するすべての空でない要素の合併 X はℱの要素であり、 X は位相空間と呼ばれる。空集合∅もℱの要素である。 この友人が言うには、或る学生はこの(3)を定義に置いたことに甚だ御不満のようで、やたらとブルバキ、ブルバキと錦の御旗のごとく連呼してブルバキでは(3)を含めていないと言ったらしいです。友人はその学生に(3)を含めたら誰が困るのか、むしろ(3)が無いとグレィゾゥンのように変な解釈をするかも知れない学生達にはよっぽど(3)は教育的かつ明確でいいではないか、君は最小系選手権にでも出場するのかいと思いっきり嫌味を言ったようです。 確かに(3)は(1)から自明的に導き出されますが、(3)が無ければ、どこかで命題又は系として∅と X は開集合であることを別途説明しなければならないし、ブルバキのように紙面の制約も無くだらだら長々と書ける結構な御身分ならともかくも、一般的には制約があり、ほんの少しでも紙面を節約するのが普通です。いくら自明的に導き出されるとは言えども「∅と X は開集合である」という趣旨の文章よりも確実に長くなりますし、こんな下らないことに証明または説明のために紙面を浪費するよりも、簡潔に定義に含めておけば教育的にもいいと私も友人の考えに賛同します。因みに(1)から(3)を導出してみます。∅はℱの部分族でもあるから(1)より零個の要素の合併はもちろん∅だから∅はℱの要